47.くそじじぃ
◇ ◇ ◇
〈あなたが旅に出ると決めたのは、現実逃避のためでしょう?〉
内なる『誰か』に、はっきりとそう言われたのを憶えている。
いや――思い出したというべきか。
〈旅をすることで、あなたが抱えている一番厄介な問題から目をそらそうとしたのでしょう?〉
初対面だというのに、そんな厳しい口調だった。
〈あなたが記憶喪失でも、誰も困りはしないわ〉
だが、不思議と反感はわかなかった。
なぜなのかは、今になっても分からないが……。
〈目を逸らせば反らすほど、苦しむことになるのは誰でもないあなたよ〉
これが、エマール領タニアの闘技場での出来事だった。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、少し遠くのほうに火の玉があった。ぱちりぱちりと空気を燃やしつづけるそれは、絶妙な温かさを届けてくれている。
ほっ、と思わずため息をつき――そのことで、キラは自分が水の中にいるのではないのかと錯覚した。
どこか息苦しさがあり、息をするたびに波打った水が頬を叩いているのに気が付いたのだ。
だがそうではなく、たっぷりと水の入った浴槽で横になり、力なく浮かんでいるのだと分かった。ついでに、自分が何も着ていない、正真正銘の素っ裸であるということも。
目の前の火の玉が気になって力を込めて腕を上げてみると、水の中へ沈んでしまったのだ。
「ごほ、げほっ」
水しぶきを上げて立ち上がり、濡れた顔を何度も何度も掌で拭う。
ようやく落ち着いてきたところで、まじまじと自分の腕を見つめた。
包帯も傷もやけどもない普通の腕に、どこか違和感を覚えた。いまだ滴を垂らす全身を確認して見ても、傷らしい傷はない。ただ、肩にえぐられたのだと分かる赤く生々しい傷跡があるだけだ。触ってみると、ぷくりと膨れているのが分かる。
すると、胸がズキリと痛むのを感じた。肩から心臓辺りに手を移動させると、そこもやはり細長いふくらみがあった。
肩の傷とは違い、指で触れると胸を突くような痛みが襲ってくる。
思わず顔を歪め、うめき声が漏れた。
そこで、自分の中で眠っていたものがふつふつと沸き上がるのを感じた。
炎の中――雷――老人の声――。
「お。目を覚ましたみたいだな」
すべてを思い出そうとしたとき、どこからともなく声が降ってかかった。乱暴な口調ながら、綺麗で透きとおったそれは若い女性のものだと分かる。
どこにいる? 無意識に警戒して辺りを見回していると、ボッ、と真横で炎の燃える音がした。それとともに、ただ唐突に、ローブで体を覆った黒髪の女性が現れる。
キラは心臓が止まる思いをして――その際にあの違和感とは違う痛みが走った――、悲鳴もなく後ずさりした。と、浴槽の縁にひっかかり、後ろに倒れていく。
そこを黒髪の女性がとめてくれた――らしい。彼女は、実際には手を伸ばしさえしていなかったが、ピンと伸ばした指を向けてきている。
「おっと、慌てないでおくれよ。オレは敵じゃないし、お前さんの事情も把握しているつもりだ……。何より、倒れられたら今までのことがパアになる」
女性は伸ばした指を慎重に浴槽のほうに向け、すると、キラの身体はひとりでに水の中につかり始めた――抵抗しようにも、締め付けられたようにピクリとも動かない。
その間に、天井近くの火の玉に異変が起こった。ぶるぶると震えたかと思うと、分裂し始めた。一つ、二つ――徐々に増えていき、それらは部屋全体を力強く照らした。
「よし……。気を付けてくれよ。お前さんの身体はまだまだボロボロなんだからな。肌が何かに擦れでもしたら、すぐに血が噴き出しちまう。たとえそれが柔らかい絹の布でもな。慎重に慎重を重ねる治療だ……」
明るくなった部屋には、窓一つ見当たらなかった。部屋の壁一面、こまごまとしたガラス瓶が並んだ棚と古びた本棚で埋められているのだ。
そうでなくとも、外界とのつながりを断ち切るように空気孔のような小さな穴すらなかった。女性が入ってきたらしい、鉄扉が一つあるのみだ――その扉は不気味にも、牢屋などと同じような鉄格子をはめられたものだった。
棚以外の調度品も最低限しかない簡素な部屋の中でもひときわ目立つのが、石床に刻まれた大きな魔法陣だった。オービットの〝転移の間〟の魔法陣と同じように、刻まれた線に青白い粉が敷き詰められている。
キラが肩までつかっている浴槽は、この魔法陣の端のほうに位置していた。
「といっても、確率された治療法じゃないんだ――独自療法ってやつだな。お前たち専用に考えたもんだ。実践は初めてだが……まあ、理論と研究の勝利だ。上手くいって良かった」
黒髪の女性は男らしい口調でぶつぶつとつぶやき、真剣なまなざしでキラの全身を見回した。水面に鼻が触れるまで――そしてキラの肌に唇が触れる寸前まで顔を近づけ、まじまじと観察する。
