46.〝神の魔法〟
◇ ◇ ◇
とても、真っ暗な中にいた。
右を見ても、左を見ても。見上げても、見下ろしても。
果てのない荒野にいるかのようだった。自分が座っているかどうかさえ分からない。
〈さあ、直視しなさい。これがあなたの弱点よ〉
真っ暗闇の中で、一つ、凛とした声が響く。
無限に広いと思われた空間は、実は狭かったことに気づいた。
姿なき『誰か』と対面する――それだけの小さな場所だった。
〈人間は弱い生き物と、他の種族からも蔑まれているわ――特に、あなたのような人間が〉
その〝声〟に、感情はなかった。ただ、淡々としていた。
だが、意思は明確に存在した――〝声〟をかけている相手に対する、気づかいである。
〈さあ、向き合いなさい。そうすれば、私が――私も――〉
〝声〟は、手を伸ばし続けていた。
◇ ◇ ◇
窓から風が吹き込んできた。それと共に老人の朗々とした声が部屋中に響く。
「魔法は理である。しかし、だからといって世界の絶対的掟などではない。人間やエルフやヴァンパイアなどの〝知的種族〟たちに限定された法則なのである」
ランディは目をつむり、思い出すように言った。
「したがって、自然や野生動物や非知的種族など、全てをひっくるめた〝世界〟にとってみれば、魔法とはただ一つの約束事でしかないのだ。その証拠に、魔法のすべては他の何かで代替できる――言い換えると、魔法を使わずとも生きていける」
目を開いた老人は、とても懐かしそうだった。穏やかな彼の顔は、もっと老けたような気がする。それくらいに、皺くちゃだった。
「これは私の友人の言葉でね。……〝転移の魔法〟、別名〝神の魔法〟は掟破りと言っていいと思うがね」
「はあ……」
キラはぽかんとするしかなかった。ランディの言葉のほとんどが、理解できなかった。
老人は、再び懐かしむように笑った。
「要は、魔法という理から外れた私たちも、取り立てて言うほどおかしくはないということだよ。引け目や恐ろしさを感じる必要なんてない。無論、孤独なんてものも」
恐ろしさ……。キラはそれを思い出そうとして――思い出してしまいそうで――頭をぶんぶんと振った。だが、再び身体に冷たさが戻ってくる……寒くて、凍えそうで、震えている。
するとそこで、コン、という音がした。不思議なことに、その音は一瞬にして体中を駆け巡り、寒さという寒さを消し去ってくれた。じっとりと、肌に汗が伝わる。
いつの間にか俯いていた顔を上げると、ランディがテーブルの上にある砂糖の瓶に手を乗せていた。もう一度瓶を掴み、とん、と机に音を立てて置く。
「砂糖というのは、他国では貴重なものでね。一般的な平民が手に入れられる機会は限られている――国の中心地たる都でさえ、その程度だ。しかしこの国――レピューブリク王国では、王都から遠く離れた〝グストの村〟でも、こうして砂糖の入ったコーヒーをたしなむことが出来る。……ついでにいえば、コーヒー豆なんかも貴族たちの趣向品だ」
老人はしわがれた手を動かし、キラの飲みかけのコーヒーをそっと指で押しだした。
キラはそれにつられてカップの取っ手をとりながらも、キョトンとしていた。とりあえず、コーヒーを飲み干す。
「うむ。急すぎたかな」
老人は苦笑した。しばらく考え、再び口を開く。
「魔法というもののについての理解は、使える者たちのほうが圧倒的に深い。ユースやエーコは毎日のように魔法を使っているんだから、当然だ。『魔法は必要ない』なんて言ったのは、少し予想外だったが……あの子の説明は、よくわかっただろう?」
キラは頷いた。言葉にはしにくいが、魔法というものの本質が分かった気がした。
「おかしな話だが、魔法を使えない私の方が、魔法は絶対的に必要だと思ってしまっている。その一因として、ここに砂糖があり、君がコーヒーを飲んでいるということが挙げられるんだ――〝神の魔法〟の利便性を知っているからともいえる。ユースよりも長く生きているからこそ知りえたことさ」
「……どういうこと?」
「つまり、魔法が――特に〝神の魔法〟がなければ、私たちの生活はこれほど豊かではなかったんだ。君を拾ってくる余裕すらなかっただろう。……それを理解するためには、君の知識を補充する必要があるね」
