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20.縮図

 いつのまにか寝ていたようで、気づいたときには太陽はすでに真上にのぼり、馬車はタニアの門への道のりにあった。

「ふふ、ぐっすりと眠れたようですわね」

「うん……なんか久しぶりな気がするよ」

 体を起こし、ぐっと背伸びをする。

 傷の痛みもなく、心臓にも違和感がない。さらには疲労感も全くないこの解放感は、本当に久々だった。

 リリィの膝枕のおかげかもしれない。


「また並んでるんだ……」

 馬車の外を見て、キラはげんなりした。

 エマール領門の再来だった。

 風の吹く自然豊かな草原には、先頭が見えないほどにずらりと荷馬車が並んでいた。馬たちが足を踏み鳴らし、時折苛立ったようにブルルッ、と鼻を鳴らしている。


 ユニィは、いつものように相方の馬にちょっかいをかけて――おらず、じっと街の方へ顔を向けていた。ピクリともせず、警戒しているようだ。

 キラも神経を研ぎ澄まし、白馬が何に気づいたのかを探ろうとする。

 が、なにもわからなかった。水汲みの時に傭兵たちを察知したあの鋭い感触や、昨日の奇妙な幻を見たときの感覚が、まるでわいてこない。

 キラは目を凝らしながら、ふと思った。

 あの遠くまで見渡せる感覚は、雷を操る〝神力〟が関係しているのだろうか?

 開花するという証なのだろうか?

 期待はしてみても、そんな願ってもみない力が突如として覚醒するわけもなく、キラは瞬きして力を抜いた。


「エマール領の首都なだけあって、時間がかかりそうですわね」

「どれくらいかかるんだろ?」

「前と同じならば、夕方過ぎでしょうけど……。しかしそれにしても、傭兵の数が以上ですわ」


 確かにリリィの言う通りだと思った。

 行列に並ぶ商人たちの横を、傭兵たちが悠々と馬を歩かせている。どこを見ても、粗野な男たちが目に映った。

 ガイアとの一件もあって警戒したが、彼らはあの狂った傭兵たちのように、虚ろな目ではなかった。


「しかもこれほどの行商人が集まるとは……エマール領に入る前もそうでしたが……」

「何かおかしいの?」

「エマールにはお金がないはずですわ」

 キラは首を傾げた。

 リリィはちらりとニコラを見て、ぴたりと全身をくっつけ、口を近づけてきた。

 ……なんだか最近、ものすごく距離が近い。


「七年前の『王都防衛戦争』の発端は、エマールの行き過ぎた領地管理にあると言えますわ。これで王都内の貴族は分裂し、王都が危機に陥ったのですけど……」

 続きは言わなくても分かった。しかし、彼女が言いたいのはこの先のことだろう。

 キラはなるべく刺激しないように、やんわりと続きを促す。うつむいてしまったリリィの頬に、そっと手を添えて。


「じゃあ、エマールは罰を受けたの?」

 彼女は心地よさそうに受け入れ、

「ん……。ええ、そうですわ。王都への接触禁止と、財産の凍結を言い渡されたと聞きます」

「財産の凍結……?」

 キラも合わせて声を低める。

 ニコラが気づいている様子はない。片手に何かを持って無心で前方を観察していた。


「エマールが蓄えていたお金をほとんど没収したということですわ。王都に危機を招き入れた罪は、こんなものでは済みませんけれども……」

 その途中で、リリィはむっと眉を寄せた。彼女が母の死を語るときに見せる、痛みの伴った悲しそうな表情ではない。

 ただ、湧き上がる何かを我慢するように、大きく深呼吸を繰り返している。


 しかし次第に、怒りにも似た感情が彼女の中で膨れ上がってきていることに気づいて、

「……おしっこ?」

 キラは和ませるためにそんなことを聞いてみた。

 すると、

「バッ……!」

 リリィは叫び声を抑え、その代わりとでもいうかのように、ぺしりと頬に沿えていた手を叩き落とした。

 超が何個もつくほど痛い。軽くパキッとなった。包帯を巻いたところであるから余計だ。

「そんなはしたないこと、一生おっしゃらないでくださいな。いいですわね?」

「うん……わかったよ」

 とにもかくにも、彼女のまとっていた嫌な雰囲気は霧散した。

 被害は最小限で済んだ……。


 リリィはキラの手を胸に抱き、何度も撫でながら続けた。

「それで。傭兵を集めるにはお金が必要になりますわ。エヴァルトも言っていましたけれど、今回の募集には破格の報酬が支払われるということ……そのお金の出所が、少し気になりましたの」

「それは……エマール領内の課税、とか?」


 古典荘園制度、と言うのがあると、前にリリィから聞いた。

 大昔からある領地内のルールのことらしく、かなり領主に有利に働くという。

 その中には、当然のごとく課税が含まれている。結婚の際にかかる税や、誰かが亡くなった時にかかる税など、いろんなことに負担を強いられている。

 エマールがお金を調達する方法と言うのは、古典荘園制度による税のルールではないのだろうか?


