26話
幾日も経った。
寒い季節は過ぎ、束の間の日差しが強くなる季節。
それも終わりの匂いを残して去っていった。
朝夕の風に、少しだけ冷たさが混じり始めている。
季節が巡っても、俺の日常に大きな変化はなかった。
ある日も、いつものように酒場を訪れていた。
注文の言葉も、既に決まっている。
「どうぞ」
見慣れた所作で、給仕される。
俺は杯を受け取り、軽く頷く。
「ありがとう」
そう言って、木で出来た小さな札を差し出した。
彼女はそれを受け取り、ほんの少しだけ口元を緩める。
「わかりました」
それが、俺たちの間のきまりごとだった。
視線が一瞬だけ交わる。
酒場を出る頃には、外はすっかり暗い。
家に戻り、軽く掃除でもしていると。
だいぶ経って、扉がノックされた。
俺は立ち上がり、扉を開ける。
そこに立っていたのは、エリシアだ。
専用の合図を作って、互いの家を訪ねる。
それすら、いつの間にか日常の風景になっていた。
扉を閉めると、外の冷えた空気が遮断された。
部屋の中は静かで、灯りも最小限しか点けていない。
町や酒場から、切り離された場所。
俺とエリシアは言葉を交わすでもなく、並んでベッドに腰を下ろした。
肩と肩が触れ、彼女は体重を俺の肩に預けてくる。
小さく息を吐き、力を抜くのが分かった。
「……少し、身体が冷たいな」
思ったままを口にすると、エリシアは首を傾げた。
「そう……?」
「外套だけじゃ、寒くなってきたか」
季節の移り変わりを実感した。
「大丈夫よ、少しくらい」
「こうしていれば、あったかいもの」
彼女はそう返しながら、俺の肩に顔を摺り寄せてきた。
髪が触れ、柔らかな重みが増す。
肩口に、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
「……明日、町で買い物するか」
「手袋なんか、あってもいいだろ」
沈黙が気まずくなる前に、別の話題を投げた。
エリシアは、少し間を置いてから、くすっと笑った。
「照れてる」
短く、断定的に言う。
図星だった。
俺は否定もせず、視線を前に向けたまま黙る。
エリシアは楽しそうに息を弾ませ、さらに寄りかかってきた。
その重みは、心地よかった。
「でも、そうね。一緒に行きましょうか」
同時に、こちらへ視線を向ける。
顔が近い。
灯りを落とした部屋の中で、肌のきめまで分かる。
まつげの一本一本が、影を落とすまでが見える。
呼吸の間隔が、少しずつ揃っていく。
どちらからともなく、距離が縮まった。
唇と唇が、静かに触れる。
温めあうような、長いキス。
胸の奥が大きく脈を打つ。
寒さのことなど、意識から抜け落ちる。
俺は目を閉じ、彼女の体温だけを感じていた。
この瞬間だけは——
何度、重ねても。
いつまで経っても、慣れることがなかった。
◇
翌日の昼。
約束通り、俺とエリシアは町を歩いていた。
空は重く曇り、雲の隙間から差す光も弱い。
風が湿気り、空気は心地よいとは言えなかった。
だが、気にならない。
彼女が目指したのは、通りに面した衣料品の店だった。
中へ入ると、狭い店内に色とりどりの布や衣服。
小物が所狭しと並んでいる。
上等とは言えないが、生活の匂いがする庶民向けの店だ。
エリシアは、くるくると視線を巡らせた。
布の質を確かめ、棚に掛かった衣服の端を指先でつまむ。
動作の一つ一つが、楽しげだった。
「初めて来るわけでもないだろ」
彼女は振り返り、少しだけ肩をすくめる。
「それでも、楽しくなるものよ」
当然でしょう、と言いたげだった。
しばらく店内を回ったあと、エリシアが小さく声を上げた。
「ねえロアン。これなんか、どうかしら」
棚の前で立ち止まり、一組の手袋を手に取っている。
差し出されたのは、紫色の手袋だった。
布地は柔らかく、刺繍が少しだけ入っている。
派手ではないが、俺の目を引く色だ。
「おう、いいんじゃないか」
素直に頷いた。
「踊り子の色と同じで、似合うと思う」
エリシアは手袋を胸に寄せ、ふっと目を細めた。
「なら、これはあなたに」
今度は、俺の方へ差し出された。
「……俺のなのか」
思わず聞き返すと、エリシアは当然のように頷いた。
「あなたも、手袋は必要でしょう」
俺は面食らったまま、紫色の手袋を見る。
実用的な色合いで、装飾も控えめ。
町歩きには十分だ。
「……そうか」
どう返すのが正しいのか分からず、短く答えた。
「なら、俺からはこれだ」
そう言って、近くの籠に目をやった。
何気なく手に取ったのは、赤の染料が目を引く手袋だった。
深い色合いで派手すぎず、しかし確かな存在感がある。
エリシアはそれを受け取り、少し黙った。
「……うん。素敵」
短い言葉だったが、偽りはなかった。
結局、互いに出し合って、二組の手袋を買った。
「俺が払う」と言ったが、エリシアは首を横に振って譲らなかった。
「あなたに、あげたかった」
その一言で、話は終わった。
店を出ると、相変わらず曇った空の下、冷たい風が吹き抜ける。
俺は新しい手袋を手に持ちながら、隣を歩くエリシアを見た。
前のように、記憶にない白昼夢を見ることは、めっきり無くなっていた。
歩いていて、ふと立ち止まることもない。
誰かの声が、現実とは別の場所から聞こえてくることもない。
心の奥に広がっていた空虚感も、なりを潜めていた。
完全に消えたのかは、わからないが。
意識の底に沈み、表に出てこなくなった。
きっと、彼女が、隣にいるから。
俺は、もう大丈夫。
できるなら、この先も。
朝を迎え、夜を越え、季節が巡っても。
彼女の隣で、俺は生きたい。
その願いを、疑わずにいられるほどには——
俺は、満たされていた。




