女友達の何気ない一言
春の終わりは、教室の窓から入る風が、少しだけ湿ってくることで分かる。制服の袖をまくる子が増えて、廊下のにおいが体育館の床みたいな感じに変わる。
放課後、私は自分の机でノートを閉じていた。数学の授業で取り損ねた部分を、休み時間に埋めるつもりだったけど、気付いたらチャイムが鳴っていた。
(まただ。ぼんやりしてた)
机の上を片付けていると、真帆が私の机の前に立って、手を腰に当てた。
「ねーえ。ひなの、今日さ。放課後ちょっと付き合って」
「え、部活は?」
「今日は休み。っていうか、私は今、あんたの人生の部活をしてる」
「なにそれ……」
「いいから。購買行こ。パン買う」
私は小さく笑って、カバンを肩にかけた。真帆に引っ張られるように廊下へ出る。
教室の外は、放課後の騒がしさで満ちていた。部活へ向かう足音、先輩に呼ばれる声、窓の外から聞こえるグラウンドの掛け声。
その全部が、自分とは違う世界の音みたいに聞こえるときがある。
私は真帆の横を歩きながら、ふと教室の中を振り返った。
……朝倉くんは、まだいた。
席に座って、机の上にノートを開いている。誰かと話している様子はなくて、静かにペンを動かしていた。
(勉強してるんだ)
その姿が、なんとなく綺麗に見えた。
私が見ているのに気付くはずもないのに、胸がそわそわして、私はすぐに前を向いた。
真帆が横から、にやっと笑う。
「今の、見た」
「見てない」
「見た。朝倉くんのこと、めっちゃ見た」
「……たまたま目に入っただけ」
「はい出た、“たまたま”」
真帆は嬉しそうに言う。
「ねえ、ひなの。“たまたま”って、便利だよね」
「便利じゃない」
「便利だよ。自分が傷つかないための言葉」
その言い方が、少しだけ鋭くて、私は足を止めそうになった。
「……傷つかないためって」
「うん。だってさ、もし“たまたまじゃない”って思っちゃったら、期待しちゃうじゃん」
「……」
「期待して、もし違ったら、死ぬほど傷つく」
真帆は軽く言ったけど、その軽さがわざとらしくて、私は胸が苦しくなった。
「……私は、期待してないよ」
「うそ」
真帆が即答した。
「期待してない人は、朝倉くんの“別に”でへこまない」
私は言葉が出なかった。
へこんでたの、見られてた。
私は、そんな顔してたんだ。
購買に着くと、パンの匂いがふわっと鼻に入ってきた。甘い匂いと、揚げた匂いと、紙袋の匂い。
人が多くて、列ができていた。真帆は私の腕を引っ張って、列の最後尾へ行く。
「ひなの、何買う?」
「……メロンパン、かな」
「はい、安定。あんたそういうとこぶれないね」
「真帆は?」
「私はカレーパン。今日は勝ちたいから」
「何に勝つの」
「人生」
真帆は真剣な顔で言って、すぐに吹き出した。私はつられて笑ったけど、胸の中の重さは消えない。
列が少し進んだところで、ふいに背後から声がした。
「真帆」
真帆が振り返る。
「え、なに? 颯太?」
声をかけたのは、真帆の中学の同級生らしい男子だった。私はよく知らないけど、真帆がたまに名前を出す。
「お前、まだパンの列いるのかよ」
「いるよ。人生だから」
「人生って何だよ」
颯太くんが笑う。真帆も笑う。そのやりとりが、なんだか自然で、私は少しだけ羨ましくなる。
私は輪の外にいる感じがした。
その瞬間。
もう一つ、聞き慣れた低い声が、少し離れた場所から聞こえた。
「……白石」
心臓が跳ねた。
この呼び方。聞き間違えようがない。
振り返ると、朝倉くんがいた。購買の列の外側、通路寄りに立っていて、私たちの方を見ている。
(え、なんでここに)
朝倉くんは、私を見るだけじゃなく、真帆にも視線を向けた。
「……白石、これ買うなら、先に渡しとく」
「え?」
彼の手には、メロンパンが入った袋。
一瞬、状況が理解できなかった。
「……え、え? それ、私の?」
私が言うと、朝倉くんは小さく頷いた。
「今日、購買寄るって言ってたから」
「……言ってた?」
私、言ってたっけ。
いや、言ってない。少なくとも彼には。
私はあわてて真帆を見る。真帆は、にやにやを通り越して、完全に“やばいもの見ちゃった”みたいな顔をしていた。
「……朝倉くん、なんで?」
私が言うと、朝倉くんは少し目を逸らした。
「……たまたま、売ってたから」
その言葉を聞いた瞬間、安心が胸に落ちた。
(たまたま。うん、そうだよね)
でも、同時に、違和感が生まれる。
たまたま売ってたから、って、理由になってない。
だって、彼は私がメロンパンを欲しがってることを、知ってる前提じゃないと成り立たない。
私は混乱して、言葉が詰まった。
真帆が横から割り込んだ。
「……朝倉くんさ」
真帆の声のトーンが、いつもと少し違う。軽いのに、芯がある。
「ひなののこと、よく見てるよね」
私は息が止まった。
朝倉くんの肩がほんの少し揺るんだ。彼は真帆の目を一瞬だけ見て、それから私を見た。
目が合った。
その一秒が、やけに長い。
でも私は、すぐに視線を落とした。怖かった。
その目に、何かがあった気がしたから。
「……別に」
朝倉くんはいつもの短い言葉で返した。
そして私に袋を差し出す。
「ほら。冷める前に食べたほうがいい」
「……ありがとう。でも、お金……」
「いらない」
