41.はずれの畑
ベッドに腰かけたキラは、目の前の老人の動きを濁った眼で追っていた。
ぴしっと背筋を伸ばし、皺くちゃな手で丸テーブルの上に四つの木製のコップを並べ、同じく木製のポットでなにかを注ぐ。そのうちの一つを手渡してきた。
不思議に思ってコップの中を覗くと、透きとおった褐色の液体が波打っていた。左側に腰かけ看病してくれているエーコによると、麦茶というものらしい。
一口飲んでみると、すっきりとした味わいの液体が喉を通る。少し熱いが、全身が潤った感じがして、一気に飲み干した――熱い。
「とりあえずは、自己紹介からかな」
椅子をベッドに向けて座った老人は、穏やかな表情をしていた。その後ろに隠れるようにして小柄な少女が立っている。
少女は、初めて顔を合わせたときと同じように、不安げな表情をしていた。
「私はランディ。この村――グストの村の村長だ。君を看病しているのが、私の娘のエーコ。で、こっちが孫娘のユースだ」
老人はゆっくりはっきりと言い、エーコとユースを順に紹介した。
エーコは手際よく薬草の煮汁を布ににじませていた。目が合うと、真っ白な歯をちらりと見せて朗らかに笑う。父親とよく似て、人好きのする顔つきをしていた。
「よろしくね、キラ君」
ゆったりとした口調は、母性で満ち満ちていた。目にも表情にも、どこにもキラに対する不安感や不快感といったものがない。
ユースとは正反対だ。少女は祖父の陰で、不安そうにしている。
「ごめんなさいね。娘は村の外から来た人に慣れてないの」
エーコは苦笑しながらユースを手招きした。少女は戸惑い、迷っている様子だったが、盾にしていた老人にも促されると母親にすり寄った。キラとは反対の、エーコの隣に腰かける。
「ユース。キラ君は大変な思いをしてここにいるの。だから、ね?」
母親の腕に抱かれ、黒髪を撫でられほっと息をつきながらも、ユースはやはり陰から覗いてきている。
キラも、じっと少女を見返した。
起きた直後、彼女は祖父に頼まれ、渋々ながらも面倒を見てくれていた。白馬が窓の外から現れ、名を名乗った時には笑顔を見せていたのだ。
なのに……。
その愛らしい仕草と表情を覚えているからこそ、キラは不思議に思っていた。
「キラ君」
深い声で話しかけたのはランディだった。顔をくしゃくしゃにして微笑む。
「きみを見つけたのは、ユースなんだよ」
キラは何も言わず、不愛想に頷いた。それを聞いて、どうすればいいのかわからなかったのだ。
ちらりとユースを見てみるが、少女はやはり母親に隠れたままだった。
「ふむ……。こういう時は『ありがとう』と言うのが礼儀なんだよ。相手の目を見てね」
「礼儀……? ありがとう……?」
「うむ」
老人は深く頷いたのみで、それ以上何も言わなかった。
礼儀とは何か。『ありがとう』とはいったいどういう意味か。何一つわからなかったが、それでも頭の奥で――もしかしたら心の奥で――ひっかかるものがあった。
キラは、濁った眼をしながらも、それの正体を突き止めたいと思った。
頭の中で湧いた疑問を問おうとした口を閉じ、少女に目を向ける。その視線を敏感に感じ取りびくりとしたが、しばらくして不思議そうな顔をした。
「ありがとう」
かすれ気味のたった一つの言葉。
それはキラの無表情さにもユースの様子にも劇的な変化をもたらさなかったが、これこそが、とある小さなきっかけであった。
ランディはまだ互いになれない様子のキラとユースを微笑みながら見守っていたが、
「ああ……。それと……」
視線を少しずらすと大きくため息をついて、しどろもどろといったふうに口を動かした。
キラもユースもその様子に首を傾げた。
「一応、そこのユニィにも礼を言っておくといい。第一発見者でないにしろ、きみをここまで運んでくれたのは彼だからね」
しわだらけの指がさす先に視線を動かすと、白馬がいた。