 しかしリリィはこれに否と答えた。

「パルブの村の状況を考える限り、税による搾取はさほど意味がありませんわ。もっと他に、何かが……」

「じゃあ、行商人?」

「分かりませんわ。この行列にもおそらく理由が……。それも含めて、タニアで解明できればいいのですけれど……」


 リリィが俯き考え込んでいる間、キラの脳裏に昨日の幻視がちらついた。

 首を垂れるドラゴンと、そのそばに立つ誰か――。

 その光景は、多くの思惑が渦巻くタニアにある光景ではないだろうか?

 そしてそれは、今リリィが感じている疑惑と関係があるのではないだろうか?


 キラはリリィにこの危機感を伝えようとして、

「んん、キラ殿。……いくら夫でも、人前では……」

 突然降りかかってきたニコラの声で、ハッとした。

 ようやく自分が彼女の胸元に手を突っ込んでいることに気が付いたのだ。

 キラはリリィの手を振りほどいて、ぱっと身体ごと離した。


「え、えっと……何か言いましたっけ?」

「ん……ちょっとしたことだが、前もって確認をな」

「確認?」


 『恥ずかしがり屋な妻』がじっと見つめているのが分かったが、あえて無視した。再びぴったりと体をくっつけてきていても。

 今気が付いたが、彼女のふんわりとした香りがほとんどなくなっている。慣れてしまったのか、それともくっつきすぎて同化してしまったのか……。

 少し残念だった。もっと近ければ分かるのだが……。


「計画を実行に移すにあたって、実は何度かタニアに行ったことがあるんだ」

「そうなんですか?」

「うむ。隙を探すためにな。まあ結局見つかっていないんだが、代わりに時間をかけずにタニアへ入る方法を見つけた」

「本当ですか?」

「といっても、賄賂なんだがな。今日は金に弱い門番が当直のようだ」


 ニコラが手渡してきたのは大きな木製の筒だった。

 キラはそれを手にしたまま固まった。

 これはいったい何だろう?

 記憶と照らし合わそうとしても、失っているのだから分かるわけがない。ただ、なんとなくわかるような気もしていた。

 もどかしく、奇妙な感覚にそわそわしていると、リリィが耳元でぼそぼそと教えてくれた。


「望遠鏡ですわね。最近発明されたタイプですわ」

「んと……?」

「簡単に言ってしまえば、筒を覗くことで遠くを見ることができる道具ですわ」

「へえ……」


 キラは試しに筒を覗いてみた。

 しかし、何も変化はない。普通の姿のニコラが見える。


「あれ?」

「新しいといわれる由縁は、魔法陣に魔力を通してレンズとなる極小の魔力結界を生成して――」

「へぁ……?」

「んー……つまり、魔法で遠くを見ることができるということですの。こうやって」

 リリィも手を重ねるように筒を握る。彼女の白い手に青白い何かが走り、すると、筒の内側が淡く光り始めた。


「はい、どうぞ」

 促されて再び覗いてみると、

「う……?」

 訳が分からなかった。

 視界が布で埋め尽くされている。粗い目の、一つ一つまでよく見える。

「もう少し横みたいですわね」


 リリィが動かしてくれて、ようやくそのすごさが分かった。

 筒の中で、ぐっと拡大される景色。一頭の馬が主の指示に従って歩みを進める姿が映し出され、蹄が柔らかな土を蹴り上げるところまで見える。

「確かこうすれば倍率が……」

 リリィは呟きながら、筒を握る手をぐいとひねる。

 すると魔法のレンズがぐにゃぐにゃと蠢き、また違う光景を映した。すこし後ろに引いて、より辺りが見渡せるようになった。

 三台の荷馬車が並び、少しすると、真ん中の馬車が列を抜け出した。


「以前は水晶や宝石やガラスがレンズの役割をしていたのですけど、消耗頻度が高いうえに期待するほど遠くを見れないという弱点がありましてね。それを騎士団メンバーであるエマが大幅な改良を加えましたの」

