表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/12

9話

訓練が終わる頃には、腕も脚も重くなっていた。

汗が冷え、皮膚の上でじわりと残った。

水桶で顔を洗っていると、向かいで剣を拭いていたバーツがちらりとこちらを見た。


「今日はやけに集中してたな」

「そう、かもな」


答えながら、俺は水を切り、布で顔を拭いた。

少し間を置いてから、俺は何気ない調子を装って口を開いた。


「なあ、バーツ」

「ん?」

「酒場に踊り子がいるの、知ってたか」


バーツは一瞬だけ動きを止め、それから思い出すように頷く。


「ああ、黒髪の踊り子だろ。鼻が高くて美人だよな」


噂話にもならない程度の、ありふれた感想。


「何か、知ってるか?」


俺がそう付け加えると、バーツは大げさに首を傾げた。


「さあな。容姿以上は知らないが」

「何だ、興味が出たのか」


バーツの声は軽い。からかい半分といった調子だった。

少し考えるように顎に手を当てている。


「最近、よく話しかけられる」

「それは、羨ましい限りだな」


即座に返ってくる。

笑いを含んだ声に、俺は眉を寄せた。


「からかうなよ。女が、俺なんかに構う意図が分からなくてな」


言ってから、少しだけ間が空いた。

バーツは肩をすくめる。


「ま、確かに」


悪びれもせず言い切って、すぐに言葉を継いだ。


「でも、いいんじゃないか。好意だったら、素直に受け取っておけば」


「考え過ぎだと思うぞ」と、軽い調子だった。

バーツにそう言われて俺も、そんなものか、と思った。


彼女から向けられる視線や言葉を、いちいち深読みする必要はない。

そう片付けてしまおう、と思った。


「いや、好意だと決めるのは、どうだろうな」


不意に、横から声が割り込んできた。

振り向くと同年代の騎士が、鎧の紐を解きながらこちらを見ていた。


「噂になってるぞ。酒場の踊り子が、騎士を狙ってるってな」


軽い口調だが、どこか面白がっている。

俺は思わず眉をひそめた。


「狙う?」

「言い方は悪いかもしれんが」


騎士は浮ついた様子で続ける。


「ロアン、お前は今や出世頭だ」

「財産狙いの女が寄ってきても、おかしくはないだろ」


「おい」


バーツが低い声で遮る。

空気が、わずかにざらついた。


「少し下世話じゃないか」


騎士は両手を上げ、悪びれた様子もなく後ずさった。


「悪い悪い、可能性の話だよ。気をつけろってことだ」


そう言って俺の肩を軽く叩き、その場を離れていく。

残された俺とバーツの間に、短い沈黙が落ちた。


「気にするな」


先に口を開いたのは、バーツだった。


「戦争の後は、こういう噂が増えるんだろう」

「……そうだな」


曖昧に答え、俺は視線を逸らした。


先ほどのバーツの言葉に、納得したのも確かだった。

だが、俺の考えは、さっき割り込んできた騎士の言い分の方が近かった。


見知った酒場の、見知らぬ踊り子。

どうしても胸の奥で引っかかる。


好意だとするには、彼女の距離は近すぎる。

打算だと決めつけるには、要求が静かすぎる。

そんな曖昧さが、俺には測りきれなかった。


訓練場を片付ける音が聞こえる。

日常の音、変わらない風景。


真意が分からないなら、考え続けるしかない。

それが今の俺に課された問いなのだと、結論付けた。



夕方。

俺の足はいつもと同じ方向へ向いていた。


看板が風に鳴り酒場の扉を開けると、馴染みの匂いが流れ込んでくる。

空いている席に腰を下ろし、無意識に周囲を見渡す。


今日は踊りの気配がなかった。

代わりに、給仕の動線が静かに酒場内を行き交っている。


「ご注文は?」


顔を上げると、艶のある揺れた黒髪が目に入る。


エリシアだった。

飾り気のない従業員の姿。


「肉料理と、食後にエールをもらえるか」

「かしこまりました」


彼女は小さく頷き、すぐに去る。

業務的な声音だった。


背中を見送ってから浮かんだ感情に気づき、俺はため息をついた。


少し、冷たいと感じた。

そう思った自分は、ひどく場違いだ。


周囲では、他愛ない会話と食器の触れ合う音が混じり合っている。

いつも通りの酒場の夜。


しばらくして、皿が卓に置かれる音がした。


「どうぞ」


料理を運んできたのも、やはりエリシアだった。

湯気の向こうで、彼女は淡々とした表情だ。


「ありがとう」


そう言うと、彼女は一瞬だけ頷き、

そのまま椅子に視線を落とした。


「隣、よろしいかしら」


俺は一瞬、言葉を失う。

周囲の視線を、わずかに感じた。


「……構わない」


そう答えると、エリシアはためらいもなく腰を下ろした。


「どうぞ、暖かいうちに食べてください」

「店主に、怒られないのか」


思ったままを口にすると、エリシアは小さく肩を上げた。


「んー、怒られてしまうかも」


深刻さの欠片もない。


「それより」


少し声を落として、こちらを見る。


「また、町を歩きに行きませんか」

「今度は、漁港の近くに行ってみましょう」


唐突な誘いだった。

俺は手を止め、彼女を見た。


「……他に、相手はいないのか」


少し棘のある言い方になった。

エリシアは眉を上げ、わずかに口角を持ち上げる。


「あら、冷たいお言葉ですわ」


軽く冗談めかした口調。


「もう飽きてしまいました?」

「そういう意味じゃない」

「なら、行きましょうよ」


決定したように言って、立ち上がる。

彼女は何事もなかったように、給仕の動線へ戻っていった。


残された俺は、卓の上の皿に視線を落とした。

湯気はまだ立っている。


親切そうで、どこか飄々としている。

近づいてくるのに、踏み込みすぎない。

彼女の真意が、やはり掴めなかった。


俺は一人で、肉料理をつついた。


味は悪くない。

なのに、噛みしめるたび、何かを取りこぼしている気がしてならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