5話
昼過ぎから始まった宴は、時間を曖昧にしたまま夜へとなだれ込んでいる。
卓は寄せ集められ、皿と杯が所狭しと並んでいた。
焼いた肉の匂い、濃い酒の香り、人いきれが混じり合い、店内は熱を帯びている。
誰もが生きて戻ったことを確かめるように、食べ、飲み、語り合っていた。
「ロアン、どうやって生き残ったんだ?」
「先頭部隊だろ。大きな怪我とか無かったのか」
声は次々に投げかけられる。
俺は輪の中心にいた。
杯を渡され、空になるたびに注がれる。
断る間もなく、酒が喉を通っていった。
「いや、お前強かったんだな」
「よく戻ってきたな」
何か言われるたび、口元を少しだけ動かして応じる。
何杯飲んだのか、もう分からない。
なのに、頭は冴えたままだった。
酔いが来ない。
体のどこにも、酒が回っていく感覚がない。
腹の中に温かさが溜まっていくだけだ。
笑い声が上がる。
昔話が始まり、戦場の噂話に移り、話題は何度も巡る。
胸の奥にあるのは高揚ではなく、薄い膜のような隔たりだった。
しばらくして、俺は杯を置いた。
「悪い。少し、外の空気を吸ってくる」
誰かが何か言ったが、はっきりとは聞き取れなかった。
引き止める手もあったが、軽く振りほどく。
扉を押し開けると、夜の風が一気に流れ込んできた。
熱を帯びた体に、冷たい空気が触れる。
俺は店の外に出て、深く息を吸った。
喧騒は扉の向こうに閉じ込められ、港町の夜は静かだった。
星は少なく、雲が低い。
それでも、頭の中のざわめきは、少しだけ遠のいた。
――酔えないな。
そう思いながら、俺は壁に背を預けた。
背後から気配が近づいた。
「騎士さま」
低く、はっきりした声だった。
「お加減はいかがですか」
反射的に振り向く。
壁際に、女が立っていた。
酒場の灯りが届かない場所で、黒い髪だけが夜に溶けず残っている。
酒場の従業員のような服装。
――違う。
この女、あの踊り子じゃないか。
「今日は踊らないのか」
女は一拍置き、わずかに口元を緩めた。
「あら。お気づきでしたのね」
否定もしない。
「今日は、私の出る幕ではありませんから」
視線が、壁の向こうへ。
騎士たちの笑い声と杯の音が、鈍く重なって聞こえていた。
「店に戻らなくていいのか」
「大丈夫でしょう」
即答だった。
「宴も、まだ終わりそうにありませんし」
女は一歩だけ近づき、俺の隣に並ぶ。
「それよりも」
声が少しだけ低くなる。
「あなたの背中が、気になりまして」
「背中?」
「ええ。……とても、寂しそうでしたから」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
俺は正面を向き、港の暗がりに視線を逃がした。
「そういうつもりはない」
「そうですか」
女はそれ以上踏み込まなかった。
否定も、同意もせず、ただ隣で同じ方向を見ている。
短い沈黙。
夜風が、二人の間を通り抜けた。
「私は、エリシアと申します」
「あなたのお名前、伺っても?」
街灯の淡い光が、横顔を縁取る。
少しだけ、間が空く。
「……ロアンだ」
名を口にするとき、なぜか喉が渇いた。
「ロアン……」
女は小さく繰り返す。
「ロアン……ロアン……」
まるで響きを確かめるように。
やけに熱を帯びた声で。
視線が、俺をまっすぐ射抜いた。
「素敵なお名前ですね」
そう言ってから、ふっと力を抜く。
「もし、話し疲れていらっしゃらなければ」
「今夜の主役のお話を、少しだけ聞かせただけませんか」
俺は一瞬、酒場の扉を見る。
中ではまだ、笑い声と杯の音が続いている。
「武勇伝なんかじゃない……情けない話だ」
エリシアはただ、続きを待つ。
言葉を選びながら、口を開く。
「先頭部隊として、まっすぐ突っ込んだ」
「作戦は、うまくいった。城壁にも取りついた」
そこまでは、確かだ。
「だが、その先は……」
額に手が触れる。
「投石を頭に受けて、意識が飛びかけた」
「倒れたら終わりだと思って、無理やり足を動かした」
「次の瞬間には救護所にいた。それだけだ」
語り終えると、急に寒さを感じた。
沈黙が落ちる。
エリシアはすぐには言葉を返さなかった。
その視線は俺ではなく、夜の闇に向けられていた。
「……生きて、戻られたのですね」
やがて、静かにそう言う。
「それは、何よりのご武運です」
俺はただ、夜空を仰ぐ。
「……妙な話をするが」
「俺は、この町に帰ってきてから、何かが抜け落ちたみたいなんだ」
エリシアは、視線をこちらに向けた。
驚いた様子も、茶化す気配もない。
相手の言葉を逃さまいとした目。
「建物とか、人の顔とかは覚えてる。戦争のことも、だいたいは」
自分でも、なぜ言おうとしているのか分からなかった。
言葉を探しながら、続ける。
「でも……何かが、足りない気がする」
「思い出そうとしても、なにも掴めない」
気づけば、初対面の女に胸の内をさらけ出していた。
おかしい話だ。
騎士仲間にも、バーツにも、こんなことは言っていない。
エリシアは少しだけ目を伏せ、それから静かに息を吸った。
「……それは、お辛いですね」
俺は思わず、彼女を見る。
「分かるのか」
「私も、そういうものをいくつか抱えておりますから」
帰って来たときの、女の泣き顔が頭をよぎった。
夜風が、黒い髪をわずかに揺らす。
「もし、よろしければ」
エリシアは一歩だけ距離を詰め、柔らかく微笑んだ。
「あなたの探し物、手伝って差し上げましょうか」
俺は彼女の顔を見た。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……なぜ」
感じたのは、戸惑い。
エリシアはすぐには答えなかった。
ただ、夜の向こうを見つめながら、静かに言う。
「放っておけないだけです」
「寂しそうな、あなたの背中を」
その言葉が、嘘に聞こえなかった。
胸の奥が、強く脈打つ。
「……いや」
「そんなことを頼む筋合いじゃない。これは俺の問題だ」
否定が、先に口をついた。
今日が初対面な、酒場の客と従業員だ。
俺は距離を保とうとした。
「それに」
言葉を継ぎながら、視線を逸らす。
「何を探してるのかもわからない。物なのか人なのか、場所なのかすら」
頼まれても困るだろう。
そう言外に伝えたつもりだった。
「そうね」
あっさりと頷く。
態度が、逆に鼻についた。
「無理に、とは言わない」
彼女は静かに続ける。
「思い出せないなら、手がかりを拾いましょう。酒場には噂話も集まるわ」
断る理由はいくらでもある。
面倒をかけたくない、深入りされたくない。
信用できる相手でもない。
なのに。
俺は小さく息を吐いた。
「……時間は不規則だぞ」
驚くほど、弱い抵抗だった。
エリシアは、少しだけ目を細める。
「構わない」
「俺は、気分屋だ」
「確かに、そうかも」
返しに、思わず鼻で笑った。
「途中で何も見つからないかもしれない」
「それでも、いいんじゃないかしら」
迷いは、完全には消えていない。
だが、拒む理由だけが、少しずつ崩れていく。
俺は視線を上げ、彼女を見た。
「……少しだけ、世話になっても、いいか」
短く、そう言った。
エリシアは、ほっとしたように微笑んだ。
「じゃあ、決まりね」
軽い調子だったが、声は真剣だった。
胸の奥の重さが、ほんのわずかだけ、動かされた気がした。




