48.授かりし者たち
あっという間に三日が経っていた。
というのも、レオナルドと話した直後に気を失ってしまったのだ。彼女がいうには、傷は治っても蓄積された疲労をすぐに取り除くことはほぼ不可能らしい。
それでも目を覚ました直後、キラは今までにないほど身体が軽く、何とも言えない開放感を感じた。全身をがんじがらめにしていた鉄の鎖が解けたかのようだ。
いたるところに刻まれていた傷も、全て完治していた。見たところ、ドラゴンが残した深い方の傷もなくなっている。
キラは勢い良く立ち上がろうとして、しかし慌てたレオナルドに押しとどめられた。
「おっと。まだだめだ。いきなり起き上がったら面倒なことになるぞ」
真剣な声で言われ、浴槽の中で座り込む。確かに、立ち上がることもできないくらいに頭がくらくらとする。
目をしばたたかせ、そのめまいに打ち勝とうとしていると、隣で膝をついたレオナルドが浅黒い腕を伸ばしてきた。手には水の入ったコップが握られている。
「今、お前さんの身体は空っぽだ。この三日間、飯どころか水すら飲んでいないんだからな。まずは水分補給。そのあとに飯。風呂から出るのはそれからだ」
キラは仕方なく座り込み、渡されたコップをあおった。冷たい水が喉を通り、不思議なことに、急激に喉が渇くのを感じた――もっと水が欲しくなる。
レオナルドはそれが分かっていたかのように微笑み――その瞬間、この〝元〟男を女性として扱うことにした――、コップを差し出すように合図した。指を振り、すると、たちまち水球が現れチャプンとコップの中に落ちた。
その光景は、ユースやエーコがやってくれたものと全く同じで、しかし全然違っていた。指を振って水ができるまでの速さが、比べるまでもなくレオナルドの方が優れていた。
五杯ほど水を飲み、ようやく体に潤いがもたらされたことで、今度は空腹を感じた。妙なもので、自覚すると同時にお腹の虫が騒ぎ出した。
まるで雷のような音が水の中から響き、キラは顔を真っ赤にして慌てて問いかけた。
「あの! ここはどこなんです?」
「お前さんの知らない遠いところさ。少なくとも、グストの村からはうんと遠い。そんでもって、この部屋はオレの地下研究部屋だ――ちなみに、外は極寒だから、勝手に出かけようなんて思うなよ?」
レオナルドはくすくすと笑いながら、つと立ち上がった。「ちょっと待ってな」と言い残して、部屋から出ていく。
魔法陣のある部屋――地下研究部屋は相変わらず暗かった。キラの頭上にはいくつかの火の玉が躍っているが、それは以前のものとは違ってさほど光量はなく、部屋の隅の方までは光が届いてなかった。その代わり、ずっと見ていたいような温かみがある。
どうやらレオナルドは、眠っている間ほとんどつきっきりで看ていてくれたらしく、浴槽の隣には濃厚なコーヒーの香りが漂う彼女の空間ができていた。部屋の隅にあったテーブルが、浴槽にぴったりとくっつけるようにして移動している。
座ったままでも、テーブルの上に新聞やら資料やらが積み上げられているのが見えた。裁縫をしていたらしい、布切れと糸くずもある。そして椅子の下には、レオナルドのものと思われる女性の下着が丸めて放置されていた。
何とも言えない乱雑さを見て、彼女はやはり〝元〟男なのだと再認識した。レオナルドの性別を考えていると、頭が混乱してくる……。
キラは極力椅子の下を見ないようにしていると、色々な何かを従えたレオナルドが鉄扉を開いて部屋に戻ってきた。彼女が近づくにつれて、その何かはパンや肉塊や生野菜が盛られたいくつもの皿であり、魔法で浮かんでいるのだと分かった。
「お前さん、道中は何を食べてた?」
「なにって……干し肉とか、スープとか……」
「だめだ、だめだ。もっと食わねえと。野菜やら何やらで栄養を取るのもいいが、まずは肉だ――乾燥させたもんじゃなくな。お前さん、貧弱なんだからよ」
「ひ、貧弱って……」
「実際に隅々まで触って確かめたんだから間違いねえ」
レオナルドはテーブルやら脱ぎっぱなしの衣類やらを魔法で浮かべ、乱雑に暗がりのほうへ追いやり、椅子を浴槽に引き寄せて座った。そして再度魔法を使う――ただ単に、指を一回振って。
すると、彼女の周りで肉や野菜や皿やナイフが浮かび、動きだした。
まるで夢の中にでもいるかのような光景だった。ナイフが躍るように肉を切り、小分けにされた肉はひとりでに浮上し、天井近くにある火の玉の周りをくるくる回って炙られる。絶妙な具合で焼目を入れられた肉は、やはり自ら動き出して皿の上に。
魔法のみで行われる調理だ。
唖然としていると、一口サイズの焼肉が綺麗に並んだ皿が目の前に滑り込んできた。いつの間にか塩と胡椒がかけられている。いい匂いがしてきた。
