12.エマール領
大きな揺れで、キラは目を覚ました。
ガタリガタリと絶えず揺れているため、草原の上ではないことが分かる。かといって、馬上でもない。
だが、そんなことがどうでもいいくらい、気分が良かった。
どこか安心するような香りに包まれ、誰かが髪の毛や背中を撫でてくれるのだ。加えて、どこからか心地の良い草原の風が優しく吹いてくる。
二度寝しようかともう一度目をつむると、よく知った声が聞こえてきた。
「エヴァルト、でしたっけ。再度お礼申し上げますわ」
美しいそのお礼に答えたのは、酷い訛りのある若い男だった。少し離れたところから聞こえる。
「なっはっは。美人さんにそう言うてもらえるんはエエ気分やなあ。けどな。馬車止めるためだけに剣を出したらアカンやろ。盗賊や思うてびっくりしたやん。声かけても一晩中無視されるし」
「それは……申し訳ありませんわ。その、焦っておりまして……」
「ま、そないに旦那さんが傷だらけやったら誰でも焦るわ。ちょいとからかっただけや、気にしなさんな」
「だ、旦那っ?」
キラも吹き出しそうなところを、懸命に抑えた。
ダンナとは、つまりはリリィと夫婦ということだ。
かたやお嬢様騎士、かたや田舎者。とてもアンバランスな気がする。
「うん? ちゃうんか?」
「ち、違いますわよ! まだ!」
「ほほう……?」
「う……わたくしとキラはまだそういう関係ではありませんし、そもそも、わたくしには婚約者の問題が……」
「ええっ?」
キラは思わず飛び起きた。よくわからないが、とてもショックだった。
だが、いきなり動いたせいで全身に激痛が走り、息も絶え絶えになってリリィの膝の上に収まる。
先ほどまでいい気分だったのが、今では真逆だ。妙に心がざわつく。
「キ、キラっ? 起きてましたの? いえ、それより大丈夫ですかっ?」
リリィは見たこともないほどに顔を真っ赤にして慌て、ギュッと抱き付いてきた。
全身が暖かくなり、苦しさが少しずつ緩んでいく。
セレナがやっていた『全身抱き付き治癒術』だ。正式名称は知らないが。
胸当てを失ったからか、彼女の体温がダイレクトに伝わってくる。紅のコートをぴっちりと着込んでいるのに、女性らしさの象徴が随分と主張して……。
恥ずかしくて突き放そうとしたが、まったく体が言うことを聞かない。
むき出しの腕には包帯が巻かれ、それ以外にも見えないところで何かがずれるような感触がする。首にもガーゼが張り付けられているのが分かった。全身包帯だらけだ。
口はかろうじて動き、キラは情けなくもか細い声でリリィに聞いた。
「リリィ……結婚するの?」
「し、しませんわよ! 婚約者がいるというのは……その……候補がいるというだけで!」
「候補……?」
「ええ。お父様がたいてい断っていますけれど、無下にしてはまずいことになる人たちが百名ほど……」
「百……人気だね」
「迷惑なだけですわ。本当ですからね?」
リリィは唇を尖らせ不機嫌そうにしながらも、どこか弁解するように言った。
疑う理由もないので、キラはほっと息をつき、頷く。
夫婦というものが何をするものかはよく知らないが、きっととても親しくなるということなのだろう。
勝手な思いではあったが、彼女が他の男――例えば赤いバンダナを頭に巻いた訛りの強い男とそういうことにはなって欲しくなかった。
「よかったなあ、少年。ママんが取られんで」
馭者席に座る赤バンダナの男が、ちらりと振りかえる。
彼が何者かはよく知らないが、剣士であることは分かった。左腰から剣の鞘がのび、ひらりと風でなびいたマントの内側に革の鎧が見えた。
体つきも剣士のそれに思えるのだが……。
「ママ……? どっちかと言えば、姉が近いんじゃ……?」
「あらら、皮肉やで?」
「ひ……肉屋?」
「……もうええわ」
ただ、少し引っかかるところもあった。
彼の持ち物であろうこの馬車には、ちゃぷちゃぷと液体の波打つ樽や壺や、薬草のはみ出した袋などがたくさん詰め込まれている。どれもが商品のようで、値段などが彫られた札が括り付けられていた。
まるで行商人のようだ。グストの村に行商人が立ち寄ることがあったのだが、それと同じような荷馬車だった。
「それより、あなたは誰?」
「俺か? 俺はエヴァルトっちゅうもんや。行商人兼傭兵をやっとる」
「剣の腕もある行商人、じゃなくて?」
「おう。どっちも生業や。基本は商人やけどな。モノの入りが悪い時とか時節が合わん時とかは傭兵に変身しとるっちゅうわけや」
「へえ……」
グリューンのようだ。彼も普段は冒険者で、お金が入用になった時は傭兵稼業をこなすと言っていた。
そんなことを思い出していると、連鎖的にオービットでの出来事を思い出した。
グリューン――襲撃者――崩落――転移……。
あの少年は、はぐれる寸前、〝転移の間〟で力なく横たわっていた。毒を盛られていたが、大丈夫なのだろうか?