老人は立ち上がり、部屋にただ一つある棚の引き出しを探ってから、再び戻ってきた。テーブルを動かし――キラのほうに寄せて、持ってきたそれを机の上に広げる。
「これが今分かっている世界だ」
それは大きな世界地図だった。一番大きな、どちらかといえば縦に長いひし形のような大陸が真ん中に来ている。それをはさむようにして左右に大陸がある――両方とも、真ん中のものの三分の二にも満たない大きさで、縦に細長く見える。
中央の大陸には何やらいろいろと文字が書かれていた。反対に左右の大陸にはほとんど何も書かれていない――ただ、それに関係なく、キラには文字を読むことが出来なかった。
「とりあえず、確認といこう。君は、この文字を読めるかな?」
老人のしわがれた人差し指が、真ん中の大陸の外側にかかれた文字をさす。
キラが首を振るうと、ランディは頷いた。
「まあ、今は読めなくとも構わないだろう。読み書きは難しい……事実、みな苦労しているからね」
「ユースも読めないの?」
「いや、読むことはできる。が、書く方はまだまだだよ……。それはともかく、この地図を見てくれ」
ランディは言いながら、地図に載っている大陸を順に指さした。
「我々が生きている世界は、この三つの大陸だ。キラ君から見て右の方から、〝東方大陸〟〝中央大陸〟〝西方大陸〟と呼んでいる。最もこれはレピューブリク王国内での呼称で、他国では他の呼び方もされているようだがね」
「れぴゅー、ぶりく……?」
キラはその聞き慣れない単語を、たどたどしく呟いた。どことなく、言いにくい……。
老人は微笑みながらゆっくりと頷き、〝中央大陸〟を指さし、ぐるりと円を描く。
「一番大きな〝中央大陸〟を支配している国だ。私たちの住んでいる国でもある」
「国……」
「村同士が争い、一つの村に。その村は町へと発展し、他の町と抗争を。そうした数多の戦の果てに国が生まれ、国と国の戦争が起きる……。だから昔は、〝中央大陸〟にももっと多くの国が乱立していたようだよ」
「じゃあ……〝レピューブリク〟がこの大陸にあったすべての国を支配した……?」
キラが呟くと、老人は予想外のことに反応を鈍くした。
「驚いたな、その通りだよ。〝レピューブリク〟とは、最初は小さな国だったらしい。今の国王の祖先と、その近親者たち――エマール、ダルク、アズナブール――とともに盛り立てていったという。彼らの側近として活躍したのが、エルトリア家で……といっても、もう千年も前のことなんだがね」
ランディは言葉を切り、再び地図に目を落とした。〝中央大陸〟の中心を指し、
「そして、レピューブリク王国の心臓部ともいえる街がここ、王都イルド。私もこの街に住んでいたことがあるんだが、当時は王都ではなく〝四都〟と呼ばれていてね、王城を囲む四つの街すべてが中心都市となっていたんだよ。あることがきっかけで、今ように一つの巨大都市として統合されたんだ……。で――」
しわがれた指が、地図の上を移動する。方角で言えば南東の、大陸の端で止まる。
「海に面したこの位置に、私たちははいる――〝グストの村〟があるんだ。王都とずいぶん離れているだろう?」
「うん……」
キラは頷き、コーヒーを飲む――が、空になっていたことに気が付いて、唇を離す。
「この距離を旅するとなると、三か月はかかる――休憩を一切に挟まず、ほとんど急いでもね。普通に行けば、半年……状況によっては一、二年はかかるだろう」
老人は窓から入ってくる風ではためく地図を抑えるように、カップを置いた。
その際に、同じように地図を抑えている砂糖の瓶が目につく。
「だが〝転移の魔法〟と呼ばれる唯一無二の魔法は、この距離を、時間を、一瞬にしてなかったことにする」
「なかったことに?」
「そう。思い立てば、今にでもこの王都に行くことが出来る」
「今?」
信じられなかった。キラは目を丸くして、老人を見つめ、それから地図をみた――王都と〝グストの村〟の間を行ったり来たりする。
と、ふと思った。この地図は、一体だれが描いたのだろう?
