40.始まりの前
キラが『キラ』として生きることとなる前――グストの森全体が真夏と呼ばれる時期に差し掛かっていた時のこと。
老人に拾われ、目を覚ました直後のキラは、靄がかかったようにぼんやりとした少年だった。
ベッドで身を起こし、感情のこもらない目で、感情のひとかけらもない表情で、ゆっくりと顔を動かした。黒く濁りきり、まるで死人のような眼であたりを窺う。
キラにはまだ理解できていなかったが、そこは小さな部屋だった。壁際に申し訳程度にこしらえた暖炉があり――暑さのために今は機能していない――、部屋の中心には円形の絨毯が敷かれていた。小ぶりの丸テーブルと二脚の椅子が並べられている。
たったそれだけの、簡素な部屋だった。調度品は際立ったものは無い――収納のための棚と、壁にうちつけられた燭台二つ、そして窓際の簡素で堅いベッドがあるのみだ。
簡易的なベッドは日差しが差し込む窓際にあり、キラは物言わぬ石像となって直に浴びていた。物も言わず、動かず。そのさまは服を着た石像だった。
ここはどこなのか――どうしてここにいるのか――いったい自分は何なのか――。何から考えていいかわからない。
湧き出てくる言葉にさえ疑問を持ち、キラは濁った眼のまま、ごわごわの毛布のかぶさったふと太ももに視線を落とした。
だらりと乗せられた手。握って開いてを繰り返すと、汗がじっとりと浮いてくる。明らかに自分のものであったが、それさえよくわからなくなっていたキラには、不思議で仕方がなかった。
力を入れて腕を上げ、両手を目の前に持ってくる。特に痛みはない――全身にも同じことが言える。いたって健康的な肌色で、男の割にはか細いという印象だ。
キラは何も考えずに掌をまじまじと見て――まだ太ももに何かがあるのを見つけた。
それは、黒い板だった。薄く、ほぼ正方形をしている。
手に取ると、表面はつるつるとしていて、しかし側面にはいくつかきらりと光る穴のようなものがあった。石にしては軽い。裏返してみると、何かわけのわからない文字や模様が描かれている。
自分のこともそっちのけに――〝自分〟を考えると底なし沼に引きずられるような感覚がしたのだ――、まじまじとそれを観察していると、するりと指先から滑っていった。
反応することもできず、キラは呆けたように、ベッドと窓際の間に落ちていくのを見届ける。かたん、とやけに軽い音がした。
興味を失い、再び虚空に死人のような眼差しを向けていると、
「うむ。起きたかね?」
窓の真向かいにあるドアが開いて、老人が入ってきた。
しばらく遅れて振り向く。老人は持っていた盆にのせたコップをテーブルに置いているところだった。
「む……? 大丈夫かい? 体に目立った怪我はなかったが……」
穏やかだった顔をしわくちゃにして、心配そうに寄ってくる。
それに対して、キラは何も言わなかった。年相応にしわがれた声で発せられた言葉が、何を意味するのか理解するのに時間がかかっていた。
その無反応さに――そしてキラの感情のない表情と目に――老人は戸惑い、どうしたものかと目がさまよい始めた。優しそうな笑顔が固まったままとなる。
沈黙が部屋を支配したのち、新たな登場人物が現れた。少しさび付いたドアの金具の音が、嫌に響く。
小柄な少女が、ノブに手をかけたまま、恐る恐るといった風にドアの陰に隠れていた。
「お、おじいちゃん……お母さんが、切り株に斧が刺さって抜けなくなっちゃったって……」
「相変わらず慣れないんだな……そういうところまで私に似なくていいんだが……。――よし、じいちゃんがいってこよう。ユースは……」
老人は独り言のように苦笑いしながら呟き、少女に向かって明るいしわがれた声で言った。迷ったように視線をただよわせ、棚を見た後に、キラに目をやって決心したように頷く。
「ユースはこの少年の傍にいてくれないかい?」
「え……」
少女は明らかに戸惑いと若干の恐怖の感情を表情に出していたが、老人は構わず、その黒髪を撫でて部屋を出ていった。
老人がいなくなり、しばらくたった。カンッ、カンッ、と何かを割るような乾いた音が響いている――稀に、ドンッ、という調子の外れた音も。