セレナだってそうだ。あの従順な赤毛のメイドは転移の魔法を一人で発動させたのだ。誰よりも疲労している。
三人とも一緒なのだろうか? それとも、バラバラに? せめて、グリューンかセレナのどちらかに英雄と称される老人がいてくれればいいのだが。
考えれば考えるほど、心配になってくる……。
リリィはどのくらい把握しているのだろうか。
キラは彼女に問いかけようとしたが、その前にエヴァルトと名乗る商人が手綱を緩く握りつつ、ふり向いて声をかけた。
「ところで、あんたらの名前は? 美人さんも、聞いとらんかったやろ」
「申し訳ありませんわ。わたくしはリリィ。こちらはキラです――今は友人の。この度は助けていただき、本当に――」
「ああ、ええよ、そんな礼は。堅苦しいの嫌いやねん。そんで、その白馬か」
ひどく訛った口調の男の視線が、キラとリリィの二人から外れる。
キラがその仕草に疑問を抱いていると、
――よう。いくらか顔色がましになったじゃねえか
バン、といきなり幌を突き破って馬面が現れた――実際には、切れ目に顔を突っ込んだだけだった。
白馬のユニィだ。元気そうにブルルッ、と鼻を鳴らす。
速くなる鼓動を抑えながら、キラはけだるい手を伸ばして鼻先を撫でた。
「おかげさまでね。ってか、ユニィ、どうなってんの?」
するとそれにはリリィが反応した。幻聴が聞こえない彼女は、自分にかけられたものだと思ったらしい。
まるで赤子を抱くように上半身にギュッと抱き付いたまま、
「荷台の隣で並走して、時折この隙間から顔をのぞかせるのですわ。ユニィもずっと心配していましたのよ」
同じように、白馬の鼻先を撫でた。田舎者の男子と美麗なお嬢様の手は全く違うのか、ユニィは気持ちよさそうに嘶き、満足そうに馬面をひっこめた。
「そらそうと、あんたらあんなとこで何しとったんや? 別嬪さんは盗賊まがいのことしでかすし、少年は少年でボッロボロやし。……そういやあ、リリィっちゅう名前はどっかで聞いたことがある気がするなあ……」
「ぞ、賊に襲われただけですわ。その、キラはわたくしを庇って、それで……」
「そうなんか? けど、あんたも剣士なんやったら……」
「胸当てを、失いましたので。中々自由に動けませんの」
「ああ、なるほどなあ。そないに立派なモン持っとったら、揺れてしかたないもんなあ」
リリィは恥ずかしそうにしながらも、特に否定はしなかった。やはり彼女は女性で、胸の話題はデリケートなものなのだ。
キラは首を傾げた。ドラゴンに襲われたと素直に言えば、そんなに恥ずかしがることはなかったはずだ。
不思議に思ってじっと見つめると、リリィがぎゅっと頭をかき抱いてくる。視界も何もかもが彼女一色になる。彼女の肩に埋もれるような形になり、少し苦しい。
「皆とはぐれた以上、慎重に行動すべきですわ。もしかしたらエヴァルトが、ということもありますから」
耳の近くでぼそぼそと話しかけられ、キラはぶるりと震えた。美しい声と、そしてさわやかではあるが汗も交じった彼女の香りで、くらくらしてしまう。
「じゃ、じゃあ……これからどうするの? リリィのしてる……イヤリングで、セレナに?」
「いいえ、不可能ですわ。セレナは転移の影響で少なくとも二日は魔法が使えませんもの。ですから、わたくしたちは一刻も早く王都へ。そうすれば、きっと合流できますわ」
「そっか。でも、ここはどこ……?」
「あ……それを聞くのを忘れていました」
リリィはようやく解放してくれた。後半の部分なんか、もう耳に彼女の唇が当たっていた。今までの何よりも柔らかかった。
