1.少年の始まり
豊かな緑が延々と広がっていた。さらりと風が撫でては、木々がさざめき合う。降り注ぐ陽の光の下、それぞれが光り輝いていた。
しかし、そんな豊かさから隔離されたように、不自然に開けた場所があった。
円を描いているそこは、柔らかな土がむき出しになってたいる。木の陰など一切ない。
人の手が加えられているという証明のように、円形のふちに沿って、いくつもの木の杭が打たれていた。
ザクッ、と土が掘り起こされる音がする。
小さな開拓地で黒髪の少年が鍬を振るい、土を耕している。
ザクッ、と言う音が不規則に続く。
そこに、時折馬のいななきが混じる。
開拓地の内側を、一頭の白馬が尻尾を大きく揺らし悠々と歩いていた。一歩踏み込むごとに地面に蹄のあとが残り、かちゃりかちゃりという音が続いた。
白馬の鞍には、荷馬のごとく色々なものが取り付けられている。
しばらくは相槌を打つように鳴いていたが、退屈になったのか、少年の後ろに回って鼻先で背中をつついた。
「わっ、と……ユニィ、もうちょっと待っててくれよ」
少年はつんのめり、たたらを踏んでその勢いで鍬を地面に突き刺した。
ほっと息をつきながら、振り返り、ユニィの鼻先を撫でる。
だが白馬は納得できないようで、ブルルと歯を剥いていた。いつもは感情の読み取りにくい真っ黒で大きな目には、誰もがわかるほどの感情をたずさえていた――暇だ、と。
「どうだい、キラ君。体の調子は」
白馬のユニィと戯れる少年に声をかけたのは、年老いた男だった。長い白髪を先端で結った老人は、杭のそばにしゃがみ込み、何かの細工をしている。
「大丈夫ですよ、ランディさん。でも、ちょっと暑いです」
キラはじゃれついてくるユニィの鼻先を抑えながら、額の汗をぬぐった。
森の中ではあるが、小さな開拓地には木陰が一つもない。
日差しがまっすぐに突き刺さるその中心でずっと動いていたキラは、汗まみれだった。
「この森の夏は早くて長いからねえ。ひと月もするともっと暑くなるよ」
「これで序の口ってことですか……」
「なに、じきに慣れるさ」
老人は立ち上がって腰を叩く。少ししてから、ぴんと背筋を伸ばした。
彼――ランディはキラに比べて慣れた様子だったが、何度も汗を拭き、だるそうにする。長い髪を鬱陶しそうに払っていた。
「森……というか、木々に囲まれていれば涼しいんだがね、休むには危険すぎる」
「厄介ですね、魔獣って」
キラはどこか他人ごとのように言いながら、馬の鞍に引っ掛けた水筒を手に取る。
十六歳であるが、これまで、教えられたような狂暴な獣――〝魔獣〟に会ったことがない。
なぜなら――、
「で、記憶はやはり戻らないかね?」
「はい。その気配すらないです」
キラには記憶というものがなかった。
近くの海岸で倒れていたところ、この気のいい老人に拾われた――らしいのだが、目を覚ました時にはすべてを忘れていた。名前ですら、ランディに教えてもらったくらいだ。
それが一週間ほど前の出来事である。
「私は医者ではないが、記憶を失くすぐらいだ。何か君に強いショックがあったのだろうね」
「何なんでしょうね?」
全てが不思議だった。記憶を失った原因、海岸に流れ着いた理由、そして何より怪我のない体。
キラは、波に打ち付けられていたにもかかわらず、ぴんぴんしていた。だからこうして、命の恩人の手伝いもできている。
だが一つだけ。
心臓の様子がおかしいのである。毎夜――時折昼にも、発作ともいえるほど急激に加速するのだ。
「ゆっくりと探せばいいさ。脳に何らかの異常が起こったんだ、無理に思い出すのはよくない」
魔獣や魔法など、世の中の常識を忘れてしまったキラだが、それほど重く考えていなかった。
ランディは親切な老人であるし、彼の家族もよくしてくれている。常識も、常識とだけあって分かりやすいものだった。
「さて。そろそろ村に戻ろう。魔獣も昼時だ」
老人は何度も汗をぬぐいながら、白馬に近寄った。ぶら下げていた丈夫な麻袋から、布と水筒を取り出す。
その時、同じく蔵に取り付けられた剣がカチャリと音をならした。
「さっきやってたのは何なんです?」
キラは畑を囲んでいる杭を見回した。
普通の木の杭に見えたが、真ん中あたりに単純な図形を組み合わせた陣が刻まれていた。焦げ跡のようにも見える。
「〝焼き付け〟だよ」
老人は、透けるほどにうすい正方形の羊皮紙を見せてきた。それを火であぶって木の杭に焼き移したらしい。
「ただ単に魔獣が苦手とするにおいを発生させるという、シンプルなものだよ。商人から買い取ったものだから、どのくらいの効果が出るかはわからないが……まあ、畑が完成するまでの間だ、大丈夫だろう」
「魔獣除け、ですか……」