キラは何とかしてその嘗め回すような視線から逃れようとして――見てしまった。
女性の格好は、はたから見れば魔法使いだった。闇に紛れるような真黒なマントで全身を隠している――だから、唐突に現れたときに余計に驚いてしまった。
キラの記憶にある魔法使いたちは――オービットでドラゴンに仕掛けた彼らや、王都の門近くの慌ただしい騎士たちの中に混じっている彼らは――全身を覆うように、胸元までぴっちりと着込んでいた。
だが彼女は、だらしなく開いている。数あるボタンを胸あたりのところしか止めていないようで、上半身を倒して前のめりになっているため、綺麗な浅黒い肌がすべて見えている。火の玉が強く輝いていることもあって、余計に。
正直にいって、リリィよりも……。しかし輝かしいまでの肌の白さでいえば……。
出会い始めに偶然目撃してしまった彼女の素肌まで思い出してしまい、キラは雑念を吐きだすように、咳き込みをした。呆然として口を開けていたら、口元のすぐそこまで迫っていた水面から水が一気に入り込んできた。
「おいおいっ、言っただろう、どこか擦りでもしたら死ぬぞ――おや?」
黒髪の女性は慌てて指を振り、魔法でキラを動かないよう強く拘束して――見た。キラの目をみて、その視線をたどって自分のマントの内側に目をやり、それから……。
キラはそれがいやで、ますます暴れる――が、結局指も動かず、疲れ果てて水に身を任せた。
「おお、これはこれは……。女の身体がどれほど男の毒になるか忘れていた。いや、すまないな」
女性は見られたにもかかわらず、からからと笑っていた。
無粋で、それでいて馬鹿にしたような態度の女性を、キラは八つ当たり気味に睨み付けた。
「おっ、裸を見たくせに偉く生意気だな。いいぞ、その意気だ。ほれ、何か言ってみろ」
「べつに僕は……思い出しただけで……」
キラは怒鳴りつけるように腹に力を込めたつもりだったが、情けなくもかすれた声しか出なかった。
それを見た黒髪の女性は、途端に優しい顔つきになる。
「よし、声は出るみたいだな。体も動かせるみたいだが……まだ一日は安静にしていることだ」
男にも負けないほど勇ましい顔つきから、女性が見せる――例えばリリィのような――母性に満ち満ちた微笑みへと変わっている。
まるで別人のようで――どこか、ランディにも似た和やかさがある……。
「あ……」
その時、ある場面が唐突によみがえった。
胸から刀が生え――痛烈な痛みが走り――振り向くと、左腕を失った老人……。そのくしゃくしゃな顔はいつもよりくしゃくしゃで、悔しそうで、それでいて笑っていた。
そして、消えゆく視界の中――老人の身体もまたボロボロと崩れるように……。
「おっと。思い出しちまったか? 記憶への扉ってのはどこに鍵があるかわからないのが厄介だな……もうちょっと忘れてくれていた方が整理もしやすかっただろうに……」
ランディが死んだ。
死んだ……。
死……。
「ほれ、男が泣くんじゃない」
パチンと耳元近くで手を叩かれ、キラは緩慢な動きで視線だけを向けた。
頭が混乱して、本当にあの優しい老人が死んだのか理解できなくて――すっきりした頭で理解することを恐れて――濁った眼でまじまじと黒髪の女性を見つめた。
浅黒い肌を持つ彼女も、耐えがたい痛みにこらえるように頬をひきつらせている。何度か震える瞬きをして自分を納得させるように頷くと、次には男らしい笑みが戻っていた。
「いいことを教えてやろう。お前さん、〝三人のキサイ〟は知ってるな?」
ぐっと顔を近づけて囁いてくる女性に、キラは何も反応しなかった。
「知らずともわかるさ――何せ、このオレがそのうちの一人、〝奇才〟レオナルドなんだからな!」
レオナルド……。ぼんやりとした頭でその単語を繰り返す。
頻度は少なかったが、ランディが呟いていたような気がする……。
その場面を思い出そうとして――ぐっと口をつむんだ。涙をぬぐいたくても、手は全く動かなかった。
すると、じっと見つめてきていた黒髪の女性――レオナルドがさらに顔を寄せて唇で頬に触れてきた。涙をすくい取るように、ちゅ、と。
「今キスをしたのは男だ」
「男……?」
「元男だ。聞いて驚くなよ。世の変態じじぃたちが喉から手が出るほど欲しいであろう代物を開発し、そしてその実験の果てにオレはこの体を手に入れたのだ――『若返りの薬』と『女体化の魔法』でな! つまり、この超絶美女のオレも、もとはクソジジィ〝だった〟ってことだ」
レオナルドの言葉が耳元でビンビンと響く。その内容は理解できそうにないほど、頭も心もぐちゃぐちゃとしていたが、無理やり押し込められたように頭の中に入り込んできた。
若返り? 女体化――男が女に……?
