7話
兵舎の朝は、普段から同じ匂いがする。
湿った石壁と、乾ききらない布、油の残り香。
それらが混じり合った空気の中で、俺は剣の手入れをしていた。
刃に布を当て、汚れを落とす。
前から、気配が近づいてきた。
「少しだけ、顔色が良くなってきたんじゃないか」
バーツだった。
俺は手を止めずに答えた。
「そうか、自分じゃ分からないな」
「ま、当人には分からないかもな」
バーツはそう言って笑い、空いている木箱に腰を下ろした。
しばらく、何も言わずに俺の手元を眺めている。
「結局さ」
不意に、軽い調子で言った。
「戦争が終わっても、暮らしは急に変わらないんだな」
俺は布を折り直し、刃の付け根を拭く。
「お前は凄い褒章をもらったのにさ」
「やってることは訓練して、下働きに出て、夜は早めに戻る。昔と変わらないじゃないか」
言葉に責める響きはなかった。ただ、事実を並べているだけだ。
「変える必要が、まだないだけだろ」
バーツは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめる。
「そうかもな」
軽く笑いながら言った。
「夢がないな」
からかうような声音だった。
すぐに何事もなかったように続ける。
「まあいいか。お互い今は暮らせてるんだ。それで十分だろ」
俺は剣を鞘に戻し、立ち上がった。
「そうだな」
変わらない場所。 変わらない距離。
兵舎の窓から差し込む光が、床に細長い影を落としていた。
◇
日が暮れる頃、いつも通り俺は酒場へ向かった。
バーツには「一緒に酒場、行くか」と聞いたが、
「……いや、やめておく」と断られた。
即答ではなく、間があった気がする。
いつもの軽さが潜め、神妙な顔つきに見えた。
それ以上、俺は聞かなかった。
酒場の扉を押し開けると、いつもより少し賑やかだった。
「いらっしゃい」
声をかけてきたのは、ミレディだった。
珍しくカウンターの内側に立ち、客の注文を取っている。
「今日は随分と前に出てるな、人手不足か」
そう言うと、ミレディは片眉を上げた。
「いや」
短く否定してから、視線を店内に巡らせる。
「私もたまには、客の顔を見ないとね」
「それに、今は……ほら」
そう言って、ミレディは顎で店の中央を示した。
視線の先で、灯りが少し落とされる。
ざわめきが自然と引いていった。
酒場の中央に、エリシアが立っている。
太鼓が、低く鳴った。
一拍遅れて、笛の音が重なる。
乾いた音色が天井に反射し、空気を震わせた。
合図のように、エリシアが動き出す。
足運びは確かで、腕を広げ、体をひねり、布が弧を描いてしなやかに揺れる。
伴奏に導かれるようでいて、どこか支配しているようにも見えた。
客の視線が一斉に集まる。
笑い声や杯の触れ合う音が、次々と消えていく。
誰もが、息を潜めているわけではない。
見逃したくないという空気だけが、店を満たしていた。
「……ほらね」
ミレディが、小さく肩をすくめる。
「あの子が踊ってる間は、手が足りなくなるんだ」
そう言ってから、少しだけ口角を上げた。
「みんな、見るのに夢中になっちまうからさ」
確かに、給仕に立っているはずの者まで、動きを止めて中央を見つめている。
声をかけられて、はっと我に返る者もいた。
曲が一段落し、太鼓の音が弱まる。
最後に、笛が長く息を引き延ばし、静かに終わった。
一瞬の沈黙。
遅れて拍手が広がる。
酒場にようやく音が戻ってきた。
エリシアは一礼し、顔を上げる。
その視線が、一瞬だけ、こちらを掠めた気がした。
しばらくして、客のざわめきが完全に戻る。
ほどなくして、目の前に皿が置かれる。
「どうぞ」
落ち着いた声だった。
顔を上げると、皿を運んできたのはさっきまで踊っていたエリシアだった。
踊り子の衣装の上に、簡単に羽織っただけの服装。
動くたび、まだ踊りの余韻が身体に残っているように見える。
「……給仕もしてたのか」
思ったままが口に出た。
エリシアは表情を変えず、皿の位置を整える。
「ええ、当然。というより、こちらが本業ですわ」
あっさりと言い切った。
そう言ってから、ためらいもなく俺の隣の椅子に腰を下ろす。
思わず、背筋が強張った。
「……仕事は、いいのか」
距離の近さに、視線が定まらない。
「さっきまで踊っていましたし、今は休憩の時間です」
当然だと言わんばかりの口調。
俺は皿に目を落とす。
湯気が立ち上り、香草の匂いが鼻をくすぐった。
「酒場に、新しいもてなしでも加わったのかと思った」
エリシアはきょとんとして、小さく笑った。
「ふふ……でも確かに、踊り子は前まではいなかったようですからね」
柔らかい声音だった。
「戦争のあいだに雇われたと聞いたが」
「はい。そのあたりから、ここで踊り子をしております」
エリシアは指先で自分の髪を軽くすくう。
黒く、波打った髪が灯りを反射した。
「私、異国の出身なんです。このあたりでは、珍しい髪色でしょう」
「……ああ」
短く相槌を打つ。
俺が匙を取るのを待つように、エリシアは指先を重ね、視線を落とす。
「冷めないうちに。食べながらで構いませんわ」
「少し、お話ししても?」
唐突だったが、強引さはない。
「構わないが」
そう答えてから、ようやく口に運ぶ。
温かい、塩気と香草の風味が広がった。
エリシアは俺の表情を確かめるように一瞬だけ見てから、静かに言葉を選ぶ。
「あなたの探し物のことです」
「手掛かりになるかもしれない場所」
匙が、皿にカツンと触れた。
彼女は続けた。
「孤児院です。昔、よく通っていたと聞きました」
「確かに、そうだな」
ただ頷いた。
エリシアはそこで初めて、ほんのわずかに視線を逸らした。
「明日、一緒に行ってみませんか?」
俺はしばらく黙って、皿の中身を見つめた。
孤児院。
親が亡くなってから、食事を貰いに何度も訪れた場所。
「行ってみるか」
返事は、自然と出ていた。
エリシアは息を吐き、口元をわずかに緩めた。
「決まりね。では、広場で待っています」
「分かった」
短く答えると、エリシアはそれ以上何も言わず、一礼して店の奥へ戻っていった
明日の予定が、ひとつ増えた。
孤児院の道筋を思い出しながら、俺は皿の残りを食べた。




