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優しさの意味を間違え続ける

梅雨が来る前の空気は、どこか落ち着かない。


朝、校門をくぐると、空は晴れているのに、湿った匂いが肌にまとわりつく。制服のスカートが足に張り付く感じがして、私は無意識に裾を引っ張った。


教室に入ると、もう何人か来ていて、窓が少しだけ開いていた。風が入るたび、カーテンが揺れる。


私は席に着いて、カバンを机の横に掛けた。


……斜め前。


朝倉くんの席は、まだ空いている。


それだけで、少しだけ息がしやすくなる自分がいる。


(落ち着いて、白石ひなの)


私はノートを出して、今日の予定を確認する。国語、数学、英語……いつも通りの時間割。


いつも通り、なのに。


チャイムが鳴る直前、教室のドアが開いて、朝倉くんが入ってきた。


視線が勝手に向く。


(……やめて)


自分に言い聞かせながらも、目が離れない。


彼は鞄を机に置いて、椅子に座る。制服のネクタイを少しだけ緩めて、前髪を手で整えた。


ただそれだけなのに、胸がざわつく。


朝倉くんは、何も言わずにノートを開いた。


(見ないで。私のほう、見ないで)


……見られても困るのに、見られなかったら、それはそれで寂しい。


私は本当に面倒くさい。


授業が始まって、先生の声が教室に響く。私はノートを取りながら、集中しようとする。


けれど、視界の端で、朝倉くんがペンを持ち替える動きが入るだけで、意識がそっちへ引っ張られる。


(だめだ……)


英語の授業で、先生が言った。


「はい、じゃあ次。ここ、誰か訳してみようか」


指名されたのは、私だった。


「……え?」


一瞬、頭が真っ白になる。


先生が私を見る。


「白石さん。お願いします」


心臓が跳ねた。


私は教科書を見つめて、必死に文を追う。簡単な文のはずなのに、さっきまで理解できていた意味が、すっと抜け落ちる。


(落ち着いて)


口を開いた瞬間、声が震えた。


「……えっと、この文は……」


途中で言葉に詰まる。


教室が静まり返る。視線が集まる。


(やだ……)


そのとき。


斜め前から、ほんの小さな音が聞こえた。


……トン。


朝倉くんが、教科書の該当箇所を、ペン先で軽く叩いた。


それだけ。


声も出さない。こちらも見ない。


でも、どこを読めばいいか、一瞬で分かった。


私はそのまま、続きを訳した。


「……という意味です」


言い終わると、先生が頷いた。


「はい、いいですね」


座ると、足の力が抜けそうになる。


(助けてくれた……?)


でも私は、すぐに自分に言い聞かせる。


(たまたま。近かったから。困ってるのが見えただけ)


それでも、胸の奥がじんわり温かい。


休み時間。


真帆が後ろから私の肩に顎を乗せた。


「今の見た?」


「……なにが」


「英語のとき。ペンでトンって」


「たまたまだよ」


即答だった。


真帆は、呆れたように笑う。


「ほんと、“たまたま”信者だね」


「違うし」


「じゃあさ。ひなのが他の人だったら、ああやって教えてたと思う?」


「……」


答えに詰まる。


真帆は、そこで追及しなかった。ただ、軽く肩をすくめる。


「ま、いっか。信じたいものを信じれば」


その言い方が、少しだけ引っかかった。


昼休み。


私はいつも通り、一人でお弁当を食べていた。真帆は部活の友達と食べる日で、今日は一緒じゃない。


窓際の席で、弁当箱を開ける。


そのとき、影が落ちた。


顔を上げると、朝倉くんが立っていた。


「……ここ、いい?」


声が低くて、静か。


「え?」


「座っても」


教室の中は、それなりに空いている。彼がわざわざ、私の前に来る理由が分からない。


私は混乱しながらも、頷いた。


「……うん」


朝倉くんは、私の前の席を引いて座った。


距離が、近い。


お弁当を食べる音が、やけに大きく感じる。


(なんで……)