その間ずっと、少女は躊躇するように部屋へ足を踏み出したりひっこめたりしていた。
キラは、やはり呆けたまなざしでその様子をじっと見ていたが、あまりに変化がないその光景に飽きて、視線をそらした。
ようやく頭が回転を始めたのを感じていた。とりあえず、頭の中に浮かぶすべての疑問を取っ払い、一旦空っぽにしたのだ。
そして再び思い浮かべるのは、老人の言葉だった。
大丈夫――体に目立った怪我――。
それらが意味することを理解し、そっと自分の体を触った。右手で左手を握り、手くびへ移り、二の腕まで移動させる。
「だいじょーぶ……?」
キラはそこで初めて、自分の声を聴いた。呟くような一言はかすれ、低い声だった。喉が震える感覚は奇妙なもので、慣れないものだ。
そのつぶやきは、何かを割る音が続く中でも少女に届いたらしく、彼女は意を決し部屋の中に踏み込んできた。それでも足音を立てないように、そっと忍び足でベッドに近づく。
それに気づいたキラは、少女に目を向けた。濁った、死人のような眼を。
彼女は一瞬びくりとしておびえたが――次の瞬間には不思議そうな顔になり、じっと見つめてきた。
かわいらしい黒い瞳は、どこまでも純真で、つぶらだった。
そのまま、キラと黒髪の少女は動かないでいた。キラはほとんど何も考えていなかったが、少女はそうでないらしく、目の中で様々な感情が渦巻いている。
小柄な少女はそろそろとベッドの端までにじり寄り、そっと手に手を重ねてきた。
「手……冷たい……」
「……?」
少女の手は温かかった――熱いくらいだ。気温のせいでじっとりと汗ばんでいたが、不快ではない。
「その……大丈夫なの……? ケガは……?」
おどおどとしながら、か細い声で聞いてくる。
「だいじょーぶ……?」
キラは再度、その一言だけを繰り返した。――再び、カンッ、と乾いた音が響く。
少女は不思議そうにキラの黒い瞳を覗き――鼻先がぶつかるほどに近寄って見入っていた――、それからまじまじと全身の観察を始めた。最初は首回り、次に腕、そこから先はベッドに上がり込んで触れるか触れないかの微弱な力でさわっていく。
しばらくそのちょろちょろとした動きに注意を払っていたが、やがて飽きて、何かが鳴り響く窓の外の方へ顔を向けた。
――馬面が窓ガラス一杯にあった。
馬の横面が、ぴったりとはりついている。鼻息でガラスが曇り、曇りが広がるたびにブルルンッという奇妙な音が聞こえる――ガラスも震えていた。真黒な目はぎょろりと剥き、絶えず何かを探すように視点が動く。
「……!」
この白馬の登場の仕方には、死人のように緩慢だったキラも、わずかに目を見開いた。
ちょろちょろと周りをうごく少女よりも、窓の外で首を上下に揺らしている馬を、ほとんど睨むようにして観察する。
鋭い日光に照らされた白い毛並みが強く輝き、その滑らかさを強調している。時折風によってたてがみがめくれ上がり、その様子でさらさらとしているのが見て取れた。全身が白い毛で包まれているが、鼻先辺りはその白さがくすみ、黒い部分が目立つ。
何を考えるともなく、この不思議な生物を見つめていると、白馬が鼻先で窓を開け始めた。
がらり、がらりとたてつけの悪い耳障りな音が鳴り、それとともに熱気を含んだ風が吹き込んでくる。
白馬はブルッと鼻を鳴らし、部屋の中へ首を突っ込んだ。その勢いで、しめった鼻先がキラの腕につく――ぬちゃりとして、キラは身を震わせた。
「ユニィ。また小屋から抜けてきたの?」
体のどこにも傷がないのを確かめていた少女は、ぱっと顔を輝かせ、ベッドの上で膝立ちになって窓際に寄った。突き出た白馬の横顔を、親しげに撫でる。
白馬も満足そうに嘶いた。
キラはその様子を眺めていると、
「あ……えっと……」
視線に気づいた少女が振り返り、言葉を詰まらせながらもはっきりと続けた。
「この子はユニィ……おじいちゃんの馬なの。村の中でもおじいちゃんの次に長生きしてるんだよ」
「ゆにぃ……?」
彼女の続けた言葉の半分も理解できなかったが、少女はキラがすぐに反応したのに気をよくした。首が取れるほどにぶんぶんと縦に振り、嬉しそうに頬をゆるめる。