キラはこの機に乗じてリリィから少し遠ざかろうと思ったが、抱きしめる力に変わりはなく、大人しくされるがままにしていた。
「ところでエヴァルト。これからどこへ行く予定なのです?」
「うん? んー……エマール領やな」
「エ、エマールですって? 王都にほど近いですけど、よりにもよって……」
その名前はどこかで聞いたことがある。
キラは驚くリリィの顔をじっと見上げながら、それが前に彼女の口から発せられたものだと思いだした。
王都を守るのは『盾』である竜ノ騎士団。だが、だからといって、『矛』たる王国騎士軍は何もしないというわけではない。城内の見回り、城壁からの監視、王都地下に張り巡らされた抜け道の保護など、普段は王城の警護も務めている。他にも、騎士団も知らされていないものもあるそうだ。
しかし現在、その王国騎士軍はほとんどが前線に駆り出されているという。残っているのは城内の警備兵のみ。
そうするように勧めたのが、エマール公爵なる人物なのだ。
「その驚きようは、やっぱあかんやつみたいやなあ」
「正直言って、あまりお勧めはしませんわ。なぜ、あの領地へ?」
「今回は傭兵をしにな。なんやぎょーさんの傭兵を募集しとるっちゅうから、それに乗っかろうと思うたんや。羽振りもええし」
「傭兵……?」
形のいい眉をひそめて呟くリリィ。何かが気に入らないようだ。
そんな彼女に、キラはおずおずと尋ねた。
「エマールって人、そんなに悪い人なの?」
「え? ああ……あまり良い噂は耳にしませんわね。エマール領内のことは特に」
「領内……」
「簡単にいえば、王国内に広大な土地を持っているということですわ。そしてその土地を一般市民に分け与え、様々な仕事に従事させることで居住の権利を与えているのです」
「なるほど……」
あまり深くは理解できなかったが、キラは頷いて見せた。
何度も彼女の言葉を頭の中でかみ砕きながら、続きにも集中する。
「そもそも、公爵とは血統上かなり地位が高いのです。貴族の中の貴族、大貴族とも言うべきでしょうか。それに見合う権力が当然ついてくるのですが……あろうことかエマールは、このレピューブリク王国内に、一つの国を作り上げてしまったのですわ」
「国の中に国?」
「ええ、公には認められていませんけど。しかし、エマール領内へ入るにしてもいくつかの許可状が必要となったり、勝手に私兵団や傭兵団を配置したり。さらには、有力貴族の領内には半ば義務化もされている騎士団支部の設立を断る始末」
リリィの様子から見るに、エマール公爵とやらはずいぶんと無茶なことをやらかしているらしい。次から次へと愚痴が漏れ始めた。
「そろそろエマール公爵を貴族の席から追放すべきですわ。領内での税金は途方もない額という話ですし、そのくせ自分は贅を尽くして……人を先導する立場としての自覚がなさすぎます。しかも……」
そこでリリィはキラを見下ろし、うっと言葉を詰まらせた。
「しかも、なに?」
キラは続きが気になってしまい、彼女の目を見つめながら聞いた。
するとリリィは、きょろきょろと目を泳がせながら、
「わ、わたくしの婚約者候補の一人が、公爵の子息なのですわ……」
そう言う。
キラは、自分がしかめつらになるのが分かった。
聞くだけでも横暴な振る舞いをしているやつの息子が、このとても美人な人の隣に立とうとしている。
気に入らない。本当に、心の底から気に入らなかった。まだ会ってもない人物にこれほどの思いを抱くなど、考えてもみなかった。
そういう意味では、相当な人物だ。
「キ、キラ? 眉間にしわが寄っていますわよ?」
「もともとこんな顔だよ」
