32.〝裏〟
一度死んだ身としては、気配を殺すことなどたやすいものである。
「ある意味、ラッキーだったかもしれませんね……。リリィ様とキラさんがかき回してくれたのは」
シスは誰にも気づかれず、エマール城に忍び込んでいた。闇に紛れる真っ黒なマントを羽織ってフードを目深にかぶり、念のため〝音消しの魔法〟を足元にかけ、注意しながら奥まで入り込んでいく。
城――とエマールたちが勝手に名乗っているだけだが――のわりには、見回りをする兵士が極端に少なかった。いたのは城門の門番と、外周にある高台に立つ見張り兵ぐらいだ。
城内に入っても、廊下を巡回する者たちは全くいない。どころか、灯りのひとつもついておらず、とても不用心だ。
月明かりが美しい。そうやってのんびりとため息をつけるほど、隙だらけだった。
間抜けなエマールならばありえるこの状況であるが、さすがに疑問を覚える。
ただ、シスにはその理由に心当たりがあった。
どこからともなく現れた、白馬のたったの一撃により崩落した円形闘技場。そちらへ厳重な警備が敷かれていたのだ。
そのさまといったら、『ここに重大な秘密があります』と公言しているようなもので、正直にいえば、エマール城などよりもそこに眠る重要機密に興味があった。
だが、あの白髪の強者も、闘技場の周りの監視を担当していた。幾度侵入を試みても、必ず突き止めて来るのには、思わず舌を巻いたものである。
竜ノ騎士団の『裏』を務める者として、自ら引き下がるのは癪だったが、見過ごすしかなかった。ここで正体がばれては、潜入した意味がまるでなくなる。
暗闇の中、シスは少しの灯りも頼りにすることなく、迷わず廊下を進む。エマール親子が使わないような端っこの通路だというのに、無駄に上質な赤いじゅうたんを敷いているのが、いつものように腹が立つ。
このエマール城には、何度も出入りしていた。誰にも気づかれないような秘密の空間を見つけ、隠し扉を作れるほどに。
そうやって、ここ数か月、ずっとエマール親子を監視していた。
それでわかったのは、親子はかなり慎重に事を運ぶということ。少しでも異常があれば、躊躇して、行動を起こさなくなる。
だが、今回ばかりは違う。
なんといっても、王都で大きな発言力を持つリリィ・エルトリアに領内の現状を知られ、さらに愚かなことに、彼女へ刃向かった挙句に失敗したのだ。同時に、自ら裏切り者であるということをさらしてしまった。
当然、リリィは騎士として貴族として――そして最愛の母を失った娘として、王都へ警鐘を鳴らすだろう。
その恐ろしさを――『裏』の竜ノ騎士団が動くことの恐ろしさを、トレイト・エマールは知っているはずだ。
エマール領は半日も持たない。
シスはそうではないが、『裏』に所属する多くの者は手段を選ぶということを知らない。彼らの前では、命などごみくず同然だ。どうにも親切心が捨てきれないシスでも、命令さえあればエマールの首を取ることぐらいできる。
ただ、今は時期ではないだけで……。シャルル三世も命令したいのを必死にこらえている。
何にせよ、エマールは行動せざるをえない。
国王に頭を下げるか、王都へ進軍するか。ごたごたがようやく収まったこの夜、必ず領主は自室に息子を呼んで、これからのことを画策する。
国を売った彼らがどう動くのは想像に難くないが、その詳細を知らねば、またあの惨劇が繰り返されるのだ。
シスはつきあたりの廊下の窓から外へ出て、夜空を見上げた。静かに輝く月に、双子の尖塔の黒い影がかぶさっている。このタニアで最も天に近い場所だ。
それぞれの頂上に、まるでタニアを見下ろすように親子の部屋があてがわれている。
今回の目的は、西側のほうの尖塔にあるトレイト・エマールの私室だ。その天井に、準備しておいた秘密空間の一つがある。
わずかに目視できる、尖塔に掲げられた旗をじっと見つめる。ぎゅるりと、瞳の色が濃い青色へと変色する。
凝視して数秒――鋭く息を吸い込んで――転移。
