28.策略家たち
――王都、エルトリア邸
瞳孔はライトブルー、虹彩はブラウン。魔法族である特徴をしっかりと受け継いだセレナは、くしゃくしゃになった赤毛をなおしもせず、自室のベッドの上でぼけっとしていた。
窓から降り注ぐ朝日はまぶしく、暖炉でぱちぱちとはぜる音がどこか懐かしい。
ひとつ、大きなあくびをして、ふと思った。
世に聞く記憶喪失とは、こういう感覚なのだろうかと。
ここ三日間の記憶がまるでない。ぽっかりと、穴が開いたように。
それもそのはず。一時たりとも目を覚まさず、ずっと眠っていたのだ。
友人であるアリスにそう告げられても、セレナは驚くどころか、納得していた。
オービットでの緊急的な転移。魔法陣が崩れて場が安定せず、しかも途中でキラとリリィとユニィが滑り込んできたあの状況で発動するのは、一種の賭けであった。
それでも、なるべく皆がバラバラにならないように努力したつもりであったが、結局、転移先にはセレナ一人しかいなかった。
幸いだったのは、転移を失敗した割には、大した怪我がなかったということだ。
〝転移の魔法〟というものは、術者に一番の負担がかかる。魔力を消費し、魔法を行使するのだから当然だ。そのため、転移に何らかの不具合が生じた場合、術者は己の怪我の具合で他者の安否を図ることが出来る。
そしてもう一つ幸いなことに……いや、これは皮肉なことにというべきか、術者であるセレナのみが王都近くに落ちていた。
おかげで父親――大元帥シリウスに最低限の報告は済ませることが出来たわけだが、そのあとからの記憶がなく、今に至るというわけである。
帝国の魔の手はまだ伸びていないようで、だからこそセレナは、天井の模様を見ながらのんびりと現状を再確認できた。
――と、ふと体が震える。
転移直前、白馬と共に滑り込んできた二人――特にキラは傷だらけだった。
傷だらけの内に崩れた転移で飛ばされ、なおかつこれが初めての体験だ。しかも、心臓を患っている。
母、マリアと同じように。
もしも一人だったら……。
リリィにしても同様だ。彼女に万が一のことがあれば……。
「セレナさま、お水を用意しましたよ」
友人の軽やかな声に、セレナはびくりとした。隣を見ると、メイド姿の小柄な少女が水の入ったガラスの器を盆にのせて、ベッドわきで膝をついていた。
アリス・シュヴァリエ。エルトリア家に仕えるメイドの一人だ。
色素の薄いブロンドが特徴の少女は、長期の任務から帰って来た時に、いつもお世話してくれる。
そのためか、彼女の童顔を間近で見ると、とてもホッとする。帰ってきたのだと実感するのと同時に、その朗らかな笑顔で疲れが吹っ飛ぶのだ。
最近ではリリィもその魅力に気づきつつあり、時折任務がかぶると、しばしばアリスの取り合いでケンカすることがある。
アリスはセレナの膝の上にガラスの器をのせ、にこりと癒しの笑顔を浮かべながら言った。
「リリィさまならば心配ないそうですよ。キラという少年とともに、無事が確認されました。シリウスさまが一刻も早くお伝えするようにということでしたので」
「そうでしたか……それはよかったです」
セレナは安堵の息をついて、水面に浮かぶ赤毛の自分を見つめた。人形のように無表情な顔が映るはずが、だらしなく緩んだ表情が映っていた。
口元をゆるめながらも、それをかき消すように、さっと指を振るう。
水面が波立ち、中央から引っ張り上げられるようにして、水が浮く。
もう一度指を振る。浮いた水の塊は、崩れた形から徐々に球の形へと変形していった。
さすがに三日も寝ていれば、魔力も体力も回復している。体の中をよどみなく魔力が流れていくのを感じる。魔法を扱うのにも、少しの不具合もない。
〝転移の魔法〟を一人で、しかも強引に発動してしまったのだからまだ油断はできないが、それでもとりあえずは安心した。
たわみながら浮かぶ水の塊に、掌を浸してそっとすくい、顔にかける。
何度か繰り返して、差し出されたタオルで拭ってさっぱりしてから、セレナは一つ疑問を抱いた。
「しかし、どうやってそれを? お二人はどこにいらっしゃるので?」
「そこまでは、私も……。ただ、もろもろの身支度を済ませ次第、執務室に顔を出すようにと。リリィさまが……少し厄介な場所におられるようで、シリウスさまは何度もため息をつかれてました……」
そこで、少女の幼い顔つきがくしゃりと歪んだ。眉を垂らし、今にも泣きだしそうになる。
セレナはどうしていいか戸惑いながらも手を出し、そっとアリスの髪の毛を撫ぜた。
