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からっぽな騎士と砂浜の踊り子 ――たった一つの記憶を失った英雄  作者: 亜麻野


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4話

営業前まで、俺は酒場の手伝いをしていた。

床を掃き、樽を整え、空いた箱を裏へ運ぶ。

夜には人と声で埋まる場所だが、今は壁と床ばかりが前に出ている。


「夕飯、頼めるか」


手を止めて声をかける。

ミレディは鍋をかき混ぜながら視線だけをこちらに寄越した。


「いいよ。すぐ出す」


食事をとって、少し飲んで、それから帰る。

今日はそういう段取りにしようと決めた。


カウンターの端に腰を下ろす。

指先でなぞった木の感触は、昔と変わらない。


店の奥で、微かな音がした。


靴底が床に触れる音。

重さを確かめるような、慎重な一歩。


まだ営業直後だ。客も数えるほどしかいない。


酒場の中央に、女が立っていた。


昨日の、踊り子。

判断するまでに、少し時間がかかった。


音はない。

伴奏も、呼び込みの声もない。


女の動きだけが、そこにあった。

腕が上がり、足が運ばれる。


派手さはない。

見せるための動きとも言い切れない。

俺の視線は離れなかった。


疑問は、遅れてやってきた。


この酒場に踊り子なんていただろうか。


夜の忙しさ、従業員の声、荷物を運ぶ手の感覚。

そこに、踊りをしている誰かの姿が、浮かばない。


踊り子は静かに動き続けている。

音楽がない分、呼吸の間や、重心の移動がよく見える。


女が最後の動きを終え、ゆっくりと息を吐く。

誰に向けるでもなく、軽く頭を下げた。


反射的に、息を詰める。

視線を外すことができなかった。


「おまちどおさま」


声で引き戻される。

振り向くと、ゲラルトが盆を両手で抱えて立っていた。

カウンターの上に皿を置く。

湯気と一緒に、香辛料の良い匂いが立ちのぼった。


「今日は魚の煮込みだよ。あったまるやつ」

「ありがとう」


礼を言い、視線を皿に落とす。

それでも、さっきまで立っていた場所が、気になって仕方がない。


スプーンを取る前に、口が動いた。


「なあ。あの踊り子、雇ったのか」


ゲラルトの動きが、一瞬だけ止まった。

盆を引く手が、わずかに遅れる。


「ロアン、……に」


何か言いかけて、言葉が途切れた。

声は小さく聞き取れない。


俺は首を傾げた。


「どうした」


ゲラルトは一度、唇を噛んだ。


「彼女は、エリシアだよ」

「ロアンが戦争に行ってる間にさ、踊り子になったんだ」


そうか、と心の中で呟く。

俺は匙を取り、煮込みを口に運んだ。


温かさが、ゆっくりと腹に落ちていく。


「ゲラルト、食後に麦のエールを頼む」

「……うん、わかった」


ゲラルトも俺も、それ以上何も言わなかった。





数日後。

町の広場は、朝から人で埋まっていた。

石畳の中央に簡素な壇が組まれ、旗が風に揺れている。

戦が終わったことを町全体で確認するための場だと、バーツが言っていた。


俺は隊列の端に立っていた。


磨かれた鎧、整えられた外套。

戦場で見たものとは違う、儀礼のための姿だ。

胸元に視線が集まるたび、背筋が自然と伸びる。


名を呼ばれ、前に出る。


形式ばった言葉が続き、勲章と報奨金の目録が手渡された。

拍手が起こる。

知らない顔も知っている顔も、同じように手を叩いていた。


最後にずしりと重い袋を渡された。

中身を確かめるまでもない。

これまで手にしたことのない額だ。


これで、生きていける。


達成感も誇らしさも、あるはずだった。

なのに、それらは遠く手応えのないものとして漂っている。


壇を降りると、すぐに何人かの騎士が声をかけてきた。


「やったな、ロアン」

「噂になってるぞ。運だけじゃ説明がつかないってな」

「これでしばらくは安泰だな。羨ましい限りだ」


肩を叩かれ、背中を叩かれ、杯を差し出される。

誰もが笑っていた。


俺は曖昧に頷き、短く礼を返した。


「運がよかっただけだ」


何度目かわからない言葉を繰り返す。

だが、相手は気にしない。

英雄譚には、本人の実感など関係ないらしい。


「おいおい、謙遜するなよ」

「運だけで生き残れる場所じゃなかったろ」


その通りだとは思う。


生き残ったことを祝われている。

勇敢だったと、幸運だったと、価値があるのだと告げられている。


なのに、言葉は全て自分の上を素通りしていく。


人の波が少し緩んだところで、聞き慣れた声が割り込んできた。


「おい、集まれ」


振り向くと、バーツが腕を上げて立っている。

金色の髪はいつもより整えられ、顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。


「今日は騎士で酒場を貸し切った」


周囲がざわめく。


「せっかくだ。盛大に飲もう」


一瞬の間のあと、歓声が上がった。

誰かが俺の背中を叩き、誰かが肩を組んでくる。

断る理由は、思いつかなかった。


俺は視線を人混みの向こうへ向ける。

笑っている騎士たちの輪の中で、俺はふと、自分だけが一歩外に立っているような気がした。


金の重みが、腰の袋に確かにある。

なのに、空虚さだけは、何一つ変わっていなかった。

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