「違います、もっと優しいお顔立ちですわ。公爵子息のことはわたくしは何とも思っていませんし、キラも忘れてくださいな。大した人物でもありませんし」
リリィが人差し指でぐりぐりと眉間をほぐしてくる。
なぜだかよくわからないが、たったそれだけのことでささくれだった気持ちが落ち着いた。
「あんた、お偉いさんをはねのけてええんかいな? めんどくさいことになりそうやけど?」
「平気ですわよ。それよりエヴァルト」
「うん?」
「あなたこそ、この荷をどうにかしなければなりませんわよ? 許可状のない行商人は門番と接するだけで没収されるらしいですから」
「ちと横暴すぎひんか? 仮にも戦時中やで。そんなん、内紛の火種になるだけやないか。王国が一気に瓦解する原因にもなりかねんで」
「エマール領がまるで国家のような体制を取ろうとも、レピューブリク王国の広大さに比べれば米粒程度。避ければいい話ですわ。……まあ、大問題なのは確かですが、まだ後回しにできますわ」
「なるほどなあ。けどまあ、俺のことは心配せんでええで。傭兵の証を見せれば、行商人でも普通に通してくれるみたいやから。……まあ、今の話を聞いてちょいと不安になったけど」
「傭兵の証?」
キラはリリィを見上げた。しかし、珍しく彼女もそれを知らないようで、同じように首をかしげていた。
「傭兵は名乗ったもん勝ちみたいなところもあるから、共通した証はないんやけど、一番明確なもんは報酬の明細書やな。これで傭兵の生計を立てるから金よりも大事なもんなんやで?」
「へえ……じゃあ、前はどこで傭兵をやってたの?」
「ここんとこは南の方で用心棒。で、少し前は〝冒険者の国〟。そういえば、帝国でも一時期雇われたことがあるなあ」
リリィがそれを聞いて、キッとエヴァルトの背中を睨み付けた。敵意を向け、警戒している。
そのことを雰囲気から察したのか、エヴァルトは軽く手を振りながら弁解した。
「おおっと、こん国やと帝国はご法度やな。堪忍、忘れとったわ」
「くれぐれも気を付けることですわね」
「どーも。けど、あんたらこそどうするつもりや? 傭兵でもないんやったら、一緒にエマール領に入られへんやろ」
「わたくしたちは……急ぎの用で、王都へ向かう予定ですが」
「やっかいやのお……こっからやとエマール領に隔てられとるし、王都に行くにはどうやっても遠回りせなあかんで。馬とばせば二日のとこを、一週間以上になってまう」
それが最悪なことだと、キラでもわかった。オービットで襲撃され、しかも帝国側が災厄の魔獣も投入してきたということが、余計に不安をあおる。
もしかしたら、今この瞬間にも、王都が襲われているかもしれない。時間は一秒も無駄にできないのだ。
キラのこわばった表情を見たのか、リリィはそっと唇を耳に寄せて、
「気が抜けないのは確かですが、今すぐに王都が襲撃されることは少ないかと思いますわ。何より、オービットは王都とだいぶ離れていますもの。転移を使わない限り、一日二日でどうこうできる距離ではありませんわ。少なくとも、あのドラゴンの脅威はないでしょう」
キラはほっと息をついた。それならば、ランディやセレナやグリューンも十分に休息できるだろう。万全な状態なら、彼らが敗れることなどない。
堅くしていた身をほぐしていると、荷馬車の外の方で白馬が鼻を鳴らしているのが聞こえた。そして続けて、幻聴が聞こえる。
――来るぞ、気を付けろ
何かはよくわからなかったが、ユニィは誰より、それこそランディよりも早く魔獣を見つけることができる。
「で、あなたはエマール領のどこに向かうつもりで?」
「公爵家があるタニアっちゅう町やな。今はそこに一番近い領門目指して――」
