30.無意識
――起きろ、オイ
そんな幻聴が寝ぼけた頭の中に響いてきて、キラはゆるりと目を覚ました。
目の前には、美しい寝顔があった。つややかな白い肌も、小ぶりなかわいらしい鼻も、ピンク色の薄い唇も、はっきりと見て取れる。やはりリリィには『絶世の美女』という言葉が似合っていた。
身じろぎするだけで鼻先がくっつき、唇さえも触れてしまう。
瞬時に闘技場で口づけを交わした時のことが脳裏をかすめ、キラはぱっと離れた。今まで何ともなかったのに――確かにドギマギはしていたが――、奇妙な気恥ずかしさがある。
そのまま布団から出ようとしたが、かなわなかった。
リリィが「んんぅ」とかうめき声をあげながら、ぎゅっと腕を巻き付けてきたのだ。いつもの通り、とても力強い。寝ているせいか、ぐいぐい胸を押しつけてくる。……柔らかい。
キラは顔を真っ赤にしながら何とか抜け出そうとして――彼女の腕に巻かれた包帯に触れた。
ブラックから受けた深手だ。
タニアで別れた後、リリィはニコラとエリックを安全なところまで連れて行ってくれた。
その間に治療などしている暇はなく、彼女の腕にはひどい傷が刻まれたままとなっていた。
一応治療もしたらしいが、急いで引き返している馬上でのことだ。魔力が残り少なく、揺れていることもあって、完全には治りきらなかったのだ。
傷跡は消せるようだが、キラは情けなくて仕方がなかった。
静かにリリィの背中に腕を回し、そっと撫でる。何度も、何度も。
それだけで彼女のうめき声は消えてなくなり、静かな寝息だけが聞こえてきた。
しばらくして体を離してみると、今度は抱き付いてくることはない。
キラはベッドをすり抜け、彼女の頬を一回撫でてから、備え付けのランタンを持って部屋を出た。
夜空に浮かぶ大きな丸い月が、周りの星々とともに明るく光っていた。澄んだ空気は肌寒く、リリィのぬくもりを恋しく思いながら、キラは宿を出るとすぐ隣の馬小屋に入る。
ランタンは長らく使われていなかったらしく、小さく揺れる火はどこか不安定だった。不気味に収縮する灯りで足元を照らしながら、小屋の奥へ進む。
それぞれの区切りには、宿泊客たちの馬が並んで眠っている。
――ヨォ、小僧
一番奥の壁際の仕切りには、闇夜さえも吹き飛ばすような真っ白な毛並みを持つ馬、ユニィがいた。
もどかしそうに足踏みをしつつ、鼻を鳴らす。
「ユニィ……どうしたの? っていうか、何で近くじゃないのに……?」
――俺の声が聞こえてるってこと自体が、お前の中で影響が出ちまってるってことだ。そんでもって遠くにいても幻聴が聞こえるってこたあ、もう手遅れなんだよ
「悪い影響? 手遅れ……?」
――……お前、闘技場にいたとき、何かを聞いたか?
何を? と聞き返したりはしなかった。キラ自身も、引っかかっていたことだ。シスが去ってから、ずっと頭の中にその疑問がこびりついている。
闘技場で何があった?
時間がたつごとに、思い出せなくなってきているのだ。タニアの闘技場で起こったことを思い出そうとしても、霧のようなものが邪魔をして、上手く思い出せない。
今、かろうじて残っている記憶は、婚約者の宣言をして、口づけを交わしたくらいだ。
それ以外で何があったかと聞かれれば、キラは口を閉ざすしかなかった。
「でも……それがどうしたの?」
――……思い出しておけ
「なんで?」
――気を許さないためだ
「誰に……?」
――俺にもわからねえ……だから混乱してんだよ……。第一、テメエに〝覇〟が憑りついた理由は何だ……?
「ユニィ……?」
キラは眉をひそめて、馬面の目を覗き込んだ。
ユニィの真っ黒で真ん丸な目は、すでになにも捉えていなかった。
――前代未聞だ……よりにもよって……接触経路もないままに〝覇〟を目覚めさせるだなどと……。あの青二才が原因か……?