聞いてみたかったが、老人が口を開く方が早かった。
「その特殊性こそが、〝神の魔法〟と呼ばれるゆえんだ。そして、この魔法による恩恵が、私が『魔法は絶対不可欠だ』と思う理由の一つだよ。この魔法の有効利用によってのみ、どの国にも起こりうる飢餓という恐ろしい悪夢を振り払うことが出来るんだ……」
ランディは饒舌に続ける。まるで、何か強く伝えたいことがあるように。口を挟める様子ではなかった。
「そう、君は知らなければならないんだよ。学ぶべきことがたくさんある――君の今後のために――」
だがそのとき。異常を知らせるように、外にいる白馬が甲高く嘶いた。
● ● ●
キラに伝えるべきことは、たくさんあった。〝グストの村〟を離れ、旅をするとなると、彼自身が身を守るすべを知らなければならない。
それは知識であり、知恵であり、戦いであり、技術だ。どれかが欠けては、意味がない。
できることなら同郷の少年についていてやりたいが、ランディはそれが不可能であることをあらかじめ知っていた。
そのために、この一週間という期限を――実際にはもっと短いかもしれないが――大事に使いたかった。ユースがキラと仲良くなるのは、嬉しい誤算といえる――愛らしい孫は、無意識に少年に様々なことを教えている。
だからこそ、突然の村の外からの来訪者は、歓迎できなかった。
ランディは舌打ちしたいのをこらえ、居間でせっせと片づけをしているユースにキラを託して、来客を出迎えに席を外した。
外に出ると、真正面の門で門番のマテオが、一人の行商人に槍を突きつけているのが見えた。昼前に怒られたのをずいぶんと気にしているらしく、いつにもまして余所者に対して警戒している。
村長の逆鱗に触れたくないという点では、他の皆も同様だった――門から距離を置き、遠巻きに見ている。こそこそと隣人同士で話し合うことすらしない。
ランディはわざとらしく足音を立てて歩きながら思った――今回ばかりは、その警戒心は正解だと。
行商人は、十中八九、招かれざる客――帝国の刺客なのだ。
見た目は一般的な商人と変わらない。積み荷を背負わせた馬を連れた、マント姿の旅人……。腰辺りでちらちらと顔を出すのは、護身用に見える短剣。
マテオに槍を向けられ、慌てて両手を上げて敵意がないことを示しているが、それは装っているだけだ。
きょろきょろと動く目は、数々の間者がそうであるように、素早く、鋭い。村の内部――村の大きさや家の数や人の数など――を観察している証拠だ。
さらには、いつでも反撃できるように、細かく足を動かしている。足先、あるいは踵で円を描いているのだ――厄介なことに、魔法陣というのはこうした簡単なものでも、刃物以上に危険なものとなる。
いざというときの脱出手段か、あるいは奇襲のためのものか……判断はつきにくい。
どちらにせよ、隙を見せてはならない。だが――。
ランディは一歩一歩を大きく踏みしめながら、頭の中で考えを巡らせた。
なぜ、この昼間に、行商人として現れたのか?
どんな方法で村を襲おうとも、〝不死身の英雄〟がいる限り、成功するのはゼロに近いのだと、帝国は心得ている。〝グストの村〟よりも数百倍広い王都でも、簡単には潜り込ませなかったことは、まだ覚えているはずだ。
だというのに、闇に紛れることもせず、自らその姿を見せるとは……。
一体何を企んでいるのか?
こればかりは考えても分かるはずもなく――、
「マテオ、槍を下ろしなさい。客人に失礼だぞ。――やあ、すまないね、外からの訪問者は少ないもので」
ランディは、ひとまず穏やかな態度で商人と接することにした。気取られないように、王都にいたときに身に着けた自然なそぶりを装う。
行商人の男は、槍が下げられたことにほっとした様子を見せ、次には穏やかな表情を顔に張り付けた。どうやら帝国暗殺部隊〝黒影〟は、変装術も心得ているようだ。
「いえいえ、構いませんよ。むしろ、その青年の門番としての警戒心は、賞賛に値します。敵は魔獣だけに限りませんからね」
「ふふ、ほめていただけるとは、これほど誇らしいことはないね。それで、どういった用向きで――ああ、いや、まずは私の家に案内しようかな」
男は驚いたように瞬きをして、慌てて愛想笑いを取り繕った。おそらく、この返答は予想していなかったのだろう。にこやかな笑みが引くついている……どうしたものかと考えている顔だ。〝黒影〟の中でも、こういう場面におけるポーカーフェイスは苦手な方らしい。
門番のマテオも、同様に驚いていた。抗議するように――しかし怒られるのを避けてか、伏し目がちで見つめてきた。口にはしないが、思い切り嫌がっている。
「そんな顔をするな、マテオ。村の外を知るいい機会だろう? それに、我々は慣れているかもしれないが、〝グストの森〟を通ってこの村にたどり着くのは大変なことなんだ。親切心を持て」
相手の思惑を知るためには、まずは仕掛けなければならない。その提案が、相手が求めているのか、あるいは嫌がっているのか……それを見極めるのだ。
「いやいや、村長さん、おかまいなく。これでも世界中を旅していますので」
「ほう! ぜひとも皆に聞かせてやりたいが……」
この場合、刺客は明らかに村に長くとどまることを嫌がっている。おそらくは、警戒心から――村の中に入れば、何かあった時、〝不死身の英雄〟の手から逃れられなくなることを分かっている。
ということは、最初から村の中に入るつもりはなかったことになる……。
「吟遊詩人にはかないませんよ。私は見てのとおり、ただの行商人ですから」
「うん? おお、これは気が付かなかった……立派な馬だ」
男は自慢するように胸を張り、一歩横に移動して、後ろにいた荷馬を見せた。ランディも男の様子に合わせて、おどろいてみせる。
何かを売りつけたいということだろうか? そんなことを考えながら、男の次の言葉を待った。
「私は安全と珍品を売り歩く商人でございまして。本日はその両方を兼ね合わせた商品を持参したのでございます」
抑揚のある語り口調は、マテオの気を引いた。険しい顔のまま余所者を睨み付けていたが、『安全かつ珍しい』という売り文句に興味を持ったらしく、手にしていた槍を体に寄せて、興味津々に行商人の連れている荷馬を見た。
男はそれに気をよくして――ランディもマテオに合わせて、「ほお!」と感嘆の声を漏らした――、馬の背にぶら下げていた麻の袋から、数枚の紙を取り出した。
陣札だ。ランディはすぐにその紙の正体を理解した。
おそらくは、これを張り付けることで何らかの魔法が作動するのだろう。
その何かに便乗して、ランディ、あるいは〝グストの村〟を襲うつもりなのだ。
「この陣札はなんと! かの〝奇才〟レオナルドによる、魔力を使わない陣札――通称〝残留魔陣〟なのです!」
ぴくりと、眉が動く。
レオナルド……? なぜ帝国側から彼の名前が出てくるのだろう?