二人に注意を促そうとしたが、少し遅かった。
ガタガタと細かな横揺れが襲ったかと思うと、いきなり馬車がひっくり返ったのだ。
キラはとっさにリリィを庇い、樽や壺と共に幌を突き破って転げ出た。
柔らかな草地でもんどりうち、痛む体を起こして周りを確認する。リリィが全身で治癒術を施してくれたおかげか、動けないことはなかった。
馬車は馬ごと横倒しになり、エヴァルトの商品が派手に散らばっている。彼はというと、そのそばで尻餅をついて頭をかいていた。上手く受け身を取れたようだ。
ユニィは、早くも襲撃者と対峙していた。加勢しようと左腰に手を回すが、剣がない。治療のために取り外していたのだ。
白馬は前脚を高く上げ、振り下ろす。すると相手が身軽な動きでぱっと横へ避けた。
その影から出てきた相手の姿を見て、キラはあの災厄の魔獣を思い出した。
ドラゴンのような人のような、珍妙な姿をしていたのだ。
黄土色の顔は思い切り竜であり、太いしっぽやその鱗の肌もそうだ。だが、二本足で立っていることや翼がないこと、剣や盾や防具を装備しているところは、より人間に近しい存在だった。
そいつだけではなく、辺りにあと五体、同じような魔獣がいる。
「リザードマンですわ。キラは下がっていてくださいな」
止める間もなく。リリィはあっという間に魔獣の眼前に迫り、戦いに加わった。
紅のコートが靡き――その戦いを見てキラは眉をひそめた。
彼女の動きに、いつものキレがない。小さなずれが大きなずれとなっていくように、徐々に太刀筋に制度がなくなっていく。
二匹のリザードマン相手に手間取り、気が付いたら防戦一方になっていた。
いけない。
キラは痛みを無視して駆け出し、
「ユニィ!」
白馬に向かって叫んだ。
すると白馬は甲高く嘶き、相手取っていたリザードマンを手早く踏みつぶした。だけではなく、ドラゴンの時と同じように、地面にめり込ませる。
醜い音が響き渡る。
近くで味方が目も当てられぬほどの姿にされたからか、リリィを襲っていた二匹の動きが緩慢なものとなった。
――オラオラァ! どうした、かかってこいよザコども!
白馬が足を振るって魔獣たちを挑発しているうちに、キラはリリィを抱きかかえ安全なところまで下がる。
呆然としている彼女は、へたりと腰を地面につけた。
「ハア、ふう……大丈夫?」
「え、ええ。助かりましたわ。もう――」
「いや、だめだよ。あとは僕とユニィでやるから。剣を貸してくれない? 見当たらなくて」
「でもキラは……」
「僕はほら、頑丈だから。それにリリィは、胸当てがないとだめなんでしょ? さっきので足も捻挫したみたいだし、危なっかしくて見てられないよ」
リリィは頑固だ。説得に時間がかかるかもしれないと思ったが、意外にもあっさりと頷いた。
「そう、ですわね。……わたくしも、キラのように男として生まれたかったものです。そうすれば、女の弱点などに悩まされないのに……」
それはコンプレックスというものだった。
豊かな胸が、騎士としてのリリィを拒むのだ。
しかしキラは、その考え方自体が理解できなかった。
「君が男だとしたらぞっとするけど」
「え……?」
「いくらいい人でも、男に抱き付かれたくないよ。リリィが女性で、しかもめちゃめちゃ美人さんだから、すごい嬉しいんだよ。君といると、心臓も暴れないで済むし」
「……ふふ、ありがとう」
泣き笑いのような表情を浮かべた彼女は、とても可憐だった。それでいて美しい彼女に、キラは胸が高鳴るのを感じた。
差し出された白銀の剣を受け取り、
――そっち一匹、行ったぞ!