ぶつぶつとつぶやくような幻聴はやがて消え入り、白馬は完全に自分の考え事でいっぱいになったようだった。
キラはそっとその場を離れようとして、背中を向けると、
――小僧、これからどうするつもりだ?
ユニィが唐突に我に返って聞いてきた。
「僕は……リリィの手助けをするだけだよ。今はね」
そのあとに、命の恩人のランディへ恩を返していく。
それはずっと前から決めていることだ。
なぜ今になって聞くのだろう?
返事はなく、真っ黒な目を見返してみたが、とうてい馬の考えを読み取るということは出来ず、キラは首をかしげて小屋を出た。
シスが不吉な――とても不吉な言葉を言い残して去り、リリィがこの宿の部屋に到着するまで、キラはずっと眠っていた。
彼女が買い物に出かけている間もずっとうとうととしており、気づいたら再び眠り込んでいた。
そんな中で目を覚ましてしまったのだから、布団にもぐろうという気は起きなかった。
ベッドで寝息を立てるリリィを起こさないように、キラはランタンの光を仕切りで絞ってテーブルに置いてから、ふと思ったことをしてみる。
椅子に腰かけ、さやから剣を抜き放ち、ランタンの小さな黄色い光にかざす。鈍い銀色の刃は、所々詰まったように光を反射する。
剣の手入れである。
とはいっても、砥石の使い方を知らない。本当ならば挑戦してみたいところだったが、剣の状態を確認して断念した。
その刃は誰がどう見てもボロボロで、中ほどにはまるで消えてなくなったような数センチの刃こぼれもあったのだ。
キラは分厚い布で表面の汚れを落としつつ、不思議に思った。
誰がこんな風にしたのだろう……?
この剣は、英雄のおさがりだ。
彼が昔から使っていたもので、刀を手にするその時まで、目立った刃こぼれなど生じなかったという。手入れを怠ることはなかったが、いつみても、どれほどの強敵を倒した後でも、欠ける気配すらなかったらしい。
そんな剣が、なぜ……?
『元から貴様が――』
その時、頭の中で何かの記憶がよみがえった。
冷徹な男の声……そう、ブラックだ。
――支配されるな!
これはユニィの幻聴だ。
だが、いつ、何に対してそんなことを言った?
思い出せそうだが、思い出せない……。
〈――臆病者ね〉
耳元に吹きかけて来るような声がした気がして、キラはびくりとして剣を落とした。
ガラン! と静寂な部屋で金属音が響く。半ば腰を浮かして、真っ暗闇の中、辺りを見回す。
むろん、リリィ以外には誰もいない。だというのに、キラには他に誰かが――声の持ち主である女性が――いるような気がした。
ユニィが声真似でもしたのだろう、と思うこともできない。
原理は分からないが、白馬の幻聴の場合、真正面から話しかけてくるような感覚がある。だから、突然声をかけられても驚きはしない。
だが女性の場合は――。
「あ、れ……?」
忘れてしまった。
思い出そうとしても、まるでわからない。ついさっきのことだというのに。
キラは眉をひそめながら床に転がった剣に手を伸ばし、はたと止まった。
考え込んでいる最中に何度も磨いた剣の腹は、顔半分を歪んで映している。暗いせいで、ぼんやりとした灰色であったが。
――瞳だけが、異様に赤かった。血がにじみ出てきたように。
どういうことだ……?
何が起こっている……?
とたんに恐怖が襲ってきて、キラは身震いした。
呼吸が浅くなる。どんどんと息がしづらくなる。
なにが……誰が……なぜ……?
