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35.幕開け

 広がる芝生に額をぐりぐりと押し付け、謝り倒す騎士には苦労した。彼だけならばまだしも、アリスもメイド服が汚れるのも構わず、同じようにキラの目の前でひれ伏してしまった。

 二人を何とか立たせたころには、辺りは暗くなっていた。雲に隠れつつも月がちらちらと弱く輝き、その明かりを補うように、上空に浮かぶ光の玉が存在感を放つ。


「本当に……面目次第もありません……」

「ああー……いや……」


 緩やかに撫でていく風を肌寒く感じながら、キラはどうしようか迷っていた。

 十中八九、白馬が脱走したのは、彼――といっていいかわからないが――の意志だ。王都に入った時から様子がおかしかったのだから、この出来事は必然といっていいかもしれない。


 キラが考え唸っていると、その意味を悪く取ったアリスがますます顔を青くして、すがりついてきた。親の許しを求める子供のように、ギュッと。

「あ、あの、あの! ぜ、絶対に探し出しますから! 必ず! だから……」

「え? い、いや、そうじゃなくて……こういうことは前にもあったから――」


 キラは続きを話そうとして、口を半開きにした。

 あの不可思議な白馬が、何かを感じて自ら脱走したのは疑いようもない。そしてそれが、悪いことである可能性はかなり高い。

 が……。それを説明して、アリスとこの騎士が納得できるだろうか?


 しばらく何も言わないでいると、二人は顔色を悪くしながらもキョトンとするという、何とも奇妙な反応を見せる。

 キラはいったん口を閉じ、そして再び開いた。


「ユニィのことは僕がよく知ってるから。だから二人は……あー……一応、ユニィが脱走したことをリリィに・・・・伝えておいて。僕が追うことも」

「はあ……リリィさまにですか?」

 アリスはますます訳が分からないような顔をして、反対に、騎士のほうは顔を真っ白に染めた。


「そ、そんな……お連れ様にご迷惑をかけたとなったら、わたしは……!」

「いや、だから、そういうのじゃなくて。きっとリリィも理解してくれるから。……たぶん、馬小屋を見せたら納得すると……」

「はあ……」


 アリスと同じような顔をする騎士を見て、キラはふいに思った。

 なぜだか、リリィも同じことを考えるだろうと、勝手に決めつけていた。

 エマール領のごたごたで、ぐっと仲が良くなったからだろうか?

 不思議な気持ちを胸に抱えつつ、再度口を開こうとした騎士を無視して、キラはエルトリア邸の公園を小走りにかけていった。




 エルトリア邸の門を出たところで、キラは「んっ」とうめいた。

 走る足を緩め、胸に手を置く。心臓が奇妙に蠢き始めた。自分の身体ではないようで、気持ちが悪い。

 幾度か深呼吸を繰り返し――ぱっと顔を上げた。


 ふと、感じるものがあった。心臓の蠢きなど気にならないほど強い何か……。それが、一気にこの王都を包み込んでいくような気がする。

 キラは眉をひそめて、空を見た。

 徐々に分厚い雲に覆われていく月……。その光景はまるで恐怖し、自分から雲をかき集めて隠れているようだ。闇が急速に支配力を増していく。


 だが、王都の上空にはいくつもの光の玉が浮かんでいる。

 だから街が本当の闇に包まれることはない――というのは、とんだ間違いだった。

 月明かりを遮る雲が、徐々に黒さを増したかと思うと、その暗さは干渉されないと思っていた魔法の光の玉にさえも侵食していった。あちこちにある明かりが、しぼみ、消えていく。

 あたりは、ほんの数秒で真っ暗闇となった。


「まずい……!」

 全身の毛が総立ちする。これは前兆だ。

 キラは踵を返して、エルトリア邸に引き返そうとした。

 しかし、視界の端に映った人影をとらえて、足を止めた。小柄な誰かが、走り去っていく。


「グリューン……?」


 闇の鳥籠に閉じ込められた街中で出歩いているのは、騎士くらいのものだろう。小柄な――それこそ、少年のような人影ともなると、その可能性は薄くなる。

 しかも、何か目的があるように一直線に走り去った。この突然の出来事に、たいていの人は慌てているはずなのに。


 オービットの時と同じように、またグリューンが一人で黒づくめの帝国たちと戦おうとしているのだ。

 小柄な人物が走っていた道とエルトリア邸を見比べ、悩んだ末に早足にかけていく。

 リリィとの離れないという約束も大切だが、ここでそのあとを追わなければ、一生後悔すると思った。




 キラはきょろきょろとしながら、リリィたちと通った道を戻る。このまま道なりに行けば、再度南門につくことになる。だがその間も、グリューン……らしき人影は見つからなかった。


 まさか、王都の外に……?