「エマって確か……リンクピアスを作った人?」

 キラはリリィに聞き返しながら、抜け出した馬車を不思議に思い、ピントを合わせる。

「ええ。魔法陣の扱いに関しては右に出る者はいませんわ」

「会ってみたいや」

「ぜひ。きっと、キラも使えるような便利な道具を発明してくれますわ」


 列を抜けた行商人は、傭兵たちと同じように滞りなく進み、やがて直接門番と交渉しだした。

 それは賄賂の取引だったようで、門番の男にはパンパンに膨らんだ小袋が手渡された。

 門番の表情を見てみると、よだれをたらすのではないかというくらいに頬が緩んでいる。

 ニコラの言う通り、金にだらしない男だ。


 それを確認したときにちょうど、ニコラが行商人馬車の列を外れるように白馬たちに命令を出した。

 ガラリガラリと左右に揺れ、荷馬車が動き出す。行列の横をすいすいと進んでいくのは、どこか気持ちの良いものがあった。


「あの、ニコラさん。賄賂って……お金大丈夫なんですか?」

「エヴァルト殿の賄賂を有効に使わせてもらうさ」

 何のことかと首をかしげたが、すぐに思い出した。最初、エマール領に入るときに、門番――ニコラに金を渡して通してもらおうとしていたのだ。


「彼はずいぶんと優秀な傭兵みたいだからな、かなり色が付いていた。ほら」

 ニコラが懐から取り出して見せてきたのは、大きめの袋だった。大量の硬貨でぼこぼこになり、ずんぐりと太っている。

 リリィでさえも唖然としているということは、それほど破格なのだろう。

「門番も満足するだろうが……一体エヴァルト殿は何者なのだ? こんな額をぽんと……。キラ殿が払ったのか?」

「へ? い、いえ……」

「では前の雇い主の報酬と言うことか……。キラ殿は何か聞いていたりするのか?」


 キラは言葉に詰まった。

 あれほど世話になっておいて、エヴァルトのことはほとんど何も知らない。傭兵の経歴を軽く聞いたりもしたが、それは本当にうわべだけのものだ。

 何気ないピンチにキラが戸惑っていると、リリィがフォローしてくれた。


「彼とは最近出会いまして。魔獣たちに襲われて、夫が大怪我した所を助けてくれたのです。ですから、実はエヴァルト――さんの過去はよく知らないのです」

「そうだったのか……。大怪我に包帯……キラ殿は本当に奥さんを好いているのだな」

 ニコラがそう言うのを、キラはただ黙って聞いていた。

 リリィに真っ赤になった顔を見られないように俯いて。





 タニアという街は、外からはまるで何も見えなかった。大きな大きな壁が、周りをかこっているせいだ。

 グストの村にデフロットの村、オービットと、今までに訪れた村や街は少ないものの、この異質さは理解することができた。どことも違う、とても冷たいものを感じる。


 金に目がない男を懐柔し、タニアへ入ってもその印象が変わることはなかった。

 オービットは、たとえ夜でも暖かさがあった。それは人が住む場所には必ずある、家という存在がぎゅうぎゅう詰めにされていたからかもしれない。真っ暗な中、時折人の話し声や笑い声が聞こえたのだ。


 だが、タニアは違った。

 門を抜けると目の前には街の景色が広がっているはずなのに、そうではなかった。

 いうなれば、まっさらに禿げた大地があった。細い川もとおっているというのに、雑草は黄土色に萎え、砂地がむき出しになっている。


 家屋などほとんどなく、川沿いに所々にポツポツとぼろけたものがあるのみ。

 奥の方に目を向ければ、建物の立ち並んでいるのだが、どこかあべこべな気がした。

 なにしろ、その街らしい街並みの向こうに、再び大きな壁が見えるのだ。

 門をくぐったのに、くぐった気がしない。街の中にいるのに、荒野に立っている気さえする。

 そんな妙な感覚を覚える場所であった。

 リリィはエマール領を『国の中の国』と言っていたが、このタニアこそ国の縮図のように思えた。


「ここは貧民街の〝居住区〟だ。こっちにも一応宿はあるが、〝労働区〟のほうがいいと思うんだが……」

「あ、あの。〝居住区〟?」

 この荒れ地が? 人ひとりいないのに?