一瞬にして、シスは塔特有の急な屋根に膝をついていた。足場からずるりと転げ落ちそうになるのを、ポールに手をかけて防ぐ。吹きすさぶ風は冷たく、旗がたえずうるさくはためいていた。
ふう、とシスはため息をついた。
魔力量がほとんど底をついているを意識する。短距離とはいえ、〝無陣転移〟を使うのはこれで三度目。このそうそうない体験で、時折頭がぼうっとして、気を失いそうになる。
が、こういう時に、改めて自分がヴァンパイアであることを認識するものである。こんな状態であっても、まだいくつかの魔法を使えると確信できるのだ。人間だったなら、とっくに昏倒している。
シスはポールから手を放し、気を付けながら屋根の端まで滑り降りた。目の前がちかちかするのを何とか振り払いつつ、屋根の一部の突き出た部分に指をひっかける。
ぐっと引っ張ると、作り込んだ仕掛け扉が開く。黒塗りのナイフ片手に、警戒を怠らずに侵入。天井板ではなく、一番太い梁へつま先から着地した。
天井裏は真っ暗で、人の気配はおろか、虫一匹もいない。
シスはほっと一息ついた。こういう任務を長くこなすと、むしろ暗いところが安心する。月の光でさえ、明るすぎて恐ろしい。
〝無陣転移〟で失った体力を取り戻しつつも、状況を詳しく知るため、あらかじめ切り抜いておいた天井板をはずす。明るい一筋の光が入ってきた。
そっと下を覗くと、太った体に煌びやかな布を纏って異国風に仕上げたトレイト・エマールが、せかせかと落ち着きなく部屋中を歩き回っている。
どうやら、まだ息子は来ていないようだ。
イラついているような雰囲気を出す領主を見て、シスもまただんだんと腹が立ってきた。
いまのエマール領タニアほど、混雑した情報源はない。様々な思惑が絡み合って、よく把握していないことも多々あるのだ。
大量の傭兵に――この中には下手くそな潜入者もいる――〝預かり傭兵〟たち、あの褐色肌の『授かりし者』、そしてブラック。
特にブラックに関しては、大した情報が得られていない。
エマールの傍にいることが多いのは確かだが、それも常にというわけではなく、とりわけエマール城には近寄りすらしない。不思議に思って調べてみようとすると、姿は見られないまでもほとんどが看破されてしまう。他に分かっているのは、リリィと同等以上の実力を持つということだ……。
が、これら以外にも面倒な問題がある。
帝国だ。
エマールが裏切り者である以上、どこかで帝国とつながりを持っているはず。
もしかしたら、あの大量の傭兵や行商人たちに紛れているのかもしれない。あるいはすでに、このタニアで根を広げているのかもしれない。
どれか一つでもわかれば、ぐっと進展する可能性があるのだが……。
がちゃり、と扉が開くような音を聞いて、シスは注意を引き戻した。
息子のラスティだ。父親譲りのねっとりとしたくせ毛の前髪をかきあげ、部屋に入ってくる。
父親とは違って、夜中だというのに、まるでどこかに出かけるような格好をしていた。上等で、煌びやかであるという点だけは一致している。
「……ん? 貴様も一緒か」
「俺は来なくていいと言ったんだがな……」
「フフフ……。まあそうおっしゃらずに。あなたがたにとっても、お邪魔ではないはずですよ?」
ラスティに続いて、別の男が入ってきた。くすんだ金髪を後ろになでつけ、小さな丸い鼻眼鏡が近くの蝋燭でちらちらと光っている。
特徴的なのはマントのような白衣だった。その上質さは、きめ細かな光沢のある絹にも似ている。ちらりと見える黒いズボンやブーツも、簡単にそろえられる代物ではなかった。
含みのある声は嫌に甲高く、耳にこびりつくような響きがある。
シスは眉をひそめた。これほど際立った存在だというのに、この男には見覚えがなかった。
仮にもエマールは『御三家』のひとつである。エマール領タニアという強固で滑稽な城塞を作った権力者だ。そのトップの私室に、半ば無理矢理入るとは、エマール親子にとって相当重要な人物であるはず……。
なのに、姿はおろか、声にも聞き覚えがなかった。
見過ごしていた? あるいは、表に出ることを嫌う人物なのか?
