諦めようとする私と、何も言えない彼
秋の朝は、空気が軽い。
夏の湿り気が抜けて、校門をくぐると、少しだけ背筋が伸びる感じがする。制服の袖を下ろすと、布が肌に触れて、季節が変わったことを実感する。
私は深呼吸してから、教室に入った。
窓際の木が、うっすら色づいている。
教室のざわめきも、どこか落ち着いていた。
席に着いて、前を見る。
……斜め前。
朝倉くんは、もう座っていた。
でも、私の方は見ない。
(……見ない、よね)
胸の奥が、ひっそり痛む。
二学期が始まってから、彼は明らかに距離を取っていた。
話しかけてこないし、目も合わない。
それが、正しい気がした。
(これでいい)
期待しない。
勘違いしない。
自分から近づかない。
そうすれば、傷つかない。
私はそうやって、自分に言い聞かせる。
昼休み。
真帆が私の前の席に腰かけた。
「ねえ、ひなの」
「なに」
「最近、無理してない?」
「してない」
即答だった。
「無理してない人の返事じゃない」
真帆は、少しだけ眉をひそめた。
「諦めようとしてるでしょ」
胸が、ぎゅっと締まる。
「……してない」
「してる」
真帆は、断言した。
「目、合わせないようにしてる。話題、振らない。必要最低限しかしない」
私は黙った。
真帆は、私の沈黙を責めなかった。
「ひなのさ」
静かな声で言う。
「諦めるって、楽そうに見えるけどさ」
「……」
「実は、一番自分を傷つける選択のこと、結構あるよ」
私は視線を落とした。
「……でも」
「でも?」
「このまま勘違いし続けるよりは、いい」
真帆は、少しだけ目を見開いた。
「勘違いって、何の?」
「……私が、特別だって思うこと」
真帆は、深く息を吐いた。
「ひなの。あんた、自分が誰かに特別に思われる可能性を、最初から否定してる」
「……だって」
「だって、じゃない」
真帆は、優しく言った。
「自分を信じない人ってね、相手の気持ちも信じられないんだよ」
その言葉が、胸に残った。
放課後。
私は、いつものように図書室へ行った。
本を開いても、文字は流れていくだけで、意味が頭に残らない。
しばらくして、椅子が引かれる音がした。
……来ないでほしい。
そう思ったのに。
「……白石」
聞き慣れた声。
顔を上げると、朝倉くんが立っていた。
「……なに?」
声が、少し硬くなる。
「隣、いい?」
「……どうぞ」
断る理由が、見つからなかった。
彼は座って、ノートを開いた。
距離は、前よりも少し遠い。
机一つ分。
その距離が、やけに現実的だった。
沈黙が続く。
私は、耐えきれずに口を開いた。
「……最近、忙しい?」
「……まあ」
「そっか」
それだけ。
会話が、続かない。
(話したいのに)
(でも、話したら、また期待する)
私は、ぎゅっと唇を噛んだ。
朝倉くんが、しばらくして言った。
「白石」
「なに」
「……俺、変わった?」
その質問に、心臓が跳ねた。
「……分からない」
嘘だった。
分かってる。
すごく。
でも、言えなかった。
「そっか」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
それが、逆に苦しい。
帰り道。
私は一人で歩いていた。
夕方の風が、制服の裾を揺らす。
銀杏の匂いが、ほんのりする。
(諦めよう)
そう決めたはずなのに、心は全然言うことを聞かない。
思い出すのは、朝倉くんの声。
視線。
何も言わない沈黙。
(あの人が、何も言わないのは)
(私が、何も求めてないから)
そう思うと、胸が少しだけ軽くなる。
(これでいい)
(私は、片思い)
(相手は、そこまで思ってない)
そう信じるほうが、楽。
数日後。
体育の授業で、私は足をひねった。
大した怪我じゃないけど、少し痛い。
ベンチで座っていると、誰かが影を落とした。
「……大丈夫?」
朝倉くんだった。
「うん。大丈夫」
私は即答した。
本当は、少し痛かった。
でも、頼りたくなかった。
彼は、私の足元を見てから、視線を逸らした。
「……無理すんな」
それだけ言って、戻っていった。
その背中を見ながら、胸がきゅっとなる。
(優しい)
(でも、それだけ)
私は、そう思い込む。
夜、布団の中で、天井を見つめる。
真帆の言葉が、また浮かぶ。
誰かが、諦めるよ
(……私、かな)
目を閉じると、朝倉くんの顔が浮かんで、慌てて首を振る。
(だめ)
(もう、期待しない)
私は、静かに決めた。
この秋で、終わりにしよう。
何も始まらないまま、
何も壊れないように。
そう思いながら、
私は眠りについた。