「――キラ、キラ? 大丈夫ですか?」
顔を上げると、リリィが眠そうにしながらもとても心配そうにするという、何とも奇妙な表情で覗き込んでいた。
「僕の目……赤くない?」
キラは、震える声で問いかけた。
「え……?」
リリィは驚いたように目を見開き、戸惑った様子で口をパクパクしていたが、すぐに首を横に振った。
「いいえ……。わたくしの好きな、黒い瞳のままですわよ?」
その言葉で――彼女の声を聴いただけで、キラはほっと胸をなでおろした。
やはり、リリィといると何もかもが怖くなくなる。身を縛る不気味な恐怖が、瞬く間になくなっていく。
なおも心配そうに手を伸ばして頬を撫でてくる彼女に、ひきつりつつも笑みを投げかけ、立ち上がる。
と、その時。
ぐらぐらと床が揺れた。
「お……わっ」
「じ、地震! ――ひゃっ」
その揺れは立っていられないくらいで、キラもリリィも倒れ込んでしまった。
ガタガタガタッ、と収まる気配はなく、部屋中の調度品が床に叩き付けられていく。棚が倒れ、壁掛けの鏡が落ち、テーブルが倒れる。絶えず何かが割れ、壊れる音が鳴り響いた。
キラは腕の中のリリィを無我夢中で抱きしめ、頭を守りつつ伏せた。
「ん……おさまった……?」
「そう、みたいですわね……」
注意しながら立ち上がってみる。揺れている感覚はいまだに体を支配しており、揺れているのに揺れていないという、妙な感覚に陥る。
下手をすれば再び尻餅をつきそうだったが、少しするとそれも薄れてきた。
リリィの手を取って助け起こし、彼女が指を振って光の玉を部屋に放つと、その悲惨さが明るみに出た。
いろいろなものが床に散らばっている。鏡が割れた際、破片が激しく飛び散ったらしく、隅に置いてあった買い物袋の所々が裂けていた。
テーブルの上にあったものも落ちている。ぞっとしたのは火のついていたランタンで、割れて飛び出した火種が床を焦がしていた。だが、火は燃え広がることなく、不自然に鎮火する。
「幸運でしたわね。シスが結界をはってくれていなければ、この部屋はすぐに煙だらけになっていましたわ」
リリィはキラの剣を拾い上げ、鞘に戻して壁に立てかける。それから、散らばった荷物を整理し始めた。
「結界って、そんなにすごいもんなんだ……」
「手順を知っていれば、という条件が付きますけれどね。彼の場合はヴァンパイアの目――『真眼』を用いた特殊なもので、わたくしたち人間には決して真似のできない〝結界魔法〟なのですわ」
「へえ……」
キラは感心しつつ、窓のそばに寄った。外を見てみると、月明かりに照らされたバンリューの小さな町が、慌ただしく騒いでいた。
突然の地震に人々が家から転がり出て、安全を求めて右往左往している。
「騎士団って、いろんな人がいるんだね。ヴァンパイアのシスとか……セレナはクォーター・エルフだし……」
「騎士団は来るもの拒まず。騎士としての誇りを持ち、王国の民に忠誠を誓うのであれば、誰にでも入団資格はありますわ。――むろん、キラにも」
リリィの声には期待のようなものを感じて、ちらりと振り返ると、彼女がじっと見つめてきていた。暗闇の中でもわかるほどに、その頬は紅潮し、青い瞳が輝いている。
だが、キラは何も返すことが出来なかった。
何か言おうとしても言葉に詰まり、結局、再び窓の外を見るしかなかった。
「……あれ?」
「どうかしましたの?」
「いや……うん?」
窓の外が、どこかおかしかった。
町人たちの様子が見えづらい――そう、月明かりがなくなっている。夜中に影を作るほどの明るさであったというのに、その光が一切途絶えていた。
「なにが――え?」
窓を開け放ち、空を見てみると、何かが見下ろしていた。ごつごつとした輪郭が、背後の月明かりで浮き彫りになっている。
巨大な何かが、町を覆い隠していた。
キラはそれに、見覚えがあった。同じように寄ってきたリリィもそのようで、目を見開いていた。
この巨大な塊は――、