「……白石」


「なに?」


「さっきの英語」


心臓が、また跳ねる。


「……助けてくれて、ありがとう」


私がそう言うと、彼は少しだけ首を振った。


「違う」


「え?」


「助けたっていうほどじゃない」


「でも……」


「白石なら、分かると思った」


その言葉が、胸に落ちた。


(分かると思った)


信頼、みたいなものを感じてしまって、怖くなる。


「……過大評価だよ」


私は俯いて言った。


「私、そんなにできないし」


「そう思わない」


朝倉くんの返事は、早かった。


早すぎて、私は顔を上げてしまった。


目が合う。


近い。


近すぎる。


彼は一瞬、言いすぎたみたいな顔をして、視線を逸らした。


「……ただ、真面目だから」


その言い直しに、胸が少し冷える。


(ほら。やっぱり)


私は安心してしまう。


「真面目なだけ」


それなら、特別じゃない。


私はそういう位置でいい。


お弁当を食べ終わって、私は席を立った。


「……じゃあ」


「あ、白石」


「なに?」


「これ」


朝倉くんが差し出したのは、絆創膏だった。


「……え?」


「昨日、手、切ってたでしょ」


私は思わず自分の指を見る。小さな切り傷。朝はもう気にしていなかった。


「……よく見てるね」


言った瞬間、後悔した。


彼は少しだけ困ったように笑った。


「たまたま、目に入った」


まただ。


その言葉に、私は頷く。


「ありがとう」


受け取って、すぐにカバンにしまう。


(やっぱり、優しいだけ)


そう思うことで、心が保たれる。


放課後。


帰り支度をしていると、真帆が来た。


「ひなの、今日一緒に帰ろ」


「いいよ」


教室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差し込んでいた。


校門へ向かう途中、真帆がぽつりと言った。


「ねえ、ひなの」


「なに?」


「朝倉くんさ……」


真帆は言葉を選ぶみたいに、少し間を置いた。


「優しすぎない?」


私は笑ってしまった。


「だから、誰にでも優しいんだって」


「……そうかな」


「そうだよ。私だけじゃない」


「でも」


真帆は、少しだけ困った顔をした。


「優しさってさ。全部同じ形じゃないと思うんだよね」


「……どういうこと」


「例えばさ」


真帆は、足を止めて、私の方を向いた。


「誰にでもする優しさと、特定の人にだけ向く優しさって、あると思わない?」


胸が、ぎゅっと縮む。


「……考えすぎ」


私はすぐに言った。


「朝倉くんは、そんな器用じゃない」


「……ひなの、朝倉くんのこと、知ってるんだか知らないんだか」


「知ってるよ。中学から一緒だし」


「じゃあさ」


真帆は、少しだけ声を落とした。


「なんで、ひなののことだけ、あんなに見てると思う?」


私は、言葉を失った。


見てる……?


そんなの、気付いたことがない。


気付いていないことに、してきた。


「……見てないよ」


「見てるよ」


真帆は、断言した。


「ひなのが気付いてないだけ」


私は首を振った。


「そんなわけない」


「そっか」


真帆はそれ以上言わなかった。


校門を出て、別れ道に差し掛かる。


真帆は立ち止まって、私を見た。


「ひなの」


「なに」


「もしね」


真帆は、ゆっくり言う。


「誰かが、ひなののこと、すごく大事に思ってたとしても」


胸が、嫌な音を立てる。


「ひなのは、それを信じないと思う」


私は何も言えなかった。


「それってさ」


真帆は、最後に笑った。


「ひなの自身が、自分を信じてないからだよ」


その言葉が、胸に深く刺さった。


帰り道、一人になって、私は歩きながら考える。


(優しすぎる)


(見てる)


(特定の人にだけ)


真帆の言葉が、頭の中でぐるぐる回る。


でも私は、結論を出す。


(違う)


(朝倉くんは、優しいだけ)


(私が勘違いしてる)


そうやって、私はまた、優しさの意味を間違える。


間違えたまま、初夏の空気の中を歩き続ける。

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