 そう疑問に思いながらも、まっすぐ南門に向かうのをやめられなかった。小柄な人物は、この道を走って王都の外へ出ていった――そんな気がしてならないのだ。


 門に近づくにつれて、騎士たちの行き来が多くなる。その混雑に紛れつつ、徐々に足を緩めた。

 皆、突如王都上空に訪れた異変に慌てている。

 あるものは持ち場を離れ、あるものは連絡のために駆け回り、あるものは声を張り上げて警戒を呼びかける。すでに剣を抜き放ち、戦闘態勢に入っている騎士もいた。

 どこからか、暗闇を照らす光の玉が放たれる。それに続くように、暗闇を照らす光が続々と。しかし、上空の異変に干渉されているのか、そのどれもが弱弱しいものだった。


 キラはその光景を振り返りつつ、小柄な少年がいないかきょろきょろとして足を運ぶ。わずかな明りを頼りに、多くの騎士たちの一人一人に目を配ったが、少年の姿はなく、とうとう行き詰ってしまった。

 目の前に、さながら巨大な壁の『跳ね橋門』がそびえている。到底一人で動かせるようなものではない……。


 こんなものが立ちふさがっていれば、グリューンはまだ王都の中にいるはず。この非常時に、誰かを通すようなことはないだろう。

 そうは思ったが、どうしても外に出たという可能性を捨てきれず、たまらず近くを通った騎士を捕まえていた。


「あ、あの! 今、外へ出ることは?」

「いや待て、それどころじゃ――うん? 君は……竜ノ騎士団の騎士ではないのか?」

「ああ……まあ……そんなことより――」

「だめだ、だめだ。見てわからないのか? もう戦争は始まってる! 今更街の外に出すわけにはいかん!」


 騎士は断固として首を振り、その場を立ち去ろうとした。

 が、キラは諦めきれず、手首をぐっと握った。何か言葉を出そうと思うも、口が開かない。そのかわり、手を払おうとふり向いた騎士に、睨むような視線で訴えた。


「……!」

 すると、騎士は途端におびえたような表情をした。恐ろしい、怖いという類のものではなく、何か見てはいけないものを見たような、そんな顔つきだ。

 幾度か、口を開けては閉じを繰り返し、そうしてやっと、

「分かった……。ド・ラクール様に聞いてみよう」

 深いため息をついて、騎士は降参した。


「ありがとう……ありがとうございます!」

「いいか。だめだったら諦めるんだ」

 騎士は手招きをして、早歩きに『跳ね橋門』のほうへ案内した。時折人にぶつかりながらも、あとを追う。その間に、ガラン、ガランと高く響き渡る鐘の音が続く。


 跳ね橋付近はより騎士たちが密集し、その中心には甲冑を纏った女性がいた。緊急事態にも涼しい顔をして、短いブロンドが特徴的な彼女は集う騎士たちにてきぱきと指示を出していた。騎士たちとは少し様子の違う鎧を身にまとっている。


 まずは門の守りを固めろ――魔法がだめならば松明で照らせ――王城には私の選んだ少数精鋭でつく――連絡係は早馬で北門へ向かえ――。

 皆、彼女の言葉を信頼しているのか、異を唱える者はなく、頷き了解の意を示した騎士から足早に立ち去っていく。見る見るうちに集団は少なくなり、一分もしないうちに、声をかけることが出来た。


「ド・ラクール参謀長」

「要件を」

「は。この少年が、『南端跳ね門』からの出門許可を求めております」

「出門……少年……?」


 ド・ラクールと呼ばれた女騎士は、整った薄い眉を不愉快そうに歪めた。彼女は鋭い視線を騎士に向け、厳しい口調でとがめた。

「規則に反することですよ。この非常時、少しの乱れが大きな混乱と狂乱をもたらすこととなるのです」

「も、申し訳ございません」

 素直に頭を下げる騎士を一瞥し、「よろしい、持ち場につきなさい」と短く指示を出す。すると、彼は一目散にその場をかけていった。


 ド・ラクールは背筋を伸ばしたまま、キラのほうへ向いた。歪められた眉が、改めて歪められる。

「黒髪に黒目……防具のない旅人の格好に、腕の包帯……。少年、名は?」

「あ……キラ、です……」

 その厳しさに半歩引いてしまったキラだが、すぐに背筋を伸ばし、女騎士をまっすぐと見た。シリウスの威圧感に比べればまだましな方であり、それに、ここで背中を向けるわけにもいかなかった。