 キラは信じられない気持ちで、馬車を操るニコラの背中を見つめた。リリィは何も言わず、ただ眉をひそめている。

「あってないようなものだがな。〝労働区〟から流れて来る川で病気が蔓延したらしくな、住人はみんなそっちに移ったそうだ」

「でも、その〝労働区〟にも川が流れてるんじゃ……」

「川の大元は貴族街。根源に近づけば近づくほど、汚染もマシになるということだ。それでキラ殿、どうする?」


 キラはちらりとリリィを見て、即決した。

「〝労働区〟の宿で」

「うむ」

 水は命の源だ。そうであるから、近くに人里が築かれる。

 グストの村には川はなかったが、代わりに地下水をくみ上げて生活していた。パルブの村でも、水の扱いには気を付けていた。

 その水が汚染されていたら、病気になるのは必至だ。


 今この場で、リリィをそんな目にあわせるわけにはいかない。彼女は王都へ向かわなければならない人物であり、何より、『恥ずかしがり屋な妻』が苦しむ姿など見たくなかった。

 リリィがしゃべったことで、ニコラは一応彼女にも同じことを聞いたが、

「夫に従います」

 と神妙に返していた。キラをじっと見つめながら。

 ニコラはほっとしたように頷くと、川に沿って白馬たちを歩かせた。


 川はずいぶんと濁っていた。何とも言えない、吐き気を促すようなつんとした匂いが鼻につく。

 ――くせえな……もう少しマシにならねえのかよ

 白馬がそう悪態つくのも仕方がないと思えるくらいだ。タニアに入るまではずっと黙ったままだったのに、ここにきて急に愚痴をこぼしはじめた。

 しかし文句を言ったところでこの悪臭が消えることはない。ニコラでさえも、時折咳をしながら馬を操るのを見ると、そういう魔法もないらしい。


 リリィも魔法を使わず……。

「あれ?」

 隣を見ると、リリィがいなかった。

 と、その直後、キラのかぶっていたフードが外され、何かが鼻と口を覆った。

 布だ。ギュッと首の後ろで結ばれる。悪臭が嘘のように掻き消え、だけでなく、どこかいい香りがする。

「エヴァルトに感謝ですわね。香水と布があって助かりましたわ」


 振り向くと、同じように布で口元を覆ったリリィがいた。フードをかぶっているため、一見すると誰だかよくわからなくなるが、その綺麗な青い瞳で、彼女であると確実にいい当てることができる。

「マシになりましたか?」

「うん、すごく。ありがとう」


 キラは、意識しないうちに手を出していた。

 ほっとしたように笑うリリィの頬を、布の内側に手を滑り込ませ、撫でる。すべすべで、とても暖かかった。

 彼女もまんざらでないようで、突き放すどころか、とても心地よさそうに目をつむっていた。

「ニコラさんにも渡さないといけませんわね」


 リリィは終始ニコニコして、揺れる馬車の中、いそいそとニコラの隣に移動した。

 いくらか言葉を交わすと再び戻ってきて、「続きを」と言わんばかりに正面に座って顔を突き出してくる。

 少しおかしかった。

 彼女の格好もそうであるが、これほど短い時間で仲良くなることなど想像もしていなかった。エヴァルトがいるとはいえ、ほとんど二人きりだったからだろうか?

 キラはリリィの要求にこたえ、柔らかな頬を撫でながらふと思う。

 二人きりなら、グリューンと仲良くなれる――友達になれるのでは?

 そういう状況を作り出して、彼と一対一でいっぱい話をしてみれば、あるいは……。

 キラは布の内側で口角を上げた。

 それは、誰も知らない密かな決意でもあった。





 〝労働区〟の外周は、弧を描くように川がひかれ、線引きされてあった。

 悪臭は〝居住区〟のそれよりもきつかった。リリィの用意してくれた香りつきの布がなければ、あまりの衝撃に失神していただろう。

 この元凶は、川沿いにぎゅうぎゅう詰めに並ぶ木造の家々。

 そこに住むのは数々の職人だ。リネン職人に皮なめし職人、精肉職人などが仕事にのめりこんでいる。

 だからこそ、どんどん川が汚染される。廃棄物やにおいの元となるものが川に次々と投げ入れられるのだ。


 リリィが言うには、これは仕方のないことで、王都でも似たような場所はあるらしい。人が人らしく生きるために必要な、あるいは、人が暮らしやすくするために必要な職業は、たいていが汚れ仕事なのだ。