彼女ははっとして顔を上げ、眦にたまった涙をぬぐってから、勢いよく頭を下げた。
「すみません。セレナさまの前で、こんな……」
アリスは少しまじめすぎるところがある。
セレナは確かに彼女よりも年上で、かつ竜ノ騎士団の元帥という重要な役目を担ってはいるが、エルトリア邸の敷地にいる以上は同じメイドである。
メイドがメイドに敬語を使い、『さま』呼ばわりするのは、とても滑稽なことだ。
「アリス、あなたはもう少し、生意気になるべきです」
そんなことを常々思っていたセレナは、そうぽつりとこぼした。
しかし、アリスはそれすら真面目にとり、
「私はもう十分生意気ですよ?」
きょとんとして返した。
セレナは無表情の中に苦笑をまじえ、再び少女の頭を撫でた。
魔法のお湯でさっぱりし、新しいメイド服に着替えて、セレナは自室を出た。
広い屋敷を迷うことなく進み、幾人もの使用人たちとあいさつを交わし、最上階の奥まった場所にある執務室の前に立つ。
ふう、と一息ついてから、軽くノックする。
「入っていいよ」
返事が聞こえて、セレナは眉をひそめた。
エマだ。騎士団屈指の頭脳である師団長兼参謀長の彼女が、大元帥たるシリウスの執務室にいる。
それだけで、何かが動いているのだと分かった。
だが、そのことを問う前に――。
「貴女はもう少し、常識というものを学んだほうがよろしいかと」
父であるシリウスは、身なりもちゃんとして、執務机についている。
しかしエマはというと、対となったソファの内の一方に、だらしなく寝そべっていた。エルトリア家当主であり騎士団の大元帥に呆れた目で見られているというのに、とても図太い。
彼女は、自身が女性であるという認識が薄いのか、その振る舞いには少々の問題がある。ここ最近、湯浴みもしていないらしく、栗色の髪の毛がパサついていた。ごまかしのためであろう、〝ラベンダーの香り魔法〟の微かな香りが辺りを漂っている。
何日も着続けている白衣はしわだらけで、くたびれている。ちらりと見える深緑の質素なワンピースも同様だ。
研究者らしいといえば、らしいのだが……。
「堅いことは言いっこなしだよ、セレナ元帥。これでもちょっと厄介ごとに頭を悩ました後なんだからさ」
セレナはじろりとエマを睨み、しかしそれが決して嘘でないだろうことを確認した。
対のソファの間に備えられた腰の低いテーブルの上には、いくつもの資料や地図が散らばっている。インクも羽根ペンも、いいように散らばっていた。
セレナはため息をつきながら、エマと対面するソファに座った。
「それで、シリウス様。リリィ様とキラ様の居場所は?」
シリウスは『キラ様』と聞いてピクリと険しい顔になったが、セレナがじっと見つめていることに気づくと、ゆるりと表情を緩めた。
「うむ……その前に。そろそろ『お父様』と呼んではくれないかね? むろん、『父上』でもいいよ?」
「リリィ様と姉妹の約束を交わす前に、メイドとして忠誠を誓ったので」
セレナはいつものシリウスの言葉に、無表情ながらもわずかな笑みを浮かべた。
リリィにもたまに似たようなことを言われる。
『ねえ、たまには姉さまと呼んでくれてもいいんじゃないかしら?』
先の言葉に嘘偽りはないが、こういったことを聞きたいがために、呼び方を変えていないということもあるのは、セレナだけの内緒である。
「セレナ元帥って、意外と意地悪だよねえ」
心の内をピタリと言い当てられたような気がして、努めて無感情な視線をエマに向けた。
にやにやと笑っている。だらりと寝そべったまま。
彼女は研究者のくせして、勘がやたらと鋭い。人の考えていることとなると、特に。トランプゲームでも、いかさまかと言うくらいに見抜いてくる。
セレナは、彼女を一瞥しただけで、シリウスのほうへ目を向けた。
「今、ふと思ったのですが。お二人の場所が比較的早くわかったことと、シスがいまだに帰ってこないことは関係しているのでしょうか?」
シリウスは困ったような表情をひきしめて、こくりと頷いた。
「六番目にはある任務に就いてもらっている。その任務先に、リリィと……セレナも知る『キラ様』が現れたんだ。連絡があったのは昨日の夕方のことだ」
父の若干棘のある言い方に首をかしげつつ、セレナは聞いた。
「して、その任務先とは?」
「……エマール領タニア」
表情が消えるのが――完璧なる無表情となったのが、自分でもわかった。
シスは、竜ノ騎士団内で極秘裏に組織された暗部の一員である。