「キラ……そうか、君が」

「?」

「あなたのことは色々と報告を受けている――いや、受けおります、キラ様。リリィ様とセレナ様へのご助力、ならびに王都に至るまでの支援……心より感謝申し上げます」

 上の者から下の者へ。ド・ラクール参謀長はきっぱりとした態度で固い挨拶を述べ、深々と頭を下げた。


「いや……あの……」

「が、しかし。申し訳ありませぬが、いかにキラ様といえども非常事態ですゆえ、出門の許可をいたすわけに参りません。どうか、ご理解を……」

 直角に腰を曲げ、そう早口に続けたまま、参謀長は動かなくなってしまった。口調といい、ころりとかわった態度といい、相当に規則や上下関係に厳しい人らしい。


 しだいに『南端跳ね門』で待機を命じられた騎士たちにざわめきが広がっていくのを、キラは感じた。

 参謀長というのは、とても偉い人なのだ。

「あの!」

 だが、キラもここでまごまごしているわけにはいかなかった。


 周りの視線を一切無視して、女騎士の肩を両手でつかんで、上体を無理矢理に引き起こした。

「友達が危険で……どうしても外に出なきゃ……」

 厳格な彼女も、強引な頼みに多少の嫌気がさしたのか、上げた顔は少し不愉快そうだった。

「友を思う気持ちは痛く存じ上げているつもりです。しかし……」

「だから、そこを――!」


 キラはさらに語気を強めて――どくん、と心臓が不意に脈打った。

 気味の悪い鼓動と共に、また何かを感じた。

 大した強さはないが、とにかく多い・・

 唇を噛み、表情が歪むのを我慢する。ぴくり、ぴくりと目の下が動いた。


「あ……」


 厳格な女性騎士は、突如として間抜けな顔をさらした。目を真ん丸に見開き、かと思うと、何もかも忘れたかのように見つめてくる。

 キラも同時に、彼女の瞳を見つめた。綺麗な青い瞳には、鏡に映るように、自分自身が入り込んでいる。

 そして、その瞳の中の自分の瞳を見た。――赤い。

 『誰か』が傍にいるような、ぞくぞくとする悪寒が背筋を走る。

 が、気にはしていられなかった。それが誰であろうが、今は関係ない。


「どうか!」

「う……承知いたしました。このことは、シリウス様とリリィ様、セレナ様にも漏れなく伝えますゆえ」

「ありがとう!」


 ド・ラクール参謀長のその後の行動は速かった。幾人かの騎士に指示を出し、数秒もかからずに跳ね橋を下ろさせ、開門した。

 一気に目の前がひらける。王都の薄明かりは少し先までしか届かず、その向こう側は真っ暗だった。


 その場にいる全員の視線を一気に受けながら、キラは女騎士に言った。

「ほんとにありがとう。助かるよ」

「いえ、お礼など。お早めにお戻りください。この不安定な状況の中、いつまでも待機しているというわけにも参りません」


 キラは頷いて――アリスの時と同じように、思ってもみないことを口に出していた。

「――気を付けて。魔獣の群れが襲ってくる」

 ド・ラクールがまたも目を見開き、キラはそのうちに、わけのわからない恐怖に駆られるように、走り出していた。

 すでに確信していた。

 自分の内側に、『誰か』がいる――。

 それも、取って代わる・・・・・・ほどに強い存在であるのだ――。

 




 ただひたすらに。王都の外へ出た理由も忘れて、がむしゃらに走り続けていた。

 息が続かなくなり、肺の中の空気が無くなると同時に、右肩が悲鳴を上げる。あまりの痛みと辛さにたまらなくなり、キラは膝に手をついて立ち止まった。

「ハァ……ハァ……」

 振り返れば薄い明りで照らされている王都がぼんやりと見える。


「グリューンは……そういえば、ユニィも……」


 キラは喘ぐように呟き、辺りを見回した。王都からの光も届かず、かといって灯りになるようなものもなく、暗闇が支配していた。空を仰いでも、月は唸りを上げそうな厚い雲に隠れている。

 人影など見つかるはずもなく。いったいどうすればいいのだろうと思案しているうちに、全身の肌を悪寒が伝った。


 ――魔獣だ。言葉にすればおかしなものであるが、『自分の言った通りに』魔獣の群れがわいてきたのだ。

 どこからともなく、まるで暗闇から生まれたように、突如としてそこに存在していた。

 一体、また一体と。


「く……これは……」

 キラが剣を構えた時には、刃のつぶれた鉈を持つひときわ大きな赤鬼――オーガに、数匹の黄色い目をした小鬼ゴブリンが取り囲んでいた。見た目も何もかもがバラバラな魔獣は、示し合わせたかのように動いている。

