私だけが好きなんだと思っていた(春)
四月の朝の空気は、まだ冷たいのに、教室に入るとすぐに人の熱でやわらかくなる。
新しいクラスの名簿が黒板の横に貼られていて、みんなが前に集まって、指で名前を追っている。私も少し遅れて前へ行き、紙の端をつまむようにして覗き込んだ。
……同じだ。
胸が、勝手に小さく跳ねた。
「同じクラスだったんだ」
声に出したのは、私じゃない。私の横から、明るい声が割り込んだ。
「ね、これ運命じゃない?」
横にいるのは、真帆。私の中学からの友達。春色のカーディガンを肩に引っかけて、笑いながら名簿を見ている。
「運命って……」私は笑ってごまかした。「真帆はそういうの好きだよね」
「好きというか、当たってほしいっていうか。ていうか、ほら、見て。あんたの席、ここ。で、彼は……」
真帆が指を滑らせる。その指先が止まったところを、私は見ないようにしてしまう。見たら、顔が変に熱くなる気がしたから。
「……近いの?」
「近いどころじゃない。ほぼ隣のゾーン。よかったねえ」
よかった、なんて、言葉が軽すぎて、怖い。
私が好きなのは、朝倉 恒一。中学のときから知っていて、高校も同じになった。背が高くて、何を考えているのか分からないときがあるのに、ふいに優しい。
その「優しい」が、私の心臓にいちいち刺さる。
でも、刺さるのは私だけだ。きっと。
彼は誰にでも優しい。私は、何度もそれを見た。先生に頼まれてプリントを配ったり、荷物を持ってあげたり、文化祭の準備で遅れてる子を手伝ったり。
だから、私に向けられる優しさも、特別じゃない。
そう、特別じゃない。
名簿を見終えた真帆が、私の肩を小突いた。
「で? 朝倉くんと同じクラス、どう思う?」
「どうって……普通だよ」
「ふーん」
真帆の目が、じっと私の顔を見る。私は視線を逸らして、名簿の紙の端を意味もなく撫でた。
「普通って顔じゃないけど」
「……そんなことない」
「うそ。耳赤いし」
「赤くない」
「赤い」
「赤くないってば……!」
言い合いみたいになって、私は少しだけ笑ってしまった。笑うと、心臓の緊張がほどける気がする。でも同時に、笑ってしまった自分が恥ずかしくなる。
真帆は、笑いながら言った。
「ま、いーや。席行こ。新学期って、席だけでだいたい運命決まるからね」
「決まらないよ」
「決まる。私が言うから決まる」
教室に入ると、新しい机の匂いがした。消しゴムのカスも、まだどこにもない。
私の席は窓側から二列目の後ろの方。真帆は少し前の通路側。離れてるけど、振り向けば目が合う距離。
そして――
朝倉くんの席は、私の斜め前だった。
偶然にしては、近すぎて、心臓が落ち着かない。
カバンを椅子にかけて、私はゆっくり座る。視界の中に、彼の背中が入る。制服の襟の折り目がきれいで、髪の毛が少しだけ寝癖みたいに跳ねている。
それだけで、胸が苦しくなる。
(落ち着け、私。これはただ同じクラスなだけ)
そう言い聞かせても、視線が勝手に彼へ向く。
彼は誰かと話しているみたいで、肩が小さく揺れた。笑ってるのかな。声は聞こえない。でも、笑ってるならいいな、って思ってしまう。
……変だ。
彼が笑ってるかどうかなんて、私に関係ないのに。
始業式のあとのホームルームで、担任が自己紹介を促した。順番に立ち上がって、好きなものとか、簡単な挨拶をする。
私の番が近づくほど、喉が乾いた。
(変なこと言ったらどうしよう)
(声が震えたら、笑われるかな)
(朝倉くん、見てるかな……)
最後の考えが浮かんだ瞬間、自分で自分が嫌になった。
私は、何を期待してるんだろう。
期待なんて、してはいけないのに。
私の番が来て、立ち上がる。
「……えっと、白石 ひなのです。中学は……」
声が少しだけ上ずった気がした。教室の空気が一気に自分へ向いて、背中がぞわっとする。
「……趣味は、音楽を聴くことと、散歩です。よろしくお願いします」
短い。短すぎたかもしれない。
座るとき、視線が前へ滑って、朝倉くんの横顔が一瞬見えた。彼はこっちを見ていなかった。黒板の方を向いていて、ペンを指でくるっと回していた。
(見てない。そうだよね。私なんか見ない)
胸が少し痛んだ。
その次、朝倉くんの番になった。
椅子が引かれる音がして、彼が立ち上がる。背が高いから、それだけで教室の視線が集まる。
「朝倉 恒一です。……よろしく」
たったそれだけ。
なのに、教室がざわっと笑ったり、誰かが「短っ」ってツッコんだりする。
彼は少しだけ口角を上げた。
それが、私の胸を一番刺した。
(ずるい。そんな顔、ずるい)
私には向けられてないのに、私だけが勝手に喜んで、勝手に苦しくなる。
ホームルームが終わって、休み時間になった。
真帆がすぐ後ろを振り返って、口を尖らせた。
「ねえねえ、朝倉くんの自己紹介、なにあれ。ずるくない?」
「ずるいって……」私は笑って誤魔化す。「シンプルなだけじゃない?」
「シンプルすぎ。あれで女子の印象に残るんだよ。余白がある男は強い」
「余白……」
「そう。こっちが勝手に想像しちゃうの。あ、ひなの、まさにそれじゃん」
「違うよ」
即答したけど、真帆はにやにやしている。
「違わない。だって今、目が泳いだ」
「泳いでない」
「泳いだ。はい確定」
私は机に肘をついて、額を指で押さえた。
「……真帆、お願いだからからかわないで」
「からