18.決意
リリィはまだ小さく寝息を立てていた。
起こそうとも思ったが、出発は夜中だ。これまで気を緩める時などなかっただろう彼女は、ここでゆっくり休んでおいた方がいい。
それに、その目じりは濡れていた。よからぬ夢を見ているようで、時折呻いている。
キラはなるべく起こさないように背中を撫でた。
リリィの母親は、心臓の病で亡くなったらしい。
どういう状況かはわからないが、戦いの最中――それこそキラがいつもそうであるように、突如強烈な発作が起こったのだろう。
だからこそ、戦うことや剣を振るうことを否定していたのだ。出会った初めから、心臓の病を気にして。
そしてそれは、きっとこれからも続いていく。嫌と言っても、生きている以上は心臓を切り離すことなんてできやしない。
だが、そんなことでは駄目だ。
そんなことでは、リリィは疲れ切ってしまう。
ならばどうすればいいか……。
「やっぱ、心配するのが馬鹿に思えるくらいに強くなるしかないかなあ……」
激しい動きをしなければ。相手の攻撃を受けなければ。一太刀で勝負をつければ。
そのすべてを可能にすれば、リリィが悪夢にうなされることもなくなる。あの偉大なランディをも圧倒することができたら、彼女の心配も取り去れるはずだ。
離れないでいると約束した以上、最低限努力するべきことのように思えた。
そのためには、もっと剣に触れておかなければならない。戦っている最中に、若干だが距離感がずれ、間合いを測り損ねることがある。
デフロットの村では、そのせいもあって足を滑らせ、危うくゴブリンにやられるところだった。ドラゴンとやり合った時も、上手くすれば傷など負わなかったはずだ。
魔法も使えず、雷を操る〝神力〟にも頼れない以上、こんなことではいけない。
あのガイアや、リリィ以上の剣の腕を持った敵を相手にしても平気なくらいに強くならなければ。
「まだもう少し心配かけるかもしれないけど……ほんの少しだからさ」
キラはそんなことを呟きながら、彼女の頬にかかった黄金色の髪の毛を整える。ややあって、そのまま頬を撫でてみると、リリィの横顔は少し安らかなものになった。
それを見てほっとしたキラは、剣を持って荷台を出た。
「あ……」
荷馬車の前には、セドリックとドミニクがいた。
二人ともなんだか元気がない。目を合わそうとはせず、地面にばかり視線がいっている。
「どうしたの?」
キラがそう聞くと、セドリックが言いづらそうに切り出した。
「あの……エリックのことなんだけどさ。あいつ、今どこにいるんだ……?」
心配そうにしている二人を見ると、その質問の意図は明白だった。
村というのは狭い。グストの村でも、皆が知り合いで、皆が友達で、皆が家族というような雰囲気があった。だから余計にその輪に入りにくかったのだが。
この隠された村でもそうであり、そんな中でも、セドリックとドミニク、そしてエリックは仲がいいのだろう。
しかし、そこで昨日、突如としてエリックが姿を消した。今まで言葉にしていなかったが、相当心配していたはずだ。
だからキラは、包み隠さず話すことにした。
彼らの気持ちが分かってしまったのだ。
「タニアって街に行ったって。傭兵の募集を受けに」
「傭兵だって?」
「うん。でも大丈夫だよ。僕の知り合いのエヴァルトって人が止めに行ってくれて――」
キラが言い終わらないうちに、被せるようにセドリックが言った。
「なあ、俺も連れて行ってくれよ」
じっと、真摯に見つめて来る同い年の少年。ドミニクも同じ気持ちのようで、恋人の手をつかんで見上げてきた。
キラは即座に首を振り、
「だめだよ。それは出来ない」
きっぱりとした口調で断った。
ニコラのやんちゃな息子を連れ戻すために、二人が付いてきたとして。
何か不都合なことが起こったとして、あるいはすべてがうまく予定通りになったとしても、危険がなくなるわけではない。
「どうしてもか?」
「どうしても」
「……それは、おれたちが弱いからか?」
セドリックは感情を押し隠すように、しかしそれでも大きな声で聞いてきた。ドミニクも、言葉にこそしないが、睨むように見つめて来る。
彼の声を聞きつけたのだろう、テントからニコラたちが出てくる。
キラはそれを見て、ニコラに掛け合ってみようと心がぐらついた。
セドリックとドミニクがエリックを心配する気持ちはよくわかる。ランディやセレナやグリューンと離ればなれになり、どこにいるかもわからず、王都へ向かうしかないという状況は酷似しているように思えた。
リリィにも分かるはずで、貴族として騎士として、聞き入れてくれるはずだ……。
だが、エリックを連れ戻すことを考えれば、そんな事は出来なかった。
「君たちがついて来れば、エリックはたぶん死ぬことになる」
きつい言葉ではあったが、嘘は言っていないつもりだった。
連れ戻すということは、タニアからこの村まで戻ってくるということだ。
だがそこに、キラとリリィはいない。何があっても王都に行かなければならないのだ。
それが意味するのは、村に戻るまでにまともに戦うことができるのはニコラしかいないということだ。
傭兵の募集を受けたエヴァルトに頼るのも無理な中、セドリックたちまでくれば、その負担はかなりのものになる。何せ、エマール領内の治安はすこぶる悪いというのだから。相手が魔獣ではなく、人というのもたちが悪い。
そうでなくとも、エマールがいるという街へ行くのは不安要素が多くある。
「なら、証明すればいいんだな?」
セドリックはぐっと奥歯をかみしめ、振り絞るように言った。
睨み付けるように向けてきた瞳には、確かに怒りが混じっていたが、とてもまっすぐなものだった。
決意は固い。どうあっても折れるつもりではないだろう。
だからキラは、
「わかった。じゃあ、一分間、僕の剣を受けきったら連れていってあげるよ」
少し妙な気分になりながら、そう告げた。
● ● ●
セドリックは嘘をついていた。
剣を握ったのさえつい最近で、誰かに認められるような腕など到底ない。
だが、それでもセドリックは見栄を張らなければならなかった。
エリックは猪突猛進な性格だ。これと決めたら即行動。何かにぶつかるまで足を止めることはない。
そのくせ、人に頼るということを知らず、いつも一人で突っ走る。
昔からそうで、今回もだ。傭兵になるなど、一度も聞いたことがなかった。
だから止めることができなかった――という言い訳をする暇もなく、セドリックはエリックの暴走を何とかしてとめたかった。
ようやく村に平和が根付いてきたのだ。
親しい人の死など、もうたくさんだった。
「キラ殿、セドリック。用意はいいか?」
剣を抜いたキラが頷き、続いて、見よう見まねで構えたセドリックも頷く。
「この決闘は剣のみ。魔法はだめだ。キラ殿はけが人でもあるし、セドリックは戦いに関しては素人だ。俺が危ないと判断すれば、途中で割って入る」
正面から対峙すると、すごい迫力だった。ついて行くことを拒否するにも温和な目をしていた同い年の少年が、剣を握っただけで、まるで殺戮のすべてを知った暗殺者のような鋭い目つきにすり替わる。
気迫で負けまいとセドリックも同じように睨んだが、キラの黒い瞳の奥には恐怖以上の何かがある気がして、するりと目をそらしてしまった。
逸らした視線の先には、恋人であるドミニクが、小さな手をぎゅっと握って緊張した顔をしている。
セドリックは彼女を安心させるために軽くうなづき、集中する。
「では、始め!」
ニコラの合図と共に駆ける。
対してキラは一歩も動いていない。どころか、開始と同時に剣をだらりとぶら下げ、構えを解いてしまった。
セドリックは、走りながらも余計に警戒を深めた。
あのわけのわからない傭兵たちに対して一歩も引かないどころか、一つの傷も負わなかったキラが、何も考えていないはずがない。
チャンスは最初の一太刀。長引けば長引くほど、勝つ可能性が低くなっていく。
集中し、集中し――ついには周りの音も聞こえなくなった。
より視界が鮮明になり、しかしその不思議な感覚に気づかないまま、剣を振るった。
狙うは剣の根元。キラが動くよりも早く、その剣を弾けば……。
セドリックはすくい上げるようにして剣を振るい、そして――。
――二年より前のことを思い出したら、今でもぞっとする。
それまで、パルブの村の人全員が生き抜くのに必死だった。
課税がきついために畑を手放した人は、結局食えなくなって死んでいき、さもなくば病にかかって床に臥す。余所からくる人間はたいていが傭兵で、乱暴を働いて畑を荒らしていく。
そんな状況に、セドリックはドミニクと共に必死に抵抗した。手放された畑をばれないように利用し、食糧を秘密に蓄えることで。死んでいった両親の悪知恵に何度感謝したことかわからない。
エリックにしても、父・ニコラの背中を追うように剣の修業をしていた。時には、子どもだと押しのけられながらも、カルロスやフランク、ジニーと共に傭兵たちとの諍いに立ち向かっていった。
そうして、皆がちぎれそうな手を取り合いながら、生き延びていた。
地獄のような状況が好転したのは、〝流浪の民〟の詩人が訪れてからだ。
カルロスたちも手を焼いていた荒くれ者の傭兵たちをたった一人で追い払い、たちどころに隠れ場所を用意してくれた。
その頃からかもしれない。エリックが傭兵になることを決意したのは。
詩人を剣の師として仰ぎ、少しの間であるが、弟子入りしたのである。その時、一つ年下の幼馴染が言った言葉強烈な印象に残っている。
いつも炎のように熱い奴だったが、その言葉はいつも以上に熱がこもっていた。
『強くなって、エマール領なんか吹っ飛ばしてやる!』
どういう意味はわからなかったが、今ならば理解できる。
エリックは、傭兵になってエマールの懐に潜り込み、亡き者にしようとしている。
彼は突如として姿を消した。
が、エリックからしてみれば、随分と長い間時期を狙っていたのだ。
キラが傭兵をすさまじい剣さばきで圧倒したとき、セドリックはとても幸運だと思った。とんでもない剣の腕を持っているだけでなく、身体を張って奥さんを守るほどに優しくもある。
セドリックは彼から剣を学びたかったのと同時に、この村にとどまってほしかった。
〝流浪の民〟の詩人と同じように、何かとてつもないものを秘めていると感じたのだ。詩人の言う〝継承者〟であると知ったからかもしれない。
だから、エリックを焚き付け、ドミニクと三人で頼めば、もしかしたらキラは村に残ってくれるかもしれないと思っていた。
だが、それは全くの見当外れだった。すべてが、ことごとく不可能になっていく。
キラはとんでもない渦に飛び込むつもりでいて、そしてエリックは傭兵になるといっていなくなってしまった。
それどころか、
「人を助けるには、まず君自身が強くならないと」
セドリックは、その弱さをキラにさらけ出すこととなった。
突っ込み、思い切り振るった剣はわけもなく弾かれ、その隙にどんと押されて尻餅をつき――首に剣を突きつけられて決着がついた。
あまりにもあっけなく、あまりにも情けないやられ方だった。
その証拠に、キラはそれ以上何も言わず、剣を収めて荷馬車に戻っていく。
セドリックは血が出るほどに唇をかんだ。
何より突き刺さったのは、キラの言葉だ。
セドリックがずっと剣を握らなかったのも、ひとえにそれが分かっていたからだった。
日に日に弱っていく村で一番重要なことは、それぞれが自分の役割を知ることであり、農家の子のセドリックにもふさわしい役目があった。
心得も才能もない弱者が、むやみに戦いに首を突っ込むことなど言語道断だ。
だが、村に安寧が訪れてから二年、暇を持て余していたセドリックは、毎日のように剣を振るうエリックを見て淡い希望を抱いた。
年下の幼馴染にできるならば、と。
無論、自分も村を守る一員となりたいという思いがあったのだが……やはり領分ではなかったのだ。
ましてや、戦いにおいて農家の子が剣士の子に勝ることなど……。
それをキラが剣と共に突きつけてきたように思えた。
「セドリック」
鈴のような声がした。なじみのある声だ。
セドリックはどうしても顔を上げることができず、うなだれたままでいた。
すると、小さな手がセドリックの手に触れてきた。そうして、剣を握りしめたままの手の緊張をほぐすように、何度も何度も撫でてくれる。
この暖かい手を持つのは誰かと言うのは考えるまでもなかったが、セドリックは向ける顔がなく、ずっと押し黙っていた。
「キラ殿は剣の天才だ。そして戦いのセンスがある」
「……そうだろうな」
ニコラの言葉に、セドリックは自嘲的に笑った。
素人目にもわかるほど、キラの剣は熟達していた。まるで剣を体の一部のように扱い、だからこそ、一振りで決着をつけるという芸当ができる。
最初からモノが違っていたのだ。弟子入りすることが間違いなほど。
「だが、才能だけならばあれほど強い男にはならなかったはずだ」
ニコラの言葉が引っ掛かり、セドリックはやっと顔を上げた。
「キラ殿は全身に包帯を巻くような大怪我をしていた……奥さんを庇った結果なのだろう?」
「そう、言ってた……」
「体を張って守り抜き、怪我をしてなお戦うというのは、誰にでもできるというものではない。才能があるかどうかは関係ない。根性なしの天才が戦い続けることができると思うか?」
セドリックは首を振った。
「そういう意味では、君はキラ殿に近い」
「え……?」
「俺は必要に迫られて剣を握った。エリックもだ。しかし君は違うだろう? きっかけはどうであれ、村を守りたいと思って剣を手に取った」
「けど俺は農家の生まれで……」
ニコラはいかつい顔に穏やかな笑みを浮かべて言った。
「剣を持つのに必要な資格はたった一つだけだ。思いがあれば、焦らずとも立派な剣士となる。なければ……見つければいい」
セドリックはドミニクを見た。
とても童顔な彼女は、しかし似合わないほどに大人びたまなざしをしていた。目が合うと、コクリと小さくうなづく。
それに勇気をもらった気がして、セドリックは元気が湧いてきた。
「……よし! 才能なしがここまでやれるんだってとこを、あいつに見せつけてやる!」
――二年前まで、その日暮らしだった。
今日は大丈夫でも、明日はいなくなっているかもしれない。
もしかしたら自分が、もしかしたらドミニクが、もしかしたらエリックが。
そう思っていたら両親があっけなく死んでしまった。ドミニクの家族も。
嫌だ、だめだ、と叫ぶだけでは足りないのだ。
ずっと昔にそう学んだのに、いつの間にか忘れていた。
● ● ●
キラは猛烈に後悔していた。
目論見は成功した。傷つかず、そして動かずに一振りで勝負をつける。セドリックは剣の経験が浅いようであったが、それでも十分な感触はつかめた。
しかし、彼の気持ちを考えるべきだった。セドリックだって、エリックを助けたい一心で決闘に臨んだのだ。
だからと言ってわざと負けるつもりも、そうすることでセドリックたちを連れていくつもりもなかった。が、ニコラやミレーヌ、彼の恋人であるドミニクが見ている前だった。
一太刀で終わらせる以外にも、もっとやり方があったはずだ。
しかも悪いことに、セドリックの落ち込んだ姿を見たくなくて、逃げるように荷馬車へ入ってきた。その際に、何か嫌味のようなことを言った気がする。
とにもかくにも、とても最悪な気分だった。
キラが果てのない自己嫌悪に陥っていると、そっと握ってくる手があった。
リリィだ。背を向けて寝転んでいたはずの彼女は、いつの間にか向きを変えてじっと見つめてきていた。
「起きてたの?」
「ええ、ずっと」
ずっと……ということは、セドリックとのことも知っているのだ。
リリィはクスリと笑い、体を起こして抱き付いてきた。
「迷惑ばかりかけているのは、わたくしの方ですわね」
「え?」
「はしたなく怒鳴りつけたりして……それこそわたくしが信頼していない証拠でしたわ。友人――いえ、今は『妻』ですわね――なら、ただこうして抱きしめるだけで良かったのです。相手を無視した心配など、束縛もいいとこですわ」
ぎゅう、と抱きしめて来るリリィの力はやはり強い。
彼女の黄金色の美しい髪の毛が鼻をくすぐり、むずがゆい。しかし、嫌な気分ではなく、それどころか胸のもやもやもなんだか収まっていく。
「今落ち込んでいらっしゃるのは、わたくしのせいなのでしょう?」
キラは即座に首を振った。
どちらかと言えば、キラが欲張りであったのだ。
リリィを王都まで届けたい、彼女たちの手助けをしたい、パルブの村の現状を打破したい、セドリックの気持ちを汲み取ってあげたい……。
そのすべてを同時に成し遂げるなど、どうやっても無理だ。
それに、胸の奥から湧き出る感情が、リリィには全く責任がないと叫び続けていた。
「迷惑なんて一度も思ったことないよ。僕は……」
彼女への感謝の気持ちや、約束を守り通そうという決意とは全く違う何かが、渦巻いている。
どうしても言葉にすることができなくて、キラはそっとリリィを抱きしめ返した。
「キラ……?」
「僕はリリィの『夫』だから。……今だけだけど」
リリィはくすくすと笑い、抱きしめてくる力を一層強めた。頬まで擦り付けて、とても嬉しそうだった。
「わたくしの夫はやっぱり優しい方ですわ。……今は違いますけど――」