「あ……えっと、えっとね。それで、私はユース。おじいちゃんが……えっと……ランディ、っていうの」
「ゆーす……らんでぃ……」
「あなたのお名前は?」
先ほどまでとは打って変わって笑顔を見せる少女。それと並んでぎょろりとした目を向けてくる白馬――そのさまは、まるでキラの返答を聞こうとしているようだった。
だがそこでキラは、訳が分からなくなって首をかしげていた。
「なまえ……?」
「うん」
ベッドの上で興味津々になる少女を前に、キラは自分の身体の中心で何かが蠢くのを感じた。
「なまえ……は――しらない」
「え……?」
生ぬるい風が吹くと同時に、ブルルンッ、と重い白馬のいななきが部屋の中に響いた。
ユースと名乗った少女は出ていった。
残ったのはその慌てた様子に疑問を覚えるキラと、窓枠からにゅっと突き出る白馬の首だけである。
一定間隔で鳴っていた何かを割る音が、やんでいる。生ぬるい風が熱気を含んだ外気を運び、太陽と共に部屋を熱する。
キラはそれら一切のことを忘れて、馬の横面に目を向けた。正しくは、夏期特有の風で絶えずなびく白いたてがみに。
そっと手を伸ばしてみると、白馬は嫌がることなく、むしろ自分から差し出すように細長い頭を近づけてきた。
――が、キラの指先はたてがみに触れることはなかった。白馬のユニィは、その手をよけて、肘辺りまでしかない裾をがじりと噛んだのだ。
「……!」
叫ぶ暇もない。ものすごい力で外に引っ張られた。
窓枠に肘や腰や足をぶつけ、しかし勢いは収まらずに思い切り地面に倒れこむ――そして今度は襟元を噛まれ、ずるずると引きずられていく。
ごつごつとした地面が全身を刺激する。
キラは何とか抜け出そうと視線を上げ――ピタリと止まった。痛みも、どこかへ行ってしまったようだった。
空は晴れ渡っていた。空色一色。見つめていると吸い込まれそうだ。
太陽は突き刺してくるように眩しく、暑い。青色にただ一つ存在する強大なそれは、大空を独り占めしているかのようだった。
風が通り過ぎ、木々のせせらぎを運んでくる……。鼻をくすぶる香りですら、青かった。
ぽかんとしていたキラは、この時初めて感情を表情に出した。目をつむり、口端が上向きに緩む。
ただ残念なことに、白馬が止まってからその表情は消えさった――苦痛で、顔が歪む。引っ張られた襟元が離されると、力なく地面に横たわった。
「ユニィ、だめじゃないか! 彼はけが人なんだぞ!」
カツンッ、という音のあと、ランディが慌てて近寄り、助け起こしてくれる。
キラは礼を言うこともなく、心配そうに顔を皺くちゃにする老人と――彼の言うことに耳を貸すまいとそっぽを向けるユニィと――何かを感じ取って、その後ろに目を向けた。先ほどの少女と、その隣には少女に似た顔立ちをした長い黒髪の女性がいる。
二人の横に、太い切株の台があった。鋭い刃の斧が突き刺さっている。辺りには真っ二つにされた薪が散らばっている。
力なく身を起こしたキラは、惹きつけられたようにその刺さった斧を見つめた。
すると、偶然か、それとも何か考えがあってか。白馬のユニィが老人の小言を気にも留めず、背を向けて切り株のほうへ歩き始めた。
ユースや黒髪の女性に撫でてもらいつつ、しっぽをぶんぶん振るう。大きく揺れるそれは、まるで指し示すように斧の柄に当たっていた。
「む……まさか……」
ユニィに詰め寄ろうとしていた老人――ランディは、ぴたりと動きを止めて、何事かを口の中でつぶやいた。
ユースはそんな祖父の様子を気にしながらも、小走りでキラに近づき、膝をついた。同時に、黒髪の女性も心配そうに寄ってくる。
「ねえ、大丈夫?」
先に声をかけてきたのは、黒髪の女性だった。ユースよりも先に、手慣れた手つきでキラの身体についた砂ぼこりを払っていく。
しかしキラは、体を叩かれているのも気にせず――というよりも気が付かずに、斧を見つめる。
「お母さん……。さっき言おうとしたんだけど、この人、名前を知らないって……。どういうこと?」
「知らない……? 記憶がないってことかしら……」
