8話
翌日、俺はエリシアと並んで街路を歩いていた。
子どもの頃の俺は、よく孤児院へ足を運んでいた。
思い出そうとしたわけでもないのに、記憶が唐突に浮かび上がる。
炊き出しの日を狙って、腹を空かせて。
鍋の匂いに引き寄せられるように、列に並んで。
誰かと一緒に、肩を並べて。
――俺ひとり、じゃない?
「……ロアン」
不意に名を呼ばれ、我に返った。
エリシアが立ち止まり、こちらを見ている。
「着いたわ」
孤児院だ。
塗装の剥げた木扉、低い石塀。
小さな違いはあるはずなのに、全体の輪郭は昔のままだ。
「どう、懐かしい?」
「あっ……ああ……」
俺は言葉が詰まり、曖昧な返事になった。
胸の奥をくすぐるような感覚。
懐かしさは、確かにあった。
「ここの神父さんなら、何か聞けるかもしれません」
確かに、と思う。
子どもの頃から、ここは同じ神父が管理していたはずだ。
年嵩で、いつも同じ黒衣を着た、恰幅のいい男。
「エリシア!」
敷地に足を踏み入れた瞬間、高い声が弾んだ。
次の瞬間、小さな影がいくつも走ってくる。
「エリシア、こんにちは!」
「エリシアだ!」
「遊ぼ、遊ぼ!」
次々に伸びてくる手が、彼女の裾を掴む。
エリシアは驚いた様子もなく、膝をついて視線を合わせた。
「はいはい、落ち着いて」
笑いながら、一人ひとりの頭に手を置く。
その仕草は、昔からここにいたかのように自然だ。
「ねえ、エリシア」
一人の子どもが、こちらを指さした。
「この人はだれ?」
別の子が、すぐに声を重ねる。
「一緒に来たんだから、きっとカレシだ!」
無邪気な断定に、周囲がどっと笑う。
俺は思わず言葉を失った。
視線が一斉に集まる。
どう返せばいいのか分からず、口を開いたまま固まっていると、エリシアがこちらを振り返った。
「彼氏ですって。ねえ、ロアン」
からかうように言い、俺を見る。
返答を待つ間も、子どもたちは期待に満ちた目でこちらを見上げている。
困り果てた表情をしていたのだろう。
エリシアはそれを見て、くすっと小さく笑った。
「ふふ……お兄さんが困ってるから、ここまでね」
そう言って、手を叩く。
「この人はね」
子どもたちの視線が、再び集まる。
「とってもすごい騎士さまなの」
少しだけ誇らしげに言った。
子どもたちは目を輝かせ、口々に声を上げる。
「ほんとに?」「強いの?」「戦争、行った?」
質問が一気に降りかかる。
俺は居心地の悪さに肩をすくめながらも、否定しなかった。
「まあ……普通だ」
曖昧にそう答えると、エリシアはまた微笑んだ。
「前の戦争でね、勲章ももらった、すごい騎士さまなの」
その一言が、引き金だった。
「えっ!」「クンショー!?」「ほんとに!?」
次の瞬間、俺は子どもたちに取り囲まれていた。
袖を引かれ、鎧の留め具を覗き込まれ、正面からも横からも顔を覗かれる。
「そういえば赤い髪の人、クンショーもらってた!」
「どれくらい強いの?」
「敵、何人倒した?」
矢継ぎ早の質問に、視界が忙しなく揺れる。
「……まいったな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
包囲された視界の端で、エリシアが立っている。
少し申し訳なさそうに、どこか楽しそうに。
子どもたちと俺を見比べながら、口元を押さえて笑っていた。
気づけば、俺は庭の中央に引きずり出されていた。
木の棒を剣代わりに持たされ、即席の勝負を挑まれる。
「……仕方ないな」
俺は一度、息を吐く。
逃げ場は、ない。
腰を落とし、子どもたちと目線を合わせた。
「少しだけ、遊ぶか」
期待に満ちた目が、一斉に輝く。
歓声が上がり、敷地いっぱいに弾けた。
その喧騒の中で、エリシアと目が合う。
彼女は何も言わず、ただ静かに頷いた。
◇
気づけば夕暮れまで、俺たちはそこで過ごしていた。
即席の剣遊びは何度もせがまれ、途中からは追いかけっこに変わり、騒ぎは尽きなかった。
笑い声が石壁に反響し、空の色が少しずつ橙に染まっていく。
息を整えながら腰を下ろすと、遠くで鐘の音が鳴った。
その音を合図にしたように、先ほどまでは離れて見ていたエリシアがこちらへ歩み寄る。
「どうした」
問いかけると、申し訳なさそうにこちらを見る。
「ごめんなさい……」
視線を伏せ、続けた。
「今日は、神父さまが留守の日でした」
「事前に、ちゃんと確認しておくべきでしたわ」と付け足し、エリシアはもう一度謝った。
そうだった。
ここへ来た目的は、神父に話を聞くことだったはずだ。
俺はいつの間にか忘れていた。
子どもたちと笑い、走り回り、剣を振るううちに。
「……まあ、いいんじゃないか」
自然と、そう口に出ていた。
エリシアが顔を上げる。
「子どもたちも、ずっと笑ってたしな」
中庭の端では、まだ名残惜しそうにこちらを見ている子どもたちがいる。
「悪くない時間だった」
エリシアは小さく息を吐き、柔らかく微笑んだ。
夕暮れの光が、彼女の黒い髪に溶け込む。
鐘の余韻が消え、孤児院に静けさが戻っていく。
俺は門の向こうに沈み始めた太陽を見ながら、胸の奥に残る感覚を確かめていた。
その後俺たちは孤児院を出た。
夕暮れの空が街道を覆い、石畳の影が長く伸びている。
エリシアがふと口を開いた。
「今日も……酒場で夕飯、食べていきます?」
「ああ。行こうか」
返事をしてから、ひとつの考えがよぎる。
――エリシアは、今日も遊ぶためにここへ来たんじゃないか。
エリシア。
君は、何のために、俺を……。
「まあ今は、いいか」
誰に聞かせるでもなく、心の中で呟いた。
遠くで灯りが入り始め、酒場のある通りが、ゆっくりと夜の色になる。
彼女の背中を追うように、俺は歩調を合わせた。