「ゴーレム……! なぜこんなところに!」
オービットの岩肌で生まれた、岩の人形であった。
● ● ●
「ヴァン師団長! あまり無理をされては……」
「平気だってんだよ、こんなの! もう治ってんだろうが。それよかもっと明るくしろ! またいつ敵が襲ってくるともしれねえんだ、休んでらんねえぞ!」
精悍な声が夜闇の澄んだ空気を叩き、周りの騎士団員たちに喝を入れた。
各々瓦礫に腰かけて、疲労のつまったため息をついていたが、第一師団のトップであるヴァンが一つの休憩も入れずに動き続けているのを見て、再び作業に取り掛かった。
「ったく……」
騎士団の魔法使いたちが、杖を掲げて上空に光を放つのを見て、ヴァンはため息をついた。
鉄鉱の町〝オービット〟は、突如現れた堕ちた竜人族と巨大なゴーレムによって、ひどく荒らされてしまった。
家々はつぶれ、道路に敷かれた石畳は高熱の炎によって溶かされ、騎士団支部の建物も、ゴーレムの一撃によって甚大な被害を被った。
唯一の救いは、死人がゼロであるということだ。
それは、その時居合わせたキラという少年によるものが大きかった。
彼が――そしてリリィとおかしな白馬が――、ドラゴンの注意を引いてくれたおかげで、住民の避難と護衛がぎりぎり間に合ったのである。
「ほんっと、面倒くせえことしてくるなあ、帝国は」
ヴァンは憤慨しつつ、ボコリと穴が開いた岩肌を見上げた。
問題は山積みだ。だが、がれきの撤去だけで四日間を費やした。
それだけでもやってられないというのに、肝心要の〝転移の間〟をつぶされてしまった。
そもそも、転移の魔法陣というのは、簡単に作れるものではないし――むろん復元も同様だ――、やたらめったら周辺に設置できるというものでもないのだ。
騎士団の駐屯地たる支部はどこにでも築けるが、『魔法陣付きの支部』は、師団につき一か所――騎士団本部たる王都のものと合わせると、広大な大陸に、たったの十三か所――しか設けることが出来ない。
つまり、他の師団からの援助は期待できないのである。食糧も物資も人材も、何もかも。
第一師団の担当区域には、オービット以外の町にも騎士団支部がいくつか設置されている。だが支部間の距離は遠く、何かと不都合が起こる。
早く何か対策を打たなければ。
だが、これら以上に、ヴァンが頭を抱えていることがあった。
「ってか、ドラゴンもゴーレムも、どこに消えちまったんだ?」
この四日間、瓦礫を片しながら考えても、いっこうにまともな答えが見つからないのだ。
堕ちた竜人族とあいまみえるということは、そうそうない。前の時はその珍しさに興奮して、感動ばかりしていたからリリィに先を越されてしまった。
今度は自分が――。そう思い、勢い込んで突っ込んだのだが、それからすこしして、突如として姿を消したのだ。
残念がる暇もなく、〝転移の間〟を壊そうとするゴーレムに取り掛かったのだが、それもすぐに消えてしまった。ドラゴンと同じように、闇に紛れるように忽然と。
ドラゴンが魔法を使うという報告はないが、それに似た何らかの手段を持っていてもおかしくはない。なにせ、人間が統治している大陸に竜人族が現れることなど滅多になく、彼らについて詳細なことを知っているわけではない。
が、ゴーレムは別だ。
ゴーレム――〝岩石傀儡の魔法陣〟で生み出されたこの人形は、常に術者が近くで操っていなければ成り立たない。魔法陣で作り出し、そのあとも魔力で操作しなければならないという特性がある。
あれほど巨大な個体となると、術者には他の魔法――考えられるのは〝転移の魔法〟のみ――を使う余裕などなかったはずだ。
となれば……。
「ふん。考えても仕方ねえか」
とにもかくにも、やるべきことは山ほどある。
区域内の支部との連携強化、帝国の襲撃への備え、食糧及び物資の確認……。
ヴァンはぼりぼりと頭を掻きむしってから、自分の名を呼ぶ声の元へ足を向けた。




