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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野


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7話

兵舎の朝は、普段から同じ匂いがする。

湿った石壁と、乾ききらない布、油の残り香。

それらが混じり合った空気の中で、俺は剣の手入れをしていた。

刃に布を当て、汚れを落とす。


前から、気配が近づいてきた。


「少しだけ、顔色が良くなってきたんじゃないか」


バーツだった。

俺は手を止めずに答えた。


「そうか、自分じゃ分からないな」

「ま、当人には分からないかもな」


バーツはそう言って笑い、空いている木箱に腰を下ろした。

しばらく、何も言わずに俺の手元を眺めている。


「結局さ」


不意に、軽い調子で言った。


「戦争が終わっても、暮らしは急に変わらないんだな」


俺は布を折り直し、刃の付け根を拭く。


「お前は凄い褒章をもらったのにさ」

「やってることは訓練して、下働きに出て、夜は早めに戻る。昔と変わらないじゃないか」


言葉に責める響きはなかった。ただ、事実を並べているだけだ。


「変える必要が、まだないだけだろ」


バーツは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめる。


「そうかもな」


軽く笑いながら言った。


「夢がないな」


からかうような声音だった。

すぐに何事もなかったように続ける。


「まあいいか。お互い今は暮らせてるんだ。それで十分だろ」


俺は剣を鞘に戻し、立ち上がった。


「そうだな」


変わらない場所。 変わらない距離。

兵舎の窓から差し込む光が、床に細長い影を落としていた。





日が暮れる頃、いつも通り俺は酒場へ向かった。



バーツには「一緒に酒場、行くか」と聞いたが、

「……いや、やめておく」と断られた。


即答ではなく、間があった気がする。

いつもの軽さが潜め、神妙な顔つきに見えた。

それ以上、俺は聞かなかった。


酒場の扉を押し開けると、いつもより少し賑やかだった。


「いらっしゃい」


声をかけてきたのは、ミレディだった。

珍しくカウンターの内側に立ち、客の注文を取っている。


「今日は随分と前に出てるな、人手不足か」


そう言うと、ミレディは片眉を上げた。


「いや」


短く否定してから、視線を店内に巡らせる。


「私もたまには、客の顔を見ないとね」

「それに、今は……ほら」


そう言って、ミレディは顎で店の中央を示した。

視線の先で、灯りが少し落とされる。


ざわめきが自然と引いていった。


酒場の中央に、エリシアが立っている。


太鼓が、低く鳴った。

一拍遅れて、笛の音が重なる。

乾いた音色が天井に反射し、空気を震わせた。


合図のように、エリシアが動き出す。


足運びは確かで、腕を広げ、体をひねり、布が弧を描いてしなやかに揺れる。

伴奏に導かれるようでいて、どこか支配しているようにも見えた。


客の視線が一斉に集まる。


笑い声や杯の触れ合う音が、次々と消えていく。

誰もが、息を潜めているわけではない。

見逃したくないという空気だけが、店を満たしていた。


「……ほらね」


ミレディが、小さく肩をすくめる。


「あの子が踊ってる間は、手が足りなくなるんだ」


そう言ってから、少しだけ口角を上げた。


「みんな、見るのに夢中になっちまうからさ」


確かに、給仕に立っているはずの者まで、動きを止めて中央を見つめている。

声をかけられて、はっと我に返る者もいた。


曲が一段落し、太鼓の音が弱まる。

最後に、笛が長く息を引き延ばし、静かに終わった。


一瞬の沈黙。


遅れて拍手が広がる。

酒場にようやく音が戻ってきた。


エリシアは一礼し、顔を上げる。

その視線が、一瞬だけ、こちらを掠めた気がした。


しばらくして、客のざわめきが完全に戻る。


ほどなくして、目の前に皿が置かれる。


「どうぞ」


落ち着いた声だった。


顔を上げると、皿を運んできたのはさっきまで踊っていたエリシアだった。

踊り子の衣装の上に、簡単に羽織っただけの服装。

動くたび、まだ踊りの余韻が身体に残っているように見える。


「……給仕もしてたのか」


思ったままが口に出た。

エリシアは表情を変えず、皿の位置を整える。


「ええ、当然。というより、こちらが本業ですわ」


あっさりと言い切った。

そう言ってから、ためらいもなく俺の隣の椅子に腰を下ろす。


思わず、背筋が強張った。


「……仕事は、いいのか」


距離の近さに、視線が定まらない。


「さっきまで踊っていましたし、今は休憩の時間です」


当然だと言わんばかりの口調。

俺は皿に目を落とす。

湯気が立ち上り、香草の匂いが鼻をくすぐった。


「酒場に、新しいもてなしでも加わったのかと思った」


エリシアはきょとんとして、小さく笑った。


「ふふ……でも確かに、踊り子は前まではいなかったようですからね」


柔らかい声音だった。


「戦争のあいだに雇われたと聞いたが」

「はい。そのあたりから、ここで踊り子をしております」


エリシアは指先で自分の髪を軽くすくう。

黒く、波打った髪が灯りを反射した。


「私、異国の出身なんです。このあたりでは、珍しい髪色でしょう」

「……ああ」


短く相槌を打つ。


俺が匙を取るのを待つように、エリシアは指先を重ね、視線を落とす。


「冷めないうちに。食べながらで構いませんわ」

「少し、お話ししても?」


唐突だったが、強引さはない。


「構わないが」


そう答えてから、ようやく口に運ぶ。

温かい、塩気と香草の風味が広がった。


エリシアは俺の表情を確かめるように一瞬だけ見てから、静かに言葉を選ぶ。


「あなたの探し物のことです」

「手掛かりになるかもしれない場所」


匙が、皿にカツンと触れた。

彼女は続けた。


「孤児院です。昔、よく通っていたと聞きました」

「確かに、そうだな」


ただ頷いた。

エリシアはそこで初めて、ほんのわずかに視線を逸らした。


「明日、一緒に行ってみませんか?」


俺はしばらく黙って、皿の中身を見つめた。


孤児院。

親が亡くなってから、食事を貰いに何度も訪れた場所。


「行ってみるか」


返事は、自然と出ていた。

エリシアは息を吐き、口元をわずかに緩めた。


「決まりね。では、広場で待っています」

「分かった」


短く答えると、エリシアはそれ以上何も言わず、一礼して店の奥へ戻っていった


明日の予定が、ひとつ増えた。

孤児院の道筋を思い出しながら、俺は皿の残りを食べた。


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