「それに、なんだか変だったよ。ずっとぼうっとしてて……」
「きっと、なにかあったのよ。――あ、だめよ、まだ安静にしてなくちゃ」
キラはよろつきながらも立ち上がり、歩き出そうとしたが、黒髪の女性――ユースの母親――が腕をつかんで引き留めた。その反動でふらつき、しかし、小柄なユースが全身を使って支えてくれた。
斧から視線を外したキラが少女をじっと見下ろしていると、腕が暖かな感覚に包まれた。じっとりとした熱気とは違う。みると、女性が掌に光を集めていた。
光が掌から離れ、引きずられたことによってできた細い傷にまとわりつく。
が、すぐに霧散してしまった。
「あ、あれ? おかしいわね、ちゃんと魔法は発動したはず……」
何かがおかしいのか、首をかしげながら女性は何度も光を集めていた。しかし、結果はすべて同じで、彼女の困惑の表情が消えることはない。
キラを支えている――といっても、半ば甘えるようにお腹に顔をうずめていたが――ユースも、その光景を不思議そうに見上げた。
「きみ。よかったら、薪割りを手伝ってくれないかい?」
三人が三人とも、何も起こらないという現象に黙していると、思考の海から浮かび上がった老人が穏やかな声をかけてきた。手には切り株の台から引き抜いた斧が握られている。
白馬のユニィも、彼の隣に並んで挑むように見つめてきた。無表情にも見える馬は、瞳に鋭い光を宿していた。
「お父さん! 何考えてるの? まだこの子は……」
「分かってる、エーコ。だが、すでに立てる。ならば、彼のできる範囲を見極めなければね」
「それは……そうかもしれないけど」
キラは老人から斧を受け取った。長い柄のそれは、先端が異様に重い。
手から腕に伝わる初めての感触を確かめ、切り株のほうへ歩こうとしたが、いまだに心配そうに抱き付いているユースで足が動かせなかった。
その黒髪を撫でてみると――いつまでもそうしていたいほどサラサラしていた――、少女はゆっくりと離れていく。
キラは斧を引きずり、切り株の前に立つ。
「まあ、そんなに力を入れる必要はないさ。無理なくね」
老人が勇気づけるように言いながら、台の上に薪を置いた。すでに何度か割られているためか、他のものよりも細かった。せいぜい腕の太さほどだ。
じっとその中心を見据え、斧を振り上げる。身体がふらつき――体制をなおして静止――振り下ろす。
パカンッ。乾いた木の音が鳴り響き、薪は文字通り真っ二つになった。ぱたりと左右に倒れた木片の断面は、斧で割ったとは思えないほど滑らかだった。
「……! これほどとは、想像以上……!」
目を見開いた老人は、まるでおびえるように震える声でつぶやき、白馬のユニィもブルリと鼻息を震わせた。
ユースもその母親も息を飲んで固まっていたが、キラは周りの反応には目もくれず、己の手を見つめていた。はじめてだったが、それが間違いだと思えるぐらい、斧を持った時にしっくりと来たのだ。とても、心地が良い感触だ。
「きみ、名前は?」
老人にそう問われ、キラは起きてから初めて素早い反応をしめした。即座に言葉の意味を理解し、首を横に振って、
「知らない」
一言、はっきりとした口調で言った。
キラの言葉に――そしてその意味とは裏腹に、平気そうなそぶりを見せたキラに――老人は面食らった顔をしたが、すぐに心配そうに顔じゅうにしわを寄せた。
「記憶がない、ということか……。いろいろと聞きたいことがあったが、それも無理なんだね……?」
「……たぶん」
続けて、キラは死人のような光のない瞳をしながらも、即答した。記憶がないという意味を完全に理解したのではなく、なにを聞かれても答えようがないためだった。
その変化に、唯一起きた直後の様子を知る少女は戸惑いをあらわにして、不安そうに母親の後ろに隠れた。
「ふむ……。とりあえず……名前が分からなければ色々と不便だ……。ずっと『きみ』と呼ぶわけにもいかないからね」
「そう、なの……?」
「うむ。……そうだ。どうだろう、『キラ』というのは」
こうして、キラはキラとして生きることとなった。
だが、まだこの時点では、この少年の記憶はあいまいだった。