窓の外からにゅっと首をのばし、面長な顔を突き出している。部屋にいる全員の視線を受けると、それが分かったかのように、得意げにブルルッと鼻を鳴らした。
真黒でつぶらな――そしてぎょろりとした――目は一直線にキラを向かっていた。
キラもそれが分かり、戸惑いながら、
「ありがとう……」
と口の中でつぶやいた。
すると、ひとりでに腕が上がる――エーコが持ち上げ、馬面の頬に手を誘導する。されるがままに撫でると、白馬は満足そうに甲高く嘶いた。
つややかに光る短毛はさわり心地が良く癖になりそうだったが、しばらくたつとユニィは首を振っていやがり、窓の向こう側へと引っ込んでしまった。
「さて。キラ君、身体は大丈夫かい?」
ユニィのさわり心地を名残惜しくおもいながら頷いた。
引きずられたことによってできた細かな傷に痛みはない。それもこれも、エーコが痛みの少ないように治療を施してくれたからだ。
キラはエーコに向き直った。
「ありがとう」
彼女は急なことにキョトンとしていたが、そのうち嬉しそうな顔をして、「どういたしまして」と朗らかに返した。
ランディはそんなやりとりににこやかに微笑み、しかし深く真剣な声音で言った。
「きみがいったい何者で、なぜ記憶喪失なのか……そういったことはまずどうでもいい。分かりようがないことをいつまで考えていても仕方がない。だろう?」
老人がまっすぐと見据えてくる。真っ白な髪の毛とは対照的な力強い黒い瞳が、キラはなぜだか恐ろしくなり、自然と視線を外した。
「いま考えるべきは、きみがこれから何をすべきか……。と言ったら小難しくなってしまうが、つまりは、平気なようだったら体を動かそうということなんだよ」
「体を動かす?」
キラにはその言葉がとても魅力的に思えた。斧を持った感覚が――正確には、その木製の柄の感触が、掌に蘇る。
「寝込んでいてもいいことはないし、ふさぎ込むばかりだからね。今、村の外で畑を作っているんだ――『はずれの畑』とでも言おうかな。それを手伝ってくれるかい?」
キラは一も二もなく頷いた。
体は軽く、しかし足取りは重かった。
木々が枝を伸ばし、身に着けた無数の葉で頭上を覆っているさまは圧巻だった。頂点から傾き始めた太陽の光が、ぽつぽつとしか入ってこない。森に入るまで感じていた暑さも、消し飛ぶほど涼しいものにしてくれている。
が、それらを堪能する暇もないくらい、足元には危険がいっぱいだった。
密接した木々は地面に太い根を下ろし、土の中にまで細かなそれを這わせている。おかげで、少しでも油断すれば足を取られる道のりとなっていた。
ランディと白馬のユニィ――そしてなぜだかついてきた小柄な少女も、当たり前のように根の上を歩いている。
キラも二人と一頭に置いていかれないように足を動かしていたが、いつの間にか、三つの影との距離が開いていた。
「キラ君、やはりユニィに乗った方がいいんじゃないか?」
老人が足を止め、ふり向く。ユースも、子どもながらに気遣わしげな表情を向けて来る。白馬は気にしていないとばかりに、大きく尻尾を振っていた。
キラは息を乱しながらも、無言で首を振った。彼の厚意に甘えたくなかった――頼りたくなかったというべきか。それで何かが変わるわけでもないが。
木の根に躓かないようにしながら足を動かし、大きく息を整えるたびに、頭の回転は徐々に速くなっていく。数少ない出来事が巡りに巡る。
まだ、完全には信頼しきれないのだ。相手が何を考えているのか、全くわからない……。
老人は「うむ、わかった」とかすかに聞こえるような声音でいい、先を行き始めた。が、老人も少女も白馬も、示し合わせたかのように歩みが遅くなっていた。ユースは時折、後ろを振り向いてくる。
実際にはそう遠くないのだろうが、キラにとって『はずれの畑』までの道のりは何時間にも感じた――老人たちとの距離がなかなか縮まらないのもあるかもしれない。