 ただ、比較にならないほど劣悪な環境であると、彼女は憤慨していた。


 職人たちはともかく、住人ですら口元を隠している。触れば崩れそうな木造家屋をバタバタと出入りしている子供でさえ、顔の半分が見えない。

 馬車が通るのもやっとな狭い道の端は、色々なものの掃き溜めとなっている。そうであるにもかかわらず、誰も気にもしていなかった。

 

 〝労働区〟のそんな現実に顔をしかめつつ、川から遠ざかりようやく悪臭が和らいだところで、目の前に再び巨大な壁が聳え立った。

 貴族街への門だ。

 その前を横切る道だけは異様に幅広く、もはや広場といっていいほどだった。

 だがそれでも息苦しいと感じる。それは、人が門の前に多く集結しているからだろう。


「貴族街の門が開く時間は決まっているんだ。朝と昼と夕方、一日に三回」

「この人だかりはそれで……?」

「うむ。多くは行商人や〝労働区〟の商人たちだが。今から申請すれば、キラ殿たちもぎりぎり明日の昼には間に合う。それまで、色々と準備をしておいた方がいいだろう。東側に集中しているから、そっちに行けばいい」

「あ、でも宿は……」

「あそこだ。この区唯一の宿だからな、迷うことはない」

 ニコラが右手を指さす。少し遠い道沿いに、三階建てのいびつな建物が見えた。改築に改築を積み重ねたらしく、不格好な見た目となっている。

 周りよりも一回り大きいために、分かりやすい。


「中は狭いし、利用者が頻繁に入れ替わるから落ち着かないとは思うが……」

「僕は全然平気です。えっと――」

「わたくしも大丈夫ですわ」

 ニコラは安心したように頷くと、馬車から降りて人だかりの中に混ざっていった。

 キラはリリィと共に馭者台に移り、彼女の手ほどきを受けながら、初めての馬車操舵を経験した。



  ●    ●    ●



 二人に声をかけたのは失敗だった。

 シスは自分のおせっかい焼きな性格を心底憎んだ。

 少年の方はともかく、赤バンダナの男の方はかなりの腕がある。気配を隠して近づいても切りかからなかったということは、それだけの力と判断力があるということだ。


 下手に深入りすれば、〝計画〟の破たんを招くかもしれない。


 シスは真っ黒でぶかぶかなフードをすっぽりとかぶり、赤バンダナに気づかれないようにそっと立ち去ることにした。

 宿を出て、極力人目を避けつつ門を目指す。

 国の中の国で、首都を主張している街にしては珍しく、門が二か所しかない。

 南側の〝労働区〟へつながるものと、北側の街の外へつながるもの。


 しかも利用者がそれぞれ決まっている。貴族たちは決して〝労働区〟へは行かないし、シスのような傭兵や行商人たちは北側の門を使えない。

 他にも、奇妙な点はまだある。


 街の中心にエマール城が君臨し、それを守るように傘下の貴族の邸館がぐるりと囲んでいる。中には目立つ場所にエマール領の意匠を施した旗を掲げるところもあり、さらには教会までもがその仲間に加わっている。

 気味の悪いほどの祭り上げようだ。こびへつらっているのが透けて見える。


 さらには〝傭兵区〟の存在。貴族街の隅に設けられた傭兵だらけの区域は、偏見と差別と身分がものを言うこの街において、異質すぎた。

 道行く紳士淑女たちは我が物顔で歩く傭兵たちを見ては眉を顰め、あるいはあからさまな態度を示す。が、それでも追放しようと声を上げないのは、エマールに媚びているからだろう。


 何年もこの街に傭兵として身を潜めているシスは、この街に住む貴族の誰もが、エマールの庇護を求めるので必死なのを知っていた。

 彼らにとって、エマールは絶対的な国王であり、もっと言えば神にも近いのだ。

 恥知らずなことである。


 フードに隠れてあざけるように笑い、シスは巨大な門の横に設けられた簡易的な検問所に入る。

 登録した傭兵は、〝労働区〟への出入りのみだが、申請が免除されている。この役所でエマールの印の入った認定書を見せれば、簡単に通してくれるというわけだ。


 シスは開門直前でごった返す〝労働区〟側へ出た。

 集まる傭兵たちや行商人たちの間を縫いながら、足を目的のために動かす。

 目指すは教会。誰も祈ることはない礼拝堂だ。

 だが、だからこそ行く価値がある。ガードの薄い今ならば……。

 シスは真っ黒なフードをかぶり直し――とある奇妙な馬車に目が釘付けとなる。


 栗毛と白馬の馬が引く、仲のいいらしい夫婦が操る馬車であった。


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