14話
沈みきらない赤が、海の端に強く残っている。
波はさっきよりも重く、一定の間隔で砂を濡らしては引いていった。
言葉はなく、二人で水平線を見ていた。
風が外套の裾を揺らし、エリシアの髪を持ち上げる。
俺は一度、息を吸った。
奥に溜まっていたものを、言葉に変えるために。
「なぜ君は、俺の探し物を手伝うと、言ったんだ」
何度も考えた問いだった。
エリシアは視線は海に向けたまま、指先を外套の縁に掛け、握る。
逡巡だろうか。
やがて、静かな声が落ちてくる。
「私は、異国の生まれって言いましたわね」
俺は黙って頷いた。
「私は異国の、大きな家で生まれました」
言葉は淡々と紡がれ、懐かしさも薄く感じる。
遠くから事実を見つめているようだった。
「使用人もいて、食べ物にも困らなくて」
「でも、それは突然終わりました」
波が一度、大きく砕ける。
白い飛沫が闇に散った。
「私は七つのとき、この町へ連れられました」
「口減らし、でした。きっと」
事実を述べているだけ、とでも言うようだった。
自分に言い聞かせるように。
「辛くて、寂しくて、誰も信じられなかったときが、ありました」
エリシアは初めて、視線を伏せた。
外套を握る指に、わずかに力がこもる。
「そんなとき」
ほんの少しだけ、彼女は顔を上げる。
「この町で、はじめての友人ができたんです」
しばらく、言葉が続かなかった。
波の音だけが、間を埋める。
「その子は、両親を失っていて」
エリシアは静かに続けた。
「辛くないはずなんてないのに、いつも前向きで」
言葉の端が、わずかに揺れた。
「……わたしにも、勇気をくれた」
声に、少し嗚咽が混じる。
彼女は慌てて息を整えようとしたが、うまくいかない。
「だから、そんな、あの子みたいに」
視線を落としたまま、続ける。
「私も、なりたかったから……」
俺は何も言えなかった。
否定も肯定も、どちらもできない。
あまりにも個人的で、脆い理由だった。
胸の奥で、別の光景がゆっくりと浮かび上がる。
帰郷の初日。
俺の前で泣き崩れた、黒髪の女。
エリシア。
君が、失くした人は――
それなのに。
俺なんかのために時間を使い、町を歩き、付き合っていたのか。
夕陽は沈みはじめ、海の色が深くなる。
「……すまなかった」
言葉と同時に、俺はエリシアに対して頭を下げた。
砂浜には波が砕けた泡が、白く広がっては消えていった。
「俺は、誰からも、優しくされる理由がないと思っていた」
「だから、怖くなった」
「君のことが」
飾りのない本音だった。
エリシアの気配が、わずかに揺れる。
顔を上げると、夕闇の中で彼女の瞳が光を反射していた。
風が強まり、外套の裾が大きく揺れる。
やがて、彼女は小さく口を開く。
「あなたは、優しい人」
思いがけない言葉だった。
「だからこそ、臆病にも、なるのね」
そう言って、初めてこちらを見る。
涙の跡も、嗚咽も、もう残っていない。
夜は、静かに近づいてくる。
赤みを失った空に、星がひとつ、またひとつ浮かぶ。
月はまだ低く、雲越しに淡く滲んでいる。
波の音だけが、一定の間隔で寄せては返す。
その中に、砂を踏む小さな音が混じった。
エリシアが半歩、近づいたのだと気づく。
「……ロアン」
呼ばれただけで、胸の奥が僅かに揺れた。
熱を帯びた声。
「私と、踊りませんか」
「……今、ここでか」
意味を測りかねた。
問い返すと、小さく頷く。
「ええ」
空と海の境を見つめながら、続けた。
「夕焼けと、月あかりを頼りに」
「波の音を、伴奏にして」
「もう、酒場も始まる時間だろう」
そう言うと、エリシアはわずかにほほ笑んだ。
「ええ。でも、今がいい」
理由は添えられなかった。
ただ、逃したくない瞬間なのだと、肌身で分かる。
「……そうだな」
答えは、考えるよりも先に口をついて出た。
エリシアは外套の留め具を外す。
風に揺れた布の隙間から、紫色の衣装が覗いた。
動きやすそうなそれは、夜の色に溶け込んでいる。
「踊りなんて、慣れていないぞ」
正直に言うと、エリシアは首を振る。
「大丈夫」
そう言って、俺の手を取った。
「私が、支えますから」
暖かい指先。
足の運びを教えられ、重心を預ける。
最初はぎこちなく、波の間隔と噛み合わない。
俺が躓きかけるたび、彼女の指が重心を戻してくれる。
波が寄せて引く。
その間に合わせるみたいに、二人の足音も寄っては離れた。
息が合うたび、動きは少しずつ揃っていった。
月が雲を抜け、砂浜に淡い光を落とす。
影が、二つ並んで揺れた。
音楽はない。
言葉もない。
あるのは波と、砂を踏む音だけ。
踊るには、それで十分だった。
呼吸を合わせるように。
俺が、彼女が、身体を支える。
俺たちは踊り続ける。
今だけは、この熱に身体を預けていたかった。




