近いのに遠い距離
梅雨が明けた途端、世界は急にうるさくなった。
朝の蝉の声。
アスファルトの照り返し。
校舎に入った瞬間の、もわっとした空気。
私は教室のドアを開けながら、小さく息を吐いた。
「……暑い」
それを聞いた真帆が、すぐ後ろで笑う。
「夏だもん。逃げ場ないよ」
「制服、つらい」
「それな。でもさ」
真帆は少しだけ声を落とした。
「夏ってさ、距離、縮まりやすい季節じゃない?」
「……どういう意味」
「物理的にも心理的にも」
私は首をかしげた。
「分かんない」
「だろうね」
真帆は苦笑して、それ以上は言わなかった。
席に着くと、斜め前の背中が見える。
朝倉くん。
夏服になって、シャツ一枚になった背中は、前より少しだけ大人びて見えた。
(見ない)
そう思っても、視線は勝手に行く。
(見ないって)
自分に言い聞かせて、私はノートを開いた。
夏休み前の学校は、どこか浮ついている。
「夏祭り行く?」
「花火いつ?」
「部活、合宿だるい」
そんな話題が飛び交う中、私は相変わらず、輪の少し外にいた。
別に、孤立しているわけじゃない。
話しかけられれば話すし、笑う。
ただ、自分から輪の中心に行くことはない。
昼休み、真帆が言った。
「ねえ、ひなの。今度のクラスの打ち上げ、行く?」
「……考えとく」
「またそれ」
真帆は呆れたように言う。
「どうせ行かないでしょ」
「そんなことない」
「じゃあ行こ」
「……人多いし」
「朝倉くんも来るよ」
その名前が出た瞬間、胸が反応した。
でも私は、すぐに顔をしかめる。
「……それは、行かない理由になる」
「え?」
「だって、気まずい」
「何が?」
「……私が」
真帆は、少し黙った。
「ひなのさ」
「なに」
「近いのに遠いって、一番しんどいよ」
私は意味が分からないふりをした。
「何それ」
「距離の話」
「……」
「物理的に近くて、気持ちが遠いときってさ」
真帆は、窓の外を見る。
「一番、誤解が増える」
放課後。
私は図書室に逃げ込んだ。
夏の図書室は、静かで、冷房が効いていて、居心地がいい。
席に座って本を開いたとき、向かいの椅子が引かれた。
顔を上げると、朝倉くんがいた。
「……ここ、いい?」
最近、このやりとりが多い気がする。
「……うん」
朝倉くんは、何も言わずに参考書を開いた。
距離は、机一つ分。
近い。
でも、話さない。
沈黙が流れる。
私は本を読むふりをして、文字を目で追うけど、頭に入らない。
(なんで、ここに座るんだろう)
(話しかけたいわけでもなさそうなのに)
ちらっと顔を上げると、朝倉くんがこちらを見ていた。
目が合う。
一秒。
二秒。
私が先に逸らした。
心臓が、うるさい。
(……見られてる)
(でも、意味はない)
しばらくして、朝倉くんが口を開いた。
「白石」
「なに?」
「……夏、予定ある?」
その質問に、少し戸惑った。
「特に……ない」
「そっか」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
(なんで聞いたの)
(なんで、それで終わりなの)
期待しそうになる自分を、必死に抑える。
「朝倉くんは?」
私が聞き返すと、彼は一瞬、言葉に詰まった。
「……部活とか」
「そっか」
会話が、そこで終わる。
私は、なぜか少し安心してしまった。
(これ以上、踏み込まれたら困る)
(勘違いしたくない)
(でも……)
胸の奥に、小さな不満が残る。
夏休み前最後の日。
帰り道、真帆が急に言った。
「ひなの」
「なに」
「朝倉くん、夏休み中、あんたに何も言わないと思う?」
「……知らない」
「言わないと思うよ」
「……なんで?」
真帆は、少しだけ困った顔をした。
「言えないから」
「……?」
「言ったら、ひなのが逃げるって分かってるから」
私は立ち止まった。
「そんなわけない」
真帆は、私を見た。
「本当に?」
私は答えられなかった。
家に帰って、部屋で一人になる。
カーテン越しに、夕焼けが差し込む。
(私は、何が怖いんだろう)
好かれること?
勘違いすること?
拒絶されること?
分からない。
ただ一つ分かるのは――
朝倉くんとの距離が、
近いのに、遠い。
その事実だけだった。