そうして開拓中の畑についたときには、キラは肩で息をして、ぼこぼこの雑草だらけの地面も気にせずへたりこんでいた。足を投げ出し、深くうつむく。
「たった昨日海に流れ着いたというのに、これほど動けるのは大したものだが……やはり、体力は落ちているようだね。ほら、水を飲みなさい――ゆっくり、一口ずつね」
「はあ、はあ……。……ありがとう」
老人が差し出してきた水筒を受け取り、口をつける。一気に飲んでしまおうとも思ったが、ランディの言葉で踏みとどまり、少しずつ飲んでいく。
途中で詰まることもむせることもなく、キラは再び礼を言って水筒を返した。
「さて、やることは単純作業だ。少し前にようやく木を伐採し終わった後でね。土の中に残った木の根や雑草なんかを取り除くだけなんだが……これがまあ、大変なんだよ。そのあとも、鍬で耕していかないといけない」
老人が苦労の色をにじませ、苦笑いしながら言った。その隣で、小柄な少女がユニィに運ばせていた農具を次々と降ろしていく。
キラは何も言わず、目の前の『はずれの畑』を見渡した。
木々が密集していたであろうそこは、円形に伐採され、不自然な空間にされていた。切り株がそこらじゅうに点在し、土は小石や木の根や雑草などで荒れ放題だ。
円形の開拓地から少し離れた場所には、大きな石を積んだ簡易的な井戸が作られている。
その井戸を含めた『はずれの畑』と森との間に、杭とロープで境界線が張られていた。
「切り株も残っているから、男手も必要なんだが……この『はずれの畑』が位置する場所が問題でね。村に何か起きれば、即座に駆けつけることが出来ないんだ。それにこの森は特に危険で、よほどの者が複数同行しない限り、大人数での移動はあまり好ましくないんだよ」
「何か問題? よほどの者?」
意味は理解できたが、大事なことがよくわからなかった。もやもやとした感覚にキラはむっと眉を寄せ、それから逃れるように視線を別のほうに漂わせる。
ユースが地面に並べた農具を一つ一つ確認していた。農具は柄が長いものから短いものまであり――斧や鎌やスコップなどだ――、そのどれもが使い古されていた。
「この森には『外敵』がたくさんいるんだ。それらから村や人を守るには、よほどの腕と根性がなければならないんだよ」
「腕……根性……」
「今は……ふむ……安全なようだがね……」
饒舌だった老人が、ふいに歯切れが悪くなる。視線を虚空に向け、眉間に深いしわを刻んでいた。
「何か、あったの?」
キラは再び乾いてくる唇をなめて、言葉を詰まらせながらも聞いてみた。
老人は現実に戻ってきたかのようにはっとして、
「む? いや……考え事をしていただけさ……。さあ、作業にかかろうか。キラ君、ユースと一緒に雑草を取ってくれないかな」
何でもないように取り繕った。
キラはそんな老人を、疑いのまなざしで見つめた。ただ単に考え事をしていたようには思えない、悩んでいる様子だった……。
だが、相手が本当に何を考えているのか分からない中で問い詰める勇気はなく、無言で頷いた。
キラは一息ついて、ゆっくりと立ち上がる。膝を伸ばしきった瞬間にふらりと体が傾いたが、後ろでユニィが支えてくれた――というより、老人に話しかけるように近寄ってきた白馬に、もたれかかった形だ。
それでも白馬は地面に根差したようにピクリとすることもなく、嫌がるそぶりも見せず。ブルリと鼻を鳴らしてキラを一瞥し、次に老人に真黒な瞳を向けていた。
ユースが古ぼけたスコップで、がりっと地面を削る。
キラも見よう見まねで、鎌でがりっと地面を削った。
「ああっ。鎌は草刈りに使うんだよ。土掘ったらすぐに刃がぼろぼろになっちゃう」
「……そうなの?」
「そうだよ。……本当に何も覚えてないの? えっと……記憶喪失?」