「そしてそして! 〝不死身の英雄〟ことランディという名の男は、オレの古馴染だ」
軽い口調ではあったが、その言葉の端々には哀しさと辛さと後悔のようなものが入り混じっていた。
キラははっとしてレオナルドに目をやる。彼女は――少なくとも女性の見た目をした彼女は――にやりと不敵に笑っていた。が、その頬が若干ひきつっている。
「ふふん。証拠が欲しいか? 立証は出来んが、きっとお前さんは理解できるはずだ――なにせ、オレとお前さんは〝グストの村〟で一度顔を合わせている」
村で? ランディやユースやエーコ以外の――あの時はまだユニィの声は聞こえなかった――誰かと話をしただろうか?
目覚めたころの記憶を呼び起こそうと、キラはまじまじとレオナルドを見つめた。
「あの時は確か――そうだ、ディの娘がまたドジをやらかしたらしいな。床が灰と水まみれになっていたな。で、お前さんと顔を合わせて、ディはこう紹介したんだ。『わたしの古馴染だよ』ってな」
――思い出した。王国の地理と〝神の魔法〟の重要な関係を教えてもらっていた時に、急な来訪があった。その時、この浅黒い肌を持つ美女が紹介されたのだ。
とても印象的な出会いだった。
手持無沙汰となっていたキラは、今でエーコとユースの手伝いをしていた。二人が部分的に〝水吸い取りの魔法〟を使い、キラが床にこびりついた灰をヘラでそぎ落としていた――のだが、ふとした拍子に水浸しの床に転んでしまったのだ。
その瞬間にレオナルドがやってきて――にこりと微笑んで、指を一回だけ振った。
すると、床に散らばっていた水と灰が空中の一点に集まり、塊となった。気が付くと、灰と水塗れになっていたキラも、まるで何もなかったかのように乾ききっていたのだ。
「あいつを知る人間としていっておくが……」
レオナルドはひどく優しい声で続けた。
「あいつはクソジジィだ。自分で何もかもを決めて、他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えねえ……頑固者だ。偽善者だなんだと言われようと、親切を人に押し付けるような奴だ。そいつが迷惑に思っていようと、あいつは何とも思わねえ。ほとんど後先考えてないからな」
その声音には先ほどのような後悔の念などはなく、昔を懐かしむような響きがあった。
「だから……まあ……貰った命は受け取っておけ。それが供養にもなる。これだけは言えるが――お前さんが泣いて悲しんでも、あいつは嬉しくとも何とも思ってねえよ」
ぐりぐりと頭を撫でられ、キラは無言で頷いた。
レオナルドも悲しいはずだ。古馴染を失ったのだから。そんな彼女が涙を見せずにいるのだ――泣いている場合ではない。
「――で。お前さんは、今はまだ動ける状態じゃねえ――もっと言えば、動けない状態でも何かに触れると危険な状態だ」
「じゃあ、もう治らないんじゃ……僕は……」
「治癒の魔法が効かないんだろ? 〝授かりし者〟たちの特徴の一つだ。ただ、それは直接的な魔法に対してであって、間接的ならば、時間はかかるが方法はいくらかある。お前さんの浸かってる『回復風呂』もそうだ」
キラは顔のそばまである水面を見つめた。火の玉に照らされた水は淡い緑色をして、少し濁っている。時折小さな何かが浮き上がってはどこかへ消えていくが、すりつぶした薬草なのだという。
「話を戻すと、お前さんが無意識でも全く動けないように、ちょいと特殊な魔法でがんじがらめにしてる。健康な状態に戻るまで液体漬けだが……我慢してくれ」
「……ありがとう、ございます」
レオナルドはニカッと笑い、頬を撫でてきた。本当に元男なのかというぐらいに、すべすべな手だ。
「〝授かりし者〟の治療には慣れてるからな。まかせろ」
「慣れてる……?」
「ああ。ディも〝神力〟が開花するまで、お前さんと似たような状態だったんだよ」
キラは液体の中でぷかぷかと浮かび、頭上の火の玉をぼんやりと眺めながら、ふと思い出した。
それはランディがほんの少しだけぼやいたことだった。鼻につんとしたものが上ってくるが、どうしても聞きたくて、我慢して口に出した。
「ランディさんが……前に、『〝奇才〟の研究に協力していた』って……。〝神力〟の開花のさせ方を、知っているんですか?」
老人は生前、〝神力〟について異様にこだわっていた。あの短い旅の道中でも、常に考えていたように見えた。特に、〝旧世界の遺産〟の小さなお守りを渡してきたときは、どこか覚悟めいたものを感じた。
それほどこだわっていた〝神力〟に、キラもこだわらなければいけない気がしたのだ。なんといっても、自分のことなのだから……。
「知ってるっちゃ、知ってるな。なんせ――」
レオナルドは答え、しかし途中でごまかすように咳き込んだ。キラが怪訝に思って見上げていると、彼女は頬をひきつらせて微笑んだ。
「まあ、知ってはいるが、まだ教えてやることは出来ねえな。何をするにしても、身体をなおしてからだ」
キラはその様子を見ながら、彼女が何をいおうとしたのか懸命に考えた。
最後のほうの声にならない単語が、ちらりと聞こえたのだ。
『オレ』、とだけ……。