 他にも様々な姿かたちをした魔獣たちが生まれては・・・・・、のっそりのっそりと王都のほうへ向かっていく。


「くそ……っ!」

 リリィやセレナ、アリスの顔が思い浮かぶ――。キラは毒づきながらそれを阻止しようとしたが、一匹のゴブリンが背後から襲い掛かってきた。


 跳ぶために草原を踏みしめた音が異様に耳についたおかげで、すぐさまに対処する。振り向き後退しつつ、眼前に迫った小鬼の腹に向けて剣を抜き放つ。

 ギャギャッ!

 宙で緑色の血を吹き出しながらも、小さな手に不釣り合いな大きく鋭い爪を伸ばしてきた。

「ぐっ……!」

 間一髪で顔を反らし――頬が削られ――腕で払いのける。びたん、と地面に伏した小鬼は、その衝撃で絶命し、動かなくなった。


 それを見届けることなく、キラは自ら魔獣へと踏み込んでいく。一歩足を運ぶたびに、乱れていた呼吸を徐々に整えていき、次なる敵――二匹並ぶゴブリンの目の前で剣を振りかざした時には、リズムを取り戻していた。


「フッ!」

 右から左へ、返して、左から右へ。その命を絶つことに集中した剣の軌跡で、二匹の子鬼を沈める。短く雄たけびを叫びながら後ろから突撃してきた小鬼には、避けつつ蹴りを見舞ってやる。


 ――と、後ろから猛烈な風が首筋を通り抜けた気がして、とっさに真上に剣を掲げた。

 ガヅンッ!

 真上から、真下に。大きな赤鬼オーガが、手に持った鉈を不器用に振るってきた。

 技も何もない、ただ動作としてしか意味をなさないその一撃は、リリィの強力な一撃を思わせるものがあった。足が柔らかな地面にめり込み、蜘蛛の巣状にひびが入る。


「ぐ、ぅう……!」

 このぐらいの衝撃ならば、わけなかった。体の強靭さが再度試されているだけだ。

 だが、上から下へ全身を突き抜けた衝撃は、心臓を強く刺激した。


 ドグンッ、と。まるで別の何かが・・・・・痛み、苦しんでいるように、心臓が暴れだす。自分のものではない・・・・・・・・・みたいで、気が付けばそれほど苦しみがなかった。

 ふう、と細く長い息を吐きだす。真後ろでオーガが不満げにもう一度鉈を持ち上げるのが分かったが、なぜだか体が思うように動かない。


 キラはなんとかして、頭だけ後ろを振り向いた。キラの様子を悟ったらしい赤鬼が、にやりと口を汚くゆがめている。

 そして、二倍はある大きな体から、ちっぽけな鉈を勢いよく振り下ろした――。


 その瞬間、身体が自由になった。

 無我夢中で体の向きを変え――死という迫りくる恐怖を振り払うように、剣を切り抜いた。


 意外なほど、あっさりと。異様な筋肉の盛り上がりを見せていたオーガの二本の腕が、胴体と離れる。鉈を握ったまま、どこかへ飛び去って行った。

 少しして、顎が外れるほどに野太い悲鳴を上げたオーガの心臓辺りに、一突き。

 うらめしそうにキラの瞳・・・・を覗き込み――恐怖に顔を歪めて、どさりと後ろへ倒れこんだ。


「はぁ、はぁ……なんで……?」


 そんな言葉が出るほど、キラには一切の実感がなかった。オーガを倒したことも、両の腕が切断されていることも、何一つ。

 オーガという赤鬼が、目の前で勝手に死んだ……。それぐらいの意識だった。


 呆然として絶命した魔獣を見下ろしていたが、それで終わりではない。周りに、どこからともなく湧き出た魔獣たちが取り囲んでいた。

 見たことのない魔獣ばかりだった。三つの頭を持つ獰猛な犬や、とぐろを巻きつつ近づいてくる巨大な蛇、紫色の唾液を垂れ流すくすんだ毛並みの獣。


 中には、グストの村で襲ってきた巨大な二本槍を携えるベヒーモスや、ほかにも、仲間の死を嗅ぎつけてやってきたゴブリンやオーガもにらんできていた。

 キラが本当に安心するのは、これらを相手にし、さらにはその外側にいる無数の敵を全て屠り終わってからなのだ。


 剣を構え、周りを見つつも、暗く冷たい何かが胸の奥をひやりと撫でる……。

 死……?