振り向きざまに、襲い掛かってきたリザードマンの手くびを過たず切り裂いた。
竜のような口を大きく開けながらのたうち回る魔獣。
体の調子は絶不調だが、負ける気がしない。
ピッ、と剣についた血糊を振り払い、
「君が戦えなくなったら、僕がいるからさ。離れないでいるっていう約束が一生続くなら、ずっと助けてみせるよ」
リリィに向かってそう言った。
すると後ろでグスッと聞こえたために、キラはすぐに後悔した。
変なことを言ったかもしれない。
後で謝ることを心に決めて、キラは剣を構えてリザードマンを睨み付けた。
変なことを言ってしまった原因は、そもそもこの魔獣たちの襲撃にある……。
手くびを斬られたリザードマンが恨みを込めて睨んでくるのと同じぐらい、キラは怒りを込めてガンを飛ばした。
● ● ●
キラの慰めは、とてもうれしかった。
女の身でありながらも、戦場に立つということは特におかしいことではない。魔法を交えながらならば、男女の身体能力の差など微々たるもの。むしろ、昔から女の方が魔法を使うことに長けているため、重宝されているくらいだ。
だが、戦場に身を置く女が、女として悩むというのは誰もが通る道だ。ある者は自慢の長い髪に、またある者は太陽に弱い肌に。一定の周期で訪れる女性特有の症状に悩む人も多い。
リリィの場合は、豊かな胸だった。激しく駆け回る戦闘スタイルでは、微妙な重心の移動も致命的なミスになりかねない。
胸を締め付けるサラシではズレる可能性があり、かといって下着では緩すぎて話にならない。
そこで甲冑の胸当てをしているのだが、戦闘の最中に壊れてしまうことなどザラだ。
そのたびに、リリィはどうすることもできず後退してしまう。
戦闘スタイルも変えられない以上、唯一にして最大の弱点なのだ。この事実はこれからも依然として変わらない。
だが、キラがそれを捻じ曲げてくれそうな気がした。
離れないでいるという約束が一生続く『なら』、と彼は言うが、リリィは自分からその約束を反故にする気などさらさらなかった。
キラの心臓が治るまで――目の前で起こる最悪の可能性が完全に消え失せるまで、彼が嫌と言っても離れることはない。
そして、願うならば……。
――ガァァッ!
リザードマンの断末魔が聞こえて、リリィははっと顔を上げた。
キラが正確な太刀筋でトカゲ人間の腕を切り落としていた。
続けて、流れるような動作で白銀の剣を魔獣の胸に突き刺す。
崩れ落ちるリザードマンには目もくれず、彼は白馬が相手していた魔獣めがけて突進する。
村人の格好をした少年の背中に、リリィは自分の母の面影を見た。
無駄のない動き、鋭い剣のきらめき、相手とのタイミングのずらし方。
すべてがそっくりだった。怪我をしていても決して戦いをやめない姿も。
だから、見ているだけというわけにはいかなかった。
リリィは立ち上がり、右手に紅の炎を練り上げる。
魔法とは、いわば第六感の能力だ。直感によって自分の内側にたまっている魔力を感じ取り、それをすくい上げ、扱う。
この感覚は無論人間だけのものではなく、魔獣にだってある。
リザードマンとて例外ではない。
トカゲが巨大化したような姿のその魔獣は、大体群れを成している。地中に潜って身をひそめ、獲物が頭上を通ったら一気に魔法を使って畳みかけるのだ。
どうやってかキラは事前に奇襲を察知したようだが、ともかくそのおかげで、リザードマンたちを追い込んでいる。
今彼に切り伏せられて、残る相手は三体。魔法を得意とする個体ばかり。
いくらキラとて、魔法使いのリザードマンに立ち向かうのは無謀だ。記憶が正しければ、彼は魔法を使うような相手とは戦っていないし、そもそも魔法をよく知らない。
せいぜいが、あのゴーレムぐらいだ。
「キラ、下がってくださいな!」
胸当てがなくとも、剣士のタイプより緩慢なリザードマンならば、三体くらいどうとでもなる。