「フフ……。まずは親子水入らずで。私は一切口出しをしませんので、ご安心を」
切れ長な目を細め、男は不気味な作り笑いを浮かべた。
「勝手に踏み込んできておいて、何を……」
「まあよい、ラスティ。力を借りているのは事実だ。……いいか、余計な口出しはするなよ?」
「フフ……ええ、もちろん」
そう言って謎の男は腕を組み、壁に寄りかかった。置物のように、ピクリともしない。
父親はけがらわし気にその姿を一瞥し、息子に向き直った。
「して、どうする? あの小娘にばれたことは、決して小さくはないぞ」
「大丈夫さ。あの時は少々取り乱してしまったが……父上は席を設けてくれればいい。リリィの婚約者たる俺が、責任を持つ」
「我らの王国に反逆した重罪人であるぞ?」
シスは眉をひそめた。
『我らの王国』……? 肥えた領主のこの言い方に疑問を覚えた。
千年前の初代国王を祖先に持つ『御三家』。その中でも、エマール家が一番濃く血を受け継いでいる。
このことについて、エマール家は王家と確執を抱えているという噂があるが……。
「我らの、と言うなればこそですよ、父上。後世にはより良い子孫を残さねば。そのためには、法など……」
「ふん、我が息子ながらなかなか傲慢な奴だ。常々言っていることだが、再度忠告するぞ。エマール家の悲願は、何が何でも……」
「みなまで言わずとも。しかしああなった責任はリリィにはない……。あのクソガキだ。あいつだけは許さない……あいつだけは!」
ラスティはぶるぶると体を震わせてかんしゃくを起こし、「あいつめ、あいつめ!」と壁を蹴り始めた。
その脳裏で二人が夫婦の宣言をし、かつ契りを交わした光景が幾度も浮かんでいるのだろうと思うと、シスは愉快で仕方がなかった。
「誰がなんと言おうと! すぐにでも奴を見つけ出し、地獄を見せてやる!」
「同感だな。貧民には貧民らしい生き方と態度というものを教えてやらねば」
キラを探すつもりらしい。その執念深い言葉から察するに、あの大量に雇った傭兵を使うこともあり得る。今夜にでも。
だが、シスは首を傾げた。
帝国と手を組んでいるという割には、少し勝手をしすぎではないだろうか? その目的を見失っているとも取れる行動が許されているとは思えない。
壁際で物静かな置物となっていた男も、同じことを思ったようだった。
「フフ……その憎悪は興味深いところですが……しかし、今、私欲で動くのはまずいのでは? 私が思うに――」
何か重要なことを続けようとした男の言葉を、ラスティが苛立ちをぶつけるようにぴしゃりと遮った。
「黙れ、口出しをするな! 大体、なぜ今回に限って出しゃばる? いつもどおり地下でこもっていればいいものを」
「いろいろと動いている気がしましてねえ。図らずもこのタニアが、様々な出来事の核となっているのですよ。何でも、何者かがこそこそと嗅ぎまわっているそうじゃありませんか」
シスはどきりとした。
やむを得ないとはいえ、闘技場では目立った立ち回りをしてしまった。
しかもうかつだったのは、何度も潜入を妨害してきたブラックが見ている前で暴れてしまったことだ。
キラと初めて会った教会前でも、わざわざ声をかけられたりなどして、かなり疑われていた。
「何者か、だと? いったい誰だ?」
太った領主が眉根を寄せて問うた。
面が割れているのかどうか……。シスもまた、天井の下の城主気取りな二人と共に、固唾をのんで答えを待った。
「フフフ……さあ?」
だが男は、奇妙に微笑むだけだった。
「分からないのなら口にするな。ともかく俺は発つ」
時間と場所に似合わない格好なのは、最初からその気であったのだ。
ラスティは、到底旅用とは思えないような煌びやかなマントを翻し、部屋を出ていこうと扉に手をかけた。
――と。
「勝手なことをするな」
この場にいるどの男とも違う声が、低く響いた。
心臓が飛び跳ねそうだった。さっきの比ではない。
いきなり白髪赤眼の男が現れたのだ。扉の方からではない、どこからか。
少しの魔法の気配も感じないとは、これほど脅威なのかと改めて思った。
「貴様らがいようがいまいが変わることはないが、計画は絶対だ。すでに動いているのだからな」
シスは息を殺して、新たな男――ブラックを観察した。万が一天井の孔に気づかれても大丈夫なほど、暗闇に紛れて。
「ブラック殿……しかし、我々としてもこれでは示しがつかないのです」
太った領主は妙に腰の低い態度を取った。息子のほうは、突然現れた白髪の男に対しても気丈にふるまっているように見えるが、膝が少し震えている。
「貴様らの都合などに興味はない。嫌というなら、こちらから手を引くだけだ」
そういうことか、とシスは得心した。
エマール親子とブラック、そして謎の白衣の男。彼らは決して、一丸となってこのタニアにいるのではないのだ。利害関係か、あるいは……。
「おい、言っておくがな……」
力関係も対等ではない。
反論しようとしてブラックに睨まれ、すくみ上っている愚かなラスティが良い証拠だ。
「刃向かうこともできないなら、最初からそんな考えを起こさないことだな」
「ぐ……!」
そしてエマール親子は、この関係を歓迎しているわけではない。
ますます興味深いものとなった。
プライドの高そうなこの親子が、苦虫を噛み潰してまで協力を仰ぐその理由とは? そうまでして達成したい『悲願』とは?
