10話
昼下がり。
俺とエリシアは約束通り、漁港へ向かう道を並んで歩いていた。
町の中心から離れるにつれて、人の声はまばらになり、代わりに潮の匂いが風に混じり始める。
石畳はところどころ欠け、靴底に伝わる感触も粗くなっていた。
「この時間の港、好きなんです」
エリシアが前を見たまま言う。
「慌ただしくないし、静かすぎない」
街道を行き交うのは網を担いだ漁師や、籠を抱えた女たちくらいだ。
確かに、仕事の合間に一息つくような、のんびりした空気が漂っている。
「よく来るのか」
俺がそう聞くと、エリシアは小さく頷いた。
「ええ。仕事前に、考え事をしたいときとか」
「……何か、悩みでもあるのか」
エリシアの言い方が、少しだけ引っかかった。
探るつもりはなかったが、声は低くなった。
一瞬だけ歩調を落とす。
「騎士さまは、優しいですね」
何でもないことのように笑いながら言った。
答えにはなっていない。
俺はそれ以上踏み込まず、視線を前に戻した。
さらに歩く。
風に湿り気が混じり、潮の香りが濃くなった。
エリシアが、おもむろに足を止めた。
「このあたりかしら」
独り言のように呟き、周囲を見回す。
積まれた木箱、古い石壁。人の通りはほとんどない。
「今日はこっちかな」
そう言うなり、彼女は近くの建物の隙間へと身を寄せ、腰を屈めた。
「おい、何を――」
呼び止めかけた瞬間、言葉が止まった。
エリシアの指が、俺の唇にそっと当てられていた。
「しっ」と、小さな声。
それから、目を細める。
「ふふっ、ごめんなさい。でも、見て」
指が離れ、視線だけで隙間を示された。
俺は半信半疑のまま、彼女の示す先を見る。
……野良猫?
薄暗い影の中、毛の短い猫が一匹、丸くなっていた。
灰色がかった背中が微かに上下している。
眠っているのか、警戒しているのか、わからない。
「港の近くには、よくいるんです」
エリシアは声を潜めたまま言った。
「人に慣れてる子もいれば、そうじゃない子も」
俺は理由もなく、息を殺していた。
猫はこちらに気づいた。
丸めていた体を起こし、こちらを睨む。
低い位置からの鋭い眼。
不思議な緊張が、路地の空気を張り詰めさせた。
その横で、エリシアは知っているというように、静かにしゃがみ込む。
チチチ、と、短い音を鳴らし、手を差し出す。
猫の首が、ぴくりと動いた。
俺は思わず、その様子を注視していた。
猫は立ち上がり、伸びをする。
それから一歩、また一歩と、ゆっくり距離を詰めてきた。
相手を確かめるような慎重さだ。
逃げ道を確かめるように、視線だけはこちらに向けたまま。
エリシアは動かない。
手を差し続け、ただ同じ高さで待っている。
次の瞬間、猫の顎が、エリシアの指に軽く触れた。
エリシアの口元が、わずかに緩む。
「ほら」
囁くような声で、こちらを見る。
「あなたも、触ってみない?」
差し出された手の先で、猫はじっと動かない。
俺は返事を忘れた。
ゆっくりと腰を落とす。
猫と目線を近づける。
手を伸ばすと、少しだけ躊躇があった。
指先が柔らかな毛に触れる。
温かい、生き物の温度だった。
猫は嫌がる様子もなく、喉の奥で小さく音を鳴らした。
その振動が、指先から腕へと伝わる。
理由のない安堵が、胸の奥に広がった。
「……不思議だな」
思わず零れた言葉に、エリシアは何も返さない。
ただ、同じように猫を撫でながら風を受けていた。
潮の匂いと、砂っぽい路地の匂い。
俺たちと一匹は何も言わず、その場に留まっていた。
◇
空に赤みが差し始める頃、俺はエリシアに連れられて浜辺まで来ていた。
港から少し離れただけで、音の質が変わる。
波が砂を引く一定の調子と、遠くで鳴る海鳥の声。
「ここは、私のお気に入り」
エリシアはそう言って、水平線の方を見た。
「静かで、綺麗でしょう」
人の気配はほとんどない。
船も沖にはなく、ただ海が広がっているだけだった。
「あなたも、気に入ってくれたら嬉しい」
俺は答えず、視線を同じ方向へ向けた。
赤く染まり始めた空と海の境目が、どこか曖昧だ。
「……探し物は」
エリシアは一瞬だけ瞬きをした。
それから小さく息を吐く。
「急いでも、結果は出ないわ。ゆっくり探しましょう」
波の音に溶けるような声。
「こうして町を歩いて、触れていれば、きっと見つかるわ」
彼女の言っていることが、俺にはわからなかった。
砂を一度踏みしめ、視線を落とす。
「なあ」
短く呼びかける。
「もう、やめにしないか」
「……えっ?」
エリシアの声が上ずる。
「これ以上、君を連れ立つ理由がない」
相手に、そして自分に言い聞かせるように言う。
「町に、孤児院に、港。確かに、楽しかった」
「だが、手掛かりすら見つからずじまいだ」
波が、少し強く砂を叩いた。
「もう、いいんだ」
空の赤みが、ゆっくりと濃くなる。
「俺一人で、探すから」
エリシアは何も言わなかった。
風が彼女の黒髪を揺らし、頬にかかったそれを、無意識に押さえる。
「……そう」
しばらくして、ようやく短く答えた。
責める調子でも、引き止める調子でもない。
「分かりました」
そう言って、視線を海へ戻す。
その横顔を見て、俺は言葉を失った。
――どうして、そんな顔をするんだ。
赤と黒が溶け合う境界を、俺たちは並んで見つめていた。
距離は、先ほどよりも遠くなった。