「ほれ、食え。んで、太れ。脂肪と筋肉をつけろ。長生きできねえぞ」
キラは再びお腹が大きく唸るのを聞いて、手元に飛んできたフォークを取った。
しばらく夢中でがっつき――ふとレオナルドの姿が目に入る。
足を組んで座った彼女はとても大人だった。左手の新聞を読みふけり、右手のコーヒーカップを口元に持っていく。時折、カップから手を離して宙に置き、指を振って浮いている皿を引き寄せる。皿に乗った硬そうな丸パンが瞬時に切り分けられ、どこからかやってきた瓶詰のジャムがひとりでに塗りたくられる。
レオナルドはうまそうにそれを頬張り、キラはまたも見慣れない光景に唖然としていた。
「ん、こっちも欲しいか? やるぞ? 食え」
「ああ、いや、そういうわけじゃなくて」
「戦士が最も恐れるのは体力切れだ。今のままだと、お前さん、ドラゴンと再度やりあうことになったらすぐに何にもできなくなるぞ」
有無も言わさず。まだ多くの肉きれと野菜が残る皿の隣に、その倍はあろうかという量のパンが盛られた皿が並んだ。
彼女の言うことももっともだと無理やり納得し、キラは手渡されたパンにかじりつく。苦労しながら噛み応えのあるパンを喉に押し込み――ふと思った。
何でドラゴンと戦ったことがあるのを知っているのだろう? 話した覚えはないのに……。
それ以前に、彼女は何も聞いてこない。まるですべてを知っているかのように……。
ちらりとレオナルドの浅黒い顔を盗み見たが、彼女の表情からは何も読み取れなかった。
「ああ、そうだ。お前さんに言っとかなきゃならないことがあるんだ」
レオナルドは新聞から目を離さず、ぽつりとつぶやくように言った。
キラはびくりとして、食事に集中する振りをする。
「お前さんの身に起きたことはすべて把握しているつもりだ。傷の具合やら、ここに現れた状況やらからな」
「そうなんですか?」
「実をいうと、かなり言いにくいことなんだがな。隠しても仕方がない」
レオナルドは新聞をポイと放り投げ――新聞は空中でふよふよと留まった――、胸がはだけるほど前のめりに顔を近づけ、真剣な顔で続けた。
「ブラックはオレの弟子だ」
「……え?」
彼女は何と言った?
ブラックとは何者だったか?
そんなことは考えるまでもなかった。
エマール領タニアの円形闘技場。そして王都近郊の森。
たかが二回――だがその両方とも――恩人を苦しめた人物だ。リリィをその手にかけようとし、あの優しき老人を死に追いやった張本人だ。
はっ、とキラは浅く息を吐いた。身体が沸騰しそうなほど熱くなっている。粗く呼吸を繰り返し、水面すれすれまで顔を近づけ――その鏡のような水面に、自分の赤い瞳が映った。
「落ち着け、という気はないがな。だが――ちょっと見せてみろ」
レオナルドが伸ばしてくる手を払いのけようとしたが、直前に魔法にかけられたのか、どうやっても身体が動かなかった。
彼女の滑らかな指が顎にかかり、ぐいと持ち上げられる。〝元〟男の端正な顔が、真正面に見えた。
「赤い瞳……? どういうことだ――こんな――瞳の変色などヴァンパイアしか……」
レオナルドは眉をひそめて怪訝そうにしていた。
何かぶつぶつと呟き、徐々に困惑をあらわにしていたが、そんなことはもうどうでもよかった。
綺麗な頬笑みをたたえ、頼もしい男らしい表情をするその顔が、キラには何か別のものに見え始めた。決して良くない――いうなれば、敵であるようにも思えた。
「いや、竜人族ならば、あるいは……。だが――やはり、〝覇〟なのか?」
「はなせ……」
キラはかすれた声で言ったが、レオナルドは意に介さずまじまじと瞳を見つめてきていた。そして、水の中に腕を潜らせて、体の隅々をまさぐってくる。
「うむ。〝神力〟とは違う波がある。危ない橋を渡ったものだが……感情の琴線に触れて正解だった。今はくっきりと判別できる」
「はなせ……!」
「悪いが離せないな。考え事をしているんだ。――さあ、どこまで考えたかな……。そう、〝覇〟がどう作用しても、瞳には全く影響がない。となると……?」
彼女の謎の調査はしばらく続いた。
早口で呟いては、頭を振るってその可能性を削除する。
そんなレオナルドの様子を見て、キラは疲れてきた。とめどない怒りをぶつけても、彼女はことごとく躱していく。
「じゃあ、なぜヴァンパイアの瞳は変色する? ……まいったな。奴らについてわかっていることなんてほとんど――それこそ、もう一つの人格が存在しているとしか――」
レオナルドはハッと何かに気づいた顔つきをした。彼女の黒い瞳の中に、ひらめきと納得の光が輝いている。
彼女はより一層――鼻がくっつくほどに――顔を寄せ、静かに言った。