「フフフ……厳しい物言いですねえ」
「口出しをするな。貴様の目的は我々と関係のないところにある。勝手に介入してかき回すようなことは許さん」
「おやおや。一応、私も提供者の一人ですよ?」
「それも貴様の勝手だろう」
「フ……相変わらずつれないですねえ。ブラックなんて名もつけてもらって……今はそちらにご執心というわけですか?」
「今も昔も、誰かになびいたことなどただの一度もない。ベルゼ、貴様には恨みさえあることを忘れるな……気が変わればすぐに始末してやる」
「ク、フフフ……! できますか、それが?」
ブラックと個人的なかかわりがあるらしい謎の男――ベルゼは強く睨まれているにもかかわらず、愉快そうに、そして奇妙な笑みを浮かべた。
こちらは協力関係というより、ただ偶然居合わせただけのようだ……。
この三角形のような形の関係を正確に読み取れば、今、タニアで絡まっている情報の糸がほどけるかもしれない。
シスはフードをかぶり直し、そっと穴から離れた。
ブラックがいる以上、長居は禁物だ。魔法を使っていなくとも、どういうわけかすぐに察知してくる……常識では計ることのできない相手なのだ。
隠し扉から寒風が吹きすさぶ屋根へ出て――、
「う……?」
目の前に、額に大きな傷跡のある巨大な顔があった。
並ぶ凶悪な牙の間から、ちょろちょろと炎が見え隠れする。
竜人族――ドラゴンだ。
なぜこんな場所に? オービットにいたという報告は聞いているが、たった数日で飛んできたのか? それにしては音がなかった。では、何者かが呼び寄せた?
そんな疑問が一瞬にして頭の中を駆け抜けたが、長年の経験のたまもので、それらが終わる前に〝吸血鬼化〟を遂げていた。純白のマントが翻る。
「チッ、魔力が少ナイって時ニ……!」
ドラゴンが凶悪で強大な口を、喉の奥の火炎放出器官まで見えるほどに開き、燃やし尽くさんとばかりに炎を吐きだしてくる。
シスは乱暴に愚痴を吐きながらも、滑る屋根の上でしっかりと体勢をととのえ、冷静に対処した。
〝不可視の魔法〟――見えない力を巧みに操り、目の前に展開する。
ほとんど同時に直撃した炎は、壁に阻まれたように四散し、辺りの建物を――正確にはラスティの私室がある尖塔を――燃やし、轟音と共に破壊した。城のあちこちにも、業火の炎が燃え移る。
一瞬にして暗闇が打ち払われ、代わりに恐怖による光が満ちた。
「呪イに屈シタ軟弱ものガ……とっとと地獄へ落チロ!」
シスは、今度は羽ばたいて後退しようとするドラゴンの頭上へ手を向け、〝不可視の魔法〟を展開。見えない力で、ドラゴンを叩き落とす。
巨躯は抵抗もできずに勢いよく落下していき、城の渡り廊下に埋もれる。
が、やはり頑丈で、瓦礫の中ですぐさま身を起こしていた。
「やってられナイな……」
たったの二発で魔力が枯渇しかけているのを感じ取り、シスはくるりと背中を向けて跳んだ。
〝吸血鬼化〟は〝真眼〟によって発動するが、この際にも魔法の力を必要とする。このおかげで身体能力が格段に上昇するが、それだけでは堕ちた竜人族は相手にできない。
崩れゆく尖塔を経由し、燃える城のあちこちを跳び回りながら、折よくドラゴンの視界から外れる。そして音もなく、城を囲う城壁を飛び越えた。
着地したシスはふっと息を入れ直し、〝吸血鬼化〟を解いてフードを外す。マントが白色から黒色へと変色し、暗闇に紛れる。はたから見ればは、シスの色白な顔が浮いているようだった。
「はあ……。ドラゴンはさすがに予想外でしたね……。それに影にいる知恵者、ベルゼ……エマさんの読みが当たりましたね。まさかあの情報だけで見抜くとは……さすがです」
深呼吸をしつつ、暗がりに隠れて移動する。
城内が徐々に喧騒に包まれていくのが分かる。警備にあたる兵士を減らしたせいか、反応が鈍い。
とはいっても、ブラックがいる以上、安心はできない。
そして――、
「最悪の状況を想定しておくべきですね……。しばらく町を離れましょうかねえ……シリウス様の雷が怖いですが……」
シスはそうぼやきながら、闇夜に消えた。