キラがユニィを連れて交代したのを見て、リリィは足にも魔力を溜め――。
駆けようとしたその時、稲光が走った。
● ● ●
リリィの合図でユニィと共に後退したキラは、しかし彼女の紅の炎とは違うものを目にした。
カッとまばゆい黄金の光が走ったかと思うと、轟音が鳴り響き、辺りに衝撃波が襲い掛かる。
思わず尻餅をついたときには、すべてが終わっていた。
三体のリザードマンは消え去っている。最初からいなかったようだ。だが、確かにそこにいて何者かにやられたという証に、辺り一帯の草地が焦げ付き、小さな蛇のような光がのたうち回っていた。
そして、
「少年、助かったで。おかげで楽にやれたわ」
雷が躍る地面で、赤いバンダナで頭を覆ったエヴァルトだけが立っていた。右手が、バリバリと興奮冷めやらぬように稲光を纏っている。
キラは尻餅をついたまま、呆然と呟いた。
「さっきのは……魔法……?」
「そうや。ま、ちいとやりすぎたけどなあ。それより、あんたの腰、なんかえらいことになっとるけどええんか?」
「え?」
彼にそう言われて腰元を見ると、セレナに厳重に取り付けられたお守りが、エヴァルトの右手のように雷を纏っていた。
白馬のユニィも首をぐっと下げて、不思議そうにお守りの小袋を見つめる。
パリパリ、パリパリッ、と収まる気配はない。思い切ってぎゅっと握ってみると、まるで手に吸い込まれるように雷が掻き消える。
――〝旧世界の遺産〟……一部じゃあ宗教化されてるぐれえに謎の深い代物だな
どういうことか訊こうとして、ちらりとエヴァルトを見た。馬に向かってしゃべっている姿を見られて、怪しまれたくはない。
キラは白馬の目をじっと見つめて、続きを促すように努めた。
――発見から何百年も経ってるものもあんのに、何一つわかんねえもんだから、こりゃあ神の贈り物だっつって、〝旧世界の遺産〟を祭り上げてんだよ。神の言葉を聞くための道具だとか、神の降臨を示すものだとか言ってな
セレナから聞いたものと違う、また別の考え方だった。
どちらにしても『よくわからない』と言うのが共通している。
だからキラも、深く考えることはしないことにした。
「キラ! 大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたリリィが、いつもの通りにペタペタと全身を触ってくる。もう慣れたものだが、にやにやとするエヴァルトの前ではなんだか気恥ずかしい。
「大丈夫だよ。リリィの治癒術のおかげで、だいぶ体の痛みが和らいだし。それより、はい。剣、ありがとう」
「ふふ、お役に立ててうれしいですわ」
にっこりと笑うリリィには、先ほどの弱弱しい姿はなかった。
何かを心に決めたようで、それに伴ってか、なんだか距離が近い。彼女は、その豊かな胸が当たりそうなほど近寄っていた。
「やっぱ夫婦みたいやんなあ」
顎をさすりながら、面白そうに言うエヴァルト。
リリィが頬を赤くし反論しようとしたところを、エヴァルトは訛りの強い口調で遮った。
「それよか、思い出したで。ただならん身分に、紅の炎、そんでリリィ……あんた、〝竜殺し〟やろ?」
それを聞いた途端、リリィは今度は顔を青くさせて、キラを無理矢理起こしつつ一歩下がった。白銀の剣の切っ先を、エヴァルトに向ける。
するとエヴァルトは両手を上げて――その前に腰の剣を地面に投げ捨てて、降伏の意を示した。
「か、堪忍堪忍! 確認したかっただけや! ええこと思いついたんやて!」
それでもリリィは警戒を解かず、厳しい口調で問い返す。
「いいこと?」
「そうや。あんたらが誰にも怪しまれんようにエマール領に入る方法や。早う王都に行きたいんやろ? やったらここで足踏みするわけにはいかんやん」
「では、どのような策があるというので?」
「夫婦になるんや! あんたと少年が!」