 ――ぐぉらぁ! ベヒーモスぅ! てめえの兄弟のしつけはどうなってんだァ!



 半ば恐怖で動けなくなっていたところ、ホッとするような雄たけびが脳内に響いた。

 キラが頬を緩めると同時に、そこにいたすべての魔獣が真っ暗な空を見上げる。

 ドラゴンを赤子のように扱う摩訶不思議な生き物――白馬のユニィが、空をかけて着地した。

 目の前で、今にも突進しようと足に力を溜めていたベヒーモスを踏みつぶして。悲鳴もなく頭蓋骨が馬蹄によって砕かれ、一体どうしたものか、まがまがしい二つの角も粉々になった。


 

 ――乗れ!

 


 キラは一も二もなく、その背に飛び乗った。それに反射的に飛びついてきたゴブリンを、すんでのところで切り落とす。

「ユニィ!」


 ――ここを抜けるぞ! 


 その合図とともに、白馬の綺麗なたてがみに伏せる。

 すると、体中がいきなり重くなった。息が荒くなる。ユニィがとんでもない脚力で地面を蹴ったのだ。吐きそうだ……。

 多種多様な魔獣の中には、少しくらいの高さならば追ってくるのではないかと思い、ふり向きつつ下を見てみる。


 ――三十万の人々が住む王都を、すべて見渡せた。密集している家々に、暗い中ではうっそうとした印象の強いエルトリア領地、王都の中心にそびえる王宮。何もかもが小さく、砂粒のように密集していた。

 追ってきている獣はいないが、その代わりに、まるで心臓を揺さぶられるような恐怖を感じた。足元に地面がないのに途方もない不安を覚え、ともすれば、ユニィの背から落ちてしまうような感覚に陥る。


 高い、怖い。高い、怖い……。

 キラは再び白馬のたてがみに顔をうずめた。


 ――悪いな、何も考えずに跳んじまった

「だ、大丈夫……」


 ――よし。なら、魔獣の少ない場所に降ろしてやるから、あの小娘のところにいけ。雑魚どもだが、この数だ。その上帝国兵士を相手するとなりゃあ、少しでも戦力があった方がいい


 恐る恐る、下を覗いてみる。白馬の毛をひっしとつかんで。……思いっきり怒られた。

 王都の外周のあちこちで、火の手が上がっていた。

 騎士たちのものか、はたまた魔獣たちの仕業か。この距離でそれを見極めるのは困難だったが、どちらにしろ、激しい戦闘が繰り広げられているのは確かだ。


 そして、しばらくして、王宮からさほど遠くない場所で、爆炎が上がった。

 脳裏に、オービットやバンリューの町で襲ってきた黒づくめの刺客が浮かんだ。


 帝国の襲撃だ! キラは高さも忘れて、その光景を見続けた。

 もはや、一刻の猶予もない。リリィやセレナたちが、あの場所で戦っているのだ。

 だが……。


「でも……グリューンが……」


 ――……何にしても、王都が堕ちればおしまいだ。小童のことはいったん忘れろ


「……わかった」


 白馬は嘶くと、まるで山を下るようにせわしなく足を動かした。空を跳んでいた――飛んでいたのが、だんだん低くなっていくのが分かる。

 ――それより、お前、大丈夫なのか? 誰か・・と居たみたいだが

「え? 誰? グリューンのこと?」

 唐突な質問に、キラは戸惑いの言葉で返した。


 ――いや、なんでもない…………どういうことだ……?


 ユニィは、キラが問いかけるまで、だんまりとしていた。憂慮することがあるのか、真黒な目が陰ってみえる。

「さっき、降ろすって言ったけど、ユニィはどうするの?」

 ――ちょっとした手助けをしに行く

「誰の?」

 ――あいつ……くそじじぃランディのだ

「! ランディさんが近くに……?」


 もっと詳しいことを聞こうと、身を乗り出して白馬の顔を覗き込む。ユニィはそれにどうこたえるか戸惑うように、真黒な目をゆっくりと瞬きしていた。

 そのまま幻聴が聞こえることなく、白馬の前脚がゆっくりと地面についたその時、右手から迫りくるものがあった。


 魔法だ! 明るく燃え盛る火球が、風を切って飛来してくる。


 間一髪でそれに気が付いたキラは、とっさに馬上から飛び降り、芝の上に身を投げた。白馬も、一歩踏み出して上手くよける。

 魔獣の襲撃か?

 キラは剣を抜き出し、その方向に向いて――ぽつりとつぶやいた。


「グリューン?」


 剣の先にいたのは、オービットではぐれたときと同じ旅人の格好をした小柄な少年だった。



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