考え込んでいると、白馬のユニィが頭をひょこひょこさせながら近づいてきた。何かを訴えるように鼻先を押し付けて来る白馬を、ランディは鬱陶しく思いながら手ではらう。
マテオが珍しく行商人に明るく話しかけているのも、気にならない。
「その人ってたしか……〝三人のキサイ〟の一人ですよね」
「そう! やはりレピューブリク王国ですね、教養のある方が多い!」
「村長が外の話をしてくれますし、週に一度、近隣の村から新聞が届きますからね」
「なんと! それは羨ましい環境だ。この〝残留陣札〟は、その環境を守ってくれる魔法陣がかきこまれているのですよ――これを村の周りに貼るだけで、魔獣を遠ざける見えない結界に守られるのです!」
行商人の張り上げた声は思いのほか響き、遠のきに見ていた村人たちの興味を引いた。若き門番も、いまや感嘆の声まで漏らし、ちらちらと村長の顔色を窺った。
マテオに限らず〝グストの村〟の住人たちは、警戒心が強い割には、村の外の――特に珍品と称されるものに目がない。さらにそこに安全性まで絡んでいたら、商人がどういったものを持ってきたのか、知らずにはいられなくなる。
考えに耽っていたランディはそのことに気づき、商人の上手さを心の底から認めた。
外堀を埋める、といったところだ。村長がいくら買わないといったところで、村人たち全員から反論されれば、その意見に耳を傾けないわけにはいかない。
マテオが話に食いついたのを見て、〝グストの村〟の全員にも〝残留陣札〟の魅力が分かると踏んだのだろう。
一杯食わされた気分になったが、むしろこれは好機だとランディは思った。
陣札を売りつけてくるということは、この陣札に仕組まれた何らかの魔法を合図に、襲撃をしてくるということだ。陣札の魔法が合図のための花火などをあげるのか、はたまた、村を混乱させるような魔法が発動されるのかはわからないが……。
陣札を使うタイミングを計れば、帝国の襲撃をコントロールできる。主導権を握ることが出来るのだ。
『はずれの畑』にでも貼れば、どうとでもなるだろう。
頭の中で考えをまとめたランディは、よそ向きの笑顔を張り付け、なおも〝残留陣札〟の良さをアピールする商人に声をかけた。
「さて、それはいくらするのかな? 安全には代えられないからね」
男が心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、細長い紙きれの束を渡してくる。
陣札とは思えない安い値をきき、驚いた風を装っていたランディは、不意に頭に浮かんだ考えに愕然とした。その表情はあまりにも唐突だったためか、男もマテオも、近くで聞き耳を立て村長の顔色を窺っていた村人たちも、一斉にくすくすと笑いだす。
だが、そんなことはどうでもよかった。
ユニィが唐突に嘶き、今も手を噛んで訴えかけてくるその理由が分かったのだ。
気づかなかったのが不思議なほどに、気配がしていた。知り合いの、強い気配だ。
「あら、あら。とてもたのしそうですね」
門の近くに、女が立っていた――。
◇ ● ◇
ぐる、ぐる、ぐる、と。
わずかに残る記憶と、他人の知らない記憶が、交互に飛び交っていた。
それを追うのに必死で――気が付けば、目が回り、何も見ないようにしていた。
〈向き合いなさい〉
……違う。
本当は、頭の中に響く『誰か』の声から逃げたかった。
〈手を取りなさい〉
何度も何度も何度も。無視しても、その二言を続ける。しつこく――あるいは辛抱強く。
ついに耐えられなくなり。キラは暗闇からのばされた闇色の手を握った。