キラは白馬の鞍に取り付けられた剣を――そして老人の腰にぶら下がっている剣を見た。
「そういえば、村の人たちも昼食の後には必ず訓練していましたね。剣とか、斧とか、農具とかで」
「最大限に守りを固めているとはいえ、絶対に安全とは言い切れないからね。自衛の能力はないと」
「僕も、何かした方がいいんじゃないでしょうか? もう体調もいいんですから」
剣はランディから与えられたものだ。
だが、キラは一度たりとも鞘から抜いたことがない……。
「君にはすでに基礎を教えているよ」
「へ?」
「しっかりとした筋だ、良い剣士になるだろう。けど問題は、君の特殊な体質でね――」
老人が何かを言いかけた時、森にすむ鳥たちが一斉に空へ羽ばたいた。
足音が聞こえる。
人のものではない、とても重い音だ。それだけでなく、地面をひっかくような軽い音もある。
「これは……?」
「ベヒーモスが二頭……ゴブリンの群れもある」
老人は森のあちこちに視線を飛ばしながら、焦ったように呟いた。
先の方が湾曲した片刃の剣――刀の鞘に手をかけ、抜き放つ。
「この森には小物しかいないんだがね……キラ君」
「は、はい?」
「ユニィで村へ。皆に警告するんだ、いいね」
キラが目を白黒させているうちに、ひときわ大きなうなり声が轟く。直後、木々をなぎ倒し、一頭の怪物が突進してきていた。
四肢で地面を揺らし、二本の凶悪な角で杭の結界をいとも簡単に打ち破る。狂ったように赤い目が睨んできていた。
「早く行くんだ!」
ランディに強く背中を押され、キラはたたらを踏む。
振り向くと、彼はベヒモスと対峙していた。
刃が二度きらめき、怪物の身体から血しぶきが上がる。怪物は苦悶に満ちた雄たけびをあげた。
これならば危険なんてないんじゃないか?
キラは白馬にまたがりそう思っていたが、壮烈な戦いのわきから緑色をした小鬼がわらわらと湧き出していたのを見て、息をのんだ。
「ユニィ、頼むよ!」
キラは、ユニィの腹を強く蹴り合図した。
森の中の不安定な足場でも、白馬は颯爽と駆け抜けた。小さな石や枝を踏み潰し、地面から飛び出る太い根や倒木を飛び越える。
キラは姿勢を低め、振り落とされないように踏ん張る。
村まであと少し……。
ランディはどうなった?
キラはふと気になり、はずれの畑を振り向く。
――怪物がいた。
気色の悪い無毛の肌のベヒーモスが、猛追していた。老人の呟いていたもう一つの個体だ。
まだ遠いが、真っ赤に濁った眼が睨んできている。
「ユニィ、もっと早く!」
白馬はそれにこたえるように嘶き――キラは宙を舞った。体がふわりと浮き、背中をしたたかに打ち付ける。
ユニィにつけていた鞍がはずれ、剣や麻袋とともにあたりに散らばる。
「は……」
何が起こった?
呼吸を浅く繰り返しながら体を起こすと、ユニィが倒れている。
起き上がろうともがいている白馬に、緑色の肌をした小鬼が張り付いていた。汚いわめき声を上げながら爪を立て、腹を裂こうとしている。
キラはカッと頭が熱くなり、歯を食いしばり、鞘を取って走り出した。
剣を抜き放ち、一気に距離を詰めてがむしゃらに振り払う。
――ギャッ
小鬼は獲物にばかり集中して、隙だらけ。だからか、容易に緑色の腕を切り落とすことができた。
小鬼が悲鳴を上げながらのけぞり――すると、立ち上がったユニィが、後ろ足で小鬼の頭を蹴りつける。
そのあまりの強烈さに、ゴブリンの頭が破裂。
緑色の液体がパッと辺りに散った。
「つ、強いね、ユニィ……」
白馬は自慢するように一声鳴いた。
だが、すべての危機が去ったわけではなかった。
――ァァアア!
怪物が雄叫びをあげ、迫ってきていた。
走るたびにその無毛の足で地面をえぐり、太い根をいともたやすく引きちぎる。
見たことのないほど巨大な怪物が、ねじれた恐ろしい二本槍で貫こうとしている。
キラは剣を構えたが、腰が抜けてへたりと座り込んだ。
「う……」
ただひたすらに恐ろしかった。
あんな巨体に、人間が立ち向かっていけるわけがない。角に貫かれるか、さもなければ吹き飛ばされるだけだ。
恐怖に支配されたキラをかばうように、ユニィが前に立つ。
前脚を高く持ち上げ、勇ましく雄叫びを上げながら威嚇した。
無謀すぎる。ゴブリン相手とはまたわけが違うのだ。
キラは何とか立ち上がり、ユニィの手綱を握ろうとしたが、
「――うぅ……!」
胸を押さえ膝をつく。心臓が暴れるように鼓動し始めた。
いつもの比ではない。
ドクドクと脈打ち、ビリビリと痺れるような感覚が全身を包む。
キラはついに地面に突っ伏し、どうやっても動けなくなってしまった。
「は……こんな……」
ベヒモスの凶悪な角が、ユニィに迫る。
地面が揺れ、怪物が叫び、そして――。
紅が辺りを埋め尽くした。