「お前さんは、誰だ? 誰が、お前さんの中に住み着いている? オレのこの天才的な頭脳が、答えを欲している」
その声は、何とも奇妙なものだった。口が開く様子と、耳に届く声の様子が一致していない。まるで別の言葉を同時に聞いているようだった。
すると、キラは脳が揺さぶられる感覚に陥った。ぐらぐらと体が揺れ、足元から崩れ落ちていくような恐怖がある。
思わずうめき声が漏れ、そして、
「あなたには……関係ないでしょう……」
自分のものではない、『誰か』の声が喉の奥から発せられた。
気味が悪かった。自分の知らない声が――振動が――喉から音を震わせている。
言いしれない悪寒が、背筋を伝って全身へ這いまわる……。
「まいったな……。予想は的中したが、女の声とは……ますます訳が分からなくなってきた」
気づいたときにはキラは、レオナルドから顔を背けるようにして浴槽の外へ食べたものをぶちまけていた。
「う……ぐぅ……」
「おっと! 悪い、無理させちまったな。ほれ、気にせず全部吐け。まだ飯はある」
全てを出し終わるまで、レオナルドは背中を撫で続けていた。
キラはそれを払いのけることもできず、縁に寄りかかり、荒く呼吸をする。
「もう一度言うが、ブラックはオレの弟子だ。だがオレは、あいつが帝国にいることを許しちゃいない。……すでにオレの手元から離れて暴走してるんだ」
レオナルドは他人事のように、ただ淡々と語った。
キラは――自分が吐き気の波で疲れているからかもしれないが――、彼女がひどく疲れた声をしていると思った。
「だが、実をいうと……あいつがディの奴を殺してしまう――少なくとも殺し合うだろうことは分かっていたんだ」
〝奇才〟と呼ばれる彼女のほうを見ると、どこかやりきれないものを抱えた表情をしていた。何かが悔しいのか、唇を噛み、血が流れている。
キラの視線に気づいたレオナルドは、ふるふると頭を振るって、全身から力を抜いて続けた。
「ブラックは――というよりブラックもお前さんと同じ〝授かりし者〟なんだよ」
彼女の言葉は、さほど驚くものではなかった。むしろ、納得のいく事実だった。
ブラックという名の白髪赤眼の男は、エマールたちの仕掛けた腹立たしい採用試験で、彼女の燃え上がる紅の炎を何かで遮っていた。〝不死身の英雄〟を相手にして追い詰めることが出来たのも、〝神力〟によるものなのだろう。
再びふつふつと沸き上がるものを感じたその時、目の前に水の玉が現れた。レオナルドの魔法だ。口の中がひどく不快なことに気づき、キラは無我夢中でその水玉に顔を突っ込んだ。
「おお、溺れるなよ」
何度も口をゆすぎ、ようやく落ち着いたところで浴槽の中に身を沈める。
キラは注意深くレオナルドを観察しながら、口を開く。彼女は大量の水の玉を浮かべ、吐しゃ物が散らばった石床を綺麗にしていた。
「……それで、分かっていた、とは?」
「そういう運命だったってことだ」
「運命?」
「〝授かりし者〟たちは、遅かれ早かれ、互いを殺し合う。何の冗談か、遠くにいてもお互いをひきつけ――出会い――殺意もなく殺す」
キラはレオナルドの言葉を受け止め、咀嚼し、飲み込んだ。
不意に、ブラックの剣が老人の腕を切り離す光景を思い出す。同時に、執拗にその命を狙っていたことも。
「じゃあ、ランディさんが殺されたのは仕方がなかったと? あいつは、殺す気がなかったと?」
「それは本人のみぞ知ることだ。ただ、あいつが殺さなかったとしても代わりがいる」
「どういう――」
「いずれは、お前さんがディを殺していたかもしれないってことだ。あるいは、ディに殺されていたかもしれない」
キラはまじまじとレオナルドを見つめた。
黒い髪の毛はつややかで、天井近くにある火の玉でつややかな輝きを放っていた。浅黒い肌にはシミの一つもなく、唇は薄く、柔らかそうだ。顎が小さく端正な顔立ちで、特に茶色の瞳は形も大きさも際立って美しかった。
そんな彼女の顔には、冗談の一つも含まれていない。
本当なのだと悟り、キラは愕然とした。
「ある場所に、三人の〝授かりし者〟がいた。その内、誰かが必ず死ぬ運命にある」
ブラック――ランディ――そしてキラ。
「最良の結果なんてものは存在しない。起こるものは起こる。イカサマみたいなもんだ――ただ、神サマが指さした奴が死ぬ」
生き残ったのはキラとブラック。
「そして、残った二人が殺し合う」
そして、その時にどちらが生き残るのか。
考えるまでもなかった。
「さて。お前さんにこんな話をした理由は一つだ」
レオナルドは浴槽の上にまで身を乗り出し、真剣に表情で、囁くように言った。
「あいつを止めてくれ。最悪の中でも、最良の選択をするんだ」