小柄な少女は膝についた小石を払い、キラと農具を交換しておずおずと聞いた。その声はどこか後ろめたさがあり、目を合わせて聞いてきているのに耳を澄まさなければならないほど小さなものだった。
キラは教えられた通り、スコップで雑草を根元から掘り起こしつつ、しばらく考え――首を振った。
「分からない」
「分からない?」
ユースは当惑しているようだった。
掘り起こした土の中で、ひげ根の雑草がすっぽり抜けたことに――しかも根には土の塊が大量に引っ付いていた――妙な感動を覚えつつ、キラは頷いた。
「記憶があるかって言われても、記憶があった時の感覚が分からない。覚えてないっていうのがよく分からないから、名前を聞かれても『わからない』って答えるしかない」
「う、うー?」
質問したものの、ますます混乱したらしく、少女は目の奥に濃い戸惑いの色を浮かべた。
しばらくうんうんと唸り、彼女なりに理解したのか、ぱっと顔を輝かせて、
「じゃあ、私と同じだ」
明るい声で、明るい瞳で言い切った。
「同じ? ユースも記憶があるかわからないの?」
「ううん、そうじゃなくて。私、村の……森の外のことは全然知らないの。村の皆とか畑のお仕事とかはよく知ってるけど、森の外には出たことがないから。これって、キラくん……う~ん……お兄ちゃんの言ってる『わからない』と同じだよね?」
「……たぶん」
キラが頷くと、少女は一層上機嫌になった。じりじりとにじり寄り、より近い場所で鎌を手に草刈りを再開する。聞いてもいないのに、少女は再度、スコップの使い方を教えてくれる。
不思議なものだと思った。一緒に作業をするまではよそよそしかったのに、この短い会話で距離が縮まった。なによりキラ自身が、そう強く感じたのだ。
ユースがいくつかの言葉を投げかけ、キラが短く返事をする――。そんなことを繰り返していると、周辺の木の根や雑草はあらかた取り除かれ、一つのこんもりとした山が出来ていた。
キラは立ち上がり、大きく息をついた。かがめていた腰をぐっと反らす。
「これね、あとで持って帰るんだよ。薬とか肥料にするの。お茶になるのもあるんだよ」
「おいしいの?」
「うん。体にもいいんだって。……たまに変なのがあるけど」
ユースは手やひざについた土を払い、開拓中の畑をうろうろと動き回っていた白馬に駆け寄った。水筒を二つ手にして戻ってくる。
一方を迷いなくキラに差し出し――村にいた時とは別人と思えるほど、親しげで無邪気な笑みを浮かべていた――、きょろきょろと辺りを見回す。
「おじいちゃん、どこに行ったんだろ?」
ランディはいなくなっていた。ユースと二人で木の根を掘り起こしていた時には、切り株を懸命に地面から引きはがしていたのに。作業に使っていた斧が、開拓地の端に並べられたいくつかの切り株の一つに突き刺さっている。
ユニィの顔を見ても――白馬がしゃべるわけではないが――そっぽを向かれた。くるりと耳を動かしている。
「ここ以外にも畑ってあるの?」
キラはそう尋ねながら、白馬の向いた方向を何気なく見た。
あるのは、壁のようにそびえる木々のみだ。密集した緑色は、傾きながらも強い存在感を放つ日光を通さず、うっそうとしている。
妙に暗く、妙に静かだ。
「村の近くに二つあるよ。そっちに行っちゃったのかな……でも、この前お払いの魔法をかけなおしたばかりだから、必要ないはずなんだけど……」
キラは再び白馬に視線を移した。ユニィはやはり、微動だにせずに――耳だけは頻繁に動かし――森の奥を凝視している。
何かあるのだろうか――もしかしたら、老人がいるのではないだろうか。
確かめるべく、キラが足を踏みだしたその時。
白馬が鋭く嘶いた。甲高い音が、森の中で響き、こだまする。
突然の出来事にキラは固まり、ユースが尻餅をつく。
そして――。
「あれは……?」
五匹の獣が、森の奥から飛び出してきた。




