9話
訓練が終わる頃には、腕も脚も重くなっていた。
汗が冷え、皮膚の上でじわりと残った。
水桶で顔を洗っていると、向かいで剣を拭いていたバーツがちらりとこちらを見た。
「今日はやけに集中してたな」
「そう、かもな」
答えながら、俺は水を切り、布で顔を拭いた。
少し間を置いてから、俺は何気ない調子を装って口を開いた。
「なあ、バーツ」
「ん?」
「酒場に踊り子がいるの、知ってたか」
バーツは一瞬だけ動きを止め、それから思い出すように頷く。
「ああ、黒髪の踊り子だろ。鼻が高くて美人だよな」
噂話にもならない程度の、ありふれた感想。
「何か、知ってるか?」
俺がそう付け加えると、バーツは大げさに首を傾げた。
「さあな。容姿以上は知らないが」
「何だ、興味が出たのか」
バーツの声は軽い。からかい半分といった調子だった。
少し考えるように顎に手を当てている。
「最近、よく話しかけられる」
「それは、羨ましい限りだな」
即座に返ってくる。
笑いを含んだ声に、俺は眉を寄せた。
「からかうなよ。女が、俺なんかに構う意図が分からなくてな」
言ってから、少しだけ間が空いた。
バーツは肩をすくめる。
「ま、確かに」
悪びれもせず言い切って、すぐに言葉を継いだ。
「でも、いいんじゃないか。好意だったら、素直に受け取っておけば」
「考え過ぎだと思うぞ」と、軽い調子だった。
バーツにそう言われて俺も、そんなものか、と思った。
彼女から向けられる視線や言葉を、いちいち深読みする必要はない。
そう片付けてしまおう、と思った。
「いや、好意だと決めるのは、どうだろうな」
不意に、横から声が割り込んできた。
振り向くと同年代の騎士が、鎧の紐を解きながらこちらを見ていた。
「噂になってるぞ。酒場の踊り子が、騎士を狙ってるってな」
軽い口調だが、どこか面白がっている。
俺は思わず眉をひそめた。
「狙う?」
「言い方は悪いかもしれんが」
騎士は浮ついた様子で続ける。
「ロアン、お前は今や出世頭だ」
「財産狙いの女が寄ってきても、おかしくはないだろ」
「おい」
バーツが低い声で遮る。
空気が、わずかにざらついた。
「少し下世話じゃないか」
騎士は両手を上げ、悪びれた様子もなく後ずさった。
「悪い悪い、可能性の話だよ。気をつけろってことだ」
そう言って俺の肩を軽く叩き、その場を離れていく。
残された俺とバーツの間に、短い沈黙が落ちた。
「気にするな」
先に口を開いたのは、バーツだった。
「戦争の後は、こういう噂が増えるんだろう」
「……そうだな」
曖昧に答え、俺は視線を逸らした。
先ほどのバーツの言葉に、納得したのも確かだった。
だが、俺の考えは、さっき割り込んできた騎士の言い分の方が近かった。
見知った酒場の、見知らぬ踊り子。
どうしても胸の奥で引っかかる。
好意だとするには、彼女の距離は近すぎる。
打算だと決めつけるには、要求が静かすぎる。
そんな曖昧さが、俺には測りきれなかった。
訓練場を片付ける音が聞こえる。
日常の音、変わらない風景。
真意が分からないなら、考え続けるしかない。
それが今の俺に課された問いなのだと、結論付けた。
◇
夕方。
俺の足はいつもと同じ方向へ向いていた。
看板が風に鳴り酒場の扉を開けると、馴染みの匂いが流れ込んでくる。
空いている席に腰を下ろし、無意識に周囲を見渡す。
今日は踊りの気配がなかった。
代わりに、給仕の動線が静かに酒場内を行き交っている。
「ご注文は?」
顔を上げると、艶のある揺れた黒髪が目に入る。
エリシアだった。
飾り気のない従業員の姿。
「肉料理と、食後にエールをもらえるか」
「かしこまりました」
彼女は小さく頷き、すぐに去る。
業務的な声音だった。
背中を見送ってから浮かんだ感情に気づき、俺はため息をついた。
少し、冷たいと感じた。
そう思った自分は、ひどく場違いだ。
周囲では、他愛ない会話と食器の触れ合う音が混じり合っている。
いつも通りの酒場の夜。
しばらくして、皿が卓に置かれる音がした。
「どうぞ」
料理を運んできたのも、やはりエリシアだった。
湯気の向こうで、彼女は淡々とした表情だ。
「ありがとう」
そう言うと、彼女は一瞬だけ頷き、
そのまま椅子に視線を落とした。
「隣、よろしいかしら」
俺は一瞬、言葉を失う。
周囲の視線を、わずかに感じた。
「……構わない」
そう答えると、エリシアはためらいもなく腰を下ろした。
「どうぞ、暖かいうちに食べてください」
「店主に、怒られないのか」
思ったままを口にすると、エリシアは小さく肩を上げた。
「んー、怒られてしまうかも」
深刻さの欠片もない。
「それより」
少し声を落として、こちらを見る。
「また、町を歩きに行きませんか」
「今度は、漁港の近くに行ってみましょう」
唐突な誘いだった。
俺は手を止め、彼女を見た。
「……他に、相手はいないのか」
少し棘のある言い方になった。
エリシアは眉を上げ、わずかに口角を持ち上げる。
「あら、冷たいお言葉ですわ」
軽く冗談めかした口調。
「もう飽きてしまいました?」
「そういう意味じゃない」
「なら、行きましょうよ」
決定したように言って、立ち上がる。
彼女は何事もなかったように、給仕の動線へ戻っていった。
残された俺は、卓の上の皿に視線を落とした。
湯気はまだ立っている。
親切そうで、どこか飄々としている。
近づいてくるのに、踏み込みすぎない。
彼女の真意が、やはり掴めなかった。
俺は一人で、肉料理をつついた。
味は悪くない。
なのに、噛みしめるたび、何かを取りこぼしている気がしてならなかった。