「え、だめだよ。だって」
「いい」
短くて、拒否みたいで、でも優しい。
私はそれ以上言えなくなって、袋を受け取った。
指先が触れそうで、触れない距離。
……触れた。
ほんの一瞬だけ。
熱い。
私の手のひらが熱くなる。
朝倉くんは何も言わずに踵を返して、そのまま人混みの中へ消えた。
残された私は、袋を両手で抱えたまま、動けなかった。
真帆が私の耳元で囁く。
「……ねえ、ひなの」
「……なに」
「今の、“たまたま”だと思う?」
私は反射的に答えた。
「思うよ。たまたま購買に来て、たまたまメロンパンがあって……」
真帆が、ため息をついた。
「うん。そういうことにしたいんだね」
「したいっていうか、そうだし」
「ひなの。あのね」
真帆は列の中で私の方へ体を向けて、少しだけ声を落とした。
「朝倉くん、“ひなのが購買来る”って情報、誰から聞いたと思う?」
「……え」
「先生から? 友達から? それとも……」
真帆は言いかけて、口を止めた。そして、いつもの冗談めいた顔に戻る。
「ま、いっか。ひなのは考えすぎって言うもんね」
私は袋を見下ろした。
紙袋の中で、メロンパンの甘い匂いがする。
(どうして、私の分を……)
でも私は、答えを作る。
(真帆が言ったんだ。真帆が、私がメロンパン好きって知ってるから)
そう、真帆が言ったんだ。そうに違いない。
だから朝倉くんは、優しくしてくれただけ。
私はそう思うことで、安心した。
帰り道。
夕方の光が、道路の端に長い影を作っている。真帆はメロンパンじゃなくカレーパンをかじりながら歩いていた。私はメロンパンの袋をまだ開けられずに持っていた。
「食べないの?」
真帆が聞く。
「……後で食べる」
「後でっていつ」
「家、帰ってから」
「へー」
真帆はわざとらしく言って、私の袋を見た。
「大事そうに抱えてるね」
「……普通だよ。潰れないように」
「はいはい」
少し歩いて、沈黙が落ちる。
私は沈黙に耐えられなくて、口を開いた。
「……真帆、さっきのさ」
「ん?」
「朝倉くんがメロンパン持ってたの、真帆が言ったからでしょ?」
真帆は立ち止まって、私を見た。
「……私が言ったから、ってことにしたいんだ」
「違うの?」
「違うよ」
真帆は、あっさり言った。
私は足元がぐらっとした気がした。
「……え」
「私、朝倉くんにそんなこと言ってない。そもそも朝倉くんとそんなに話さないし」
「でも……じゃあ、なんで」
真帆は少しだけ眉を上げた。
「ひなのさ。朝倉くんって、ひなのが“購買行く時期”とか“何が好き”とか、なんとなく把握してるっぽくない?」
「……してないよ」
私は強く否定した。強く否定しないと、崩れそうだった。
「してるように見えるだけ。たまたま」
真帆は私をじっと見た。
その視線は、責めるでもなく、笑うでもなく、ただ何かを確かめるみたいだった。
「……ひなの、さ」
真帆が小さく言う。
「もしさ。もし、朝倉くんが“たまたま”じゃなくて、“わざと”だったらどうする?」
胸が締め付けられた。
(どうする、って)
私は即答できなかった。
だって、そんなの――嬉しい、なんて思ってしまう。
嬉しいって思う自分が、怖い。
「……そんなわけない」
やっと出た声は、弱かった。
真帆は笑った。いつもの軽い笑い。
「うん、だよね。ひなのはそう言うと思った」
そして真帆は、少しだけ声のトーンを落とした。
「でもね。“そんなわけない”って決めつけるのって、相手に失礼なときもあるよ」
「……失礼?」
「うん。だってさ、誰かが頑張って優しくしてるのに、それを全部“気のせい”って片付けたら……その人、かわいそうじゃない?」
私は言葉を失った。
かわいそう。
誰が?
(朝倉くんが?)
そんなの、ありえない。
彼は人気者だし、何でもできるし、私なんかが彼をかわいそうにできるわけがない。
なのに、真帆の言葉が胸の中に残る。
私は、メロンパンの袋を握りしめた。
紙袋が少しだけくしゃっと音を立てた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
帰宅して、自分の部屋に入って、机の上にメロンパンを置いた。
袋を開けると、甘い匂いが広がる。私はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
(わざと、だったら)
(私のために、買ってきたんだってしたら)
(……)
考えた瞬間、心がふわっと浮きそうになって、私は慌てて首を振る。
(違う。違う違う。そんなの、私の都合のいい妄想)
私はメロンパンを半分に割って、一口食べた。
甘くて、ふわふわで、口の中が幸せになるのに。
胸の奥は、落ち着かない。
真帆の言葉が、何度も繰り返し蘇る。
“朝倉くんが、わざとだったらどうする?”
“全部気のせいって片付けたら、相手がかわいそう”
私は、メロンパンの甘さを噛みしめながら、心の中でまた答えを作る。
(朝倉くんは優しいだけ)
(わざとじゃない)
(私が特別扱いされるわけがない)
そうやって、私は自分を守る。
守っているつもりで、何か大事なものを、見えない場所に押し込めている気がした。
でも、まだ分からない。
分からないままでいい。
……そう思っていた。