訳あって二十までの番号を振られた彼らは、大元帥シリウス及び参謀長エマの二人の指揮によって、誰に知られることなく調査を開始する。
「安否の確認の前に……理由を窺っても……?」
「一応、くぎを刺すが、他言無用だぞ?」
セレナは頷いた――そのつもりであったが、震えていて、ちゃんと頷けたかはわからない。
シリウスは言葉を選ぶように――怒りを抑えるようにも見えた――、幾度か、口を開いては閉じて、中々切り出そうとしなかった。
「一言でいえば、エマールの裏切り、だね」
代わりに、いつの間にか姿勢を正したエマが答えた。さっきまでのだらしなさは、すでに消えている。
「七年前の王都防衛戦争……これのきっかけは、横暴かつ勝手きわまるエマールの領内管理。『御三家』とはいえ、王国内の連携がこじれることとなるこのやり方に、貴族内でも反感があったんだけど……」
眉がぴくりと動く。エマの言わんとすることを、セレナはすぐに理解してしまった。
「それはエマールの小芝居だったと? わざと隙をつくったと?」
感情を必死で押し殺す。リリィがあの軽蔑すべき人物の近くにいると考えただけで、どうにかなりそうだった。
視界の端で、テーブルに置かれたティーポットがひとりでに倒れた。ぱらぱらと、資料が床に落ちていく。
「考えてみれば、王国内の地理を帝国が知りうるわけがないんだよ。特に〝転移の魔法陣〟がある騎士団支部の正確な場所なんてね。それを全て知りうる――得られる立場にいる人物が、帝国に情報を渡したとしか思えないんだよ」
エマはそこで言葉を切った。何かを警戒するように、掌に魔法陣を浮かべている。
その対象が自分であることに気づいたセレナは、大きく呼吸を繰り返した。抑えきれずに、小規模な嵐を引き起こしていたのだ。
魔法族としての誇りである魔力量があだとなり、嵐は徐々に大きくなる。
「――おっと。拘束魔法をかけようか?」
「……そうしてくれるとありがたいです」
セレナは手を伸ばし、青白い魔法陣が浮かんだエマの手を握った。
ピキピキと、何かが固まっていく音が腕を伝って体の中を駆け巡る。魔力が縛られたのだ。
部屋を荒らしていた風が、ふっとやむ。
さすがはエマだ、とセレナはあえて場違いな感想を持った。
魔法陣とは、魔力を込めただけで決まった魔法を発現することが出来る、『記憶した媒体』だ。文字と線に、魔力で意味を持たせているのである。
この技術の大きな利点は、扱いやすさにある。何も考えずに、ただ魔力を通せばいいだけだ。しかしそれは、〝陣札〟に陣を描いている状態での話である。
エマのように、自分で魔法陣を描いて発動させるとなると、魔法を使うのに余計な手間をかけることとなる。魔法陣を使う意味がなくなるのだ。
が、彼女曰く、そのもうひとつの大きな特徴として『魔力の保存』がある。陣を魔力で満たすと、そこで発動するのではなく、術者の任意で好きな時に発動することが出来る。
つまり、今のように、様子を見て魔法を使うかどうか判断できるのだ。
むろんこれは、『魔法陣研究』の第一人者であるエマだからできることなのだが。
エマは注意深くセレナの様子を観察し、納得したように頷いてから、話をつづけた。
「ただ、エマールの裏切りには、何かが絡んでいる。事はそう簡単じゃない……厄介な知恵者が、背後に潜んでいる気がするんだ」
「なぜ、そう思うのです?」
エマはしばらく考え、やがて首を振った。
「悪いけど、まだ言えないよ」
セレナは口を開きかけ、思いとどまってただ頷いた。
これ以上何か聞けば、きっと堪えられなくなる。〝拘束の魔法〟は、決して破れないものではない。
シリウスが腰を浮かせながら言った。
「今はそんなことより、目先のことに取り組まなければならないのだよ、セレナ」
エマの隣のソファに腰かけて、テーブルに散らばっていた資料からいくつか選び、セレナの方に滑らす。
「目先のこと、ですか?」
「そう。エマールのことなんかよりも、もっと現実的だ」
セレナは書き込みの多い王国内の地図をみた。赤いバツ印と、そのしるしに引き出しをつけて書かれた名前が目に留まる。
「予想していなかったとは言わないけど、少しイレギュラーが起こりすぎた。本当は、ぎりぎりまでセレナにも黙っているつもりだったんだけどね……」
「一体……何の話をされているのです?」
セレナはシリウスを見た。
彼はエマと顔を見合わせて頷き、慎重に言葉をつむいだ。
「帝国に押しつぶされる――そんな状況を乗り切る計画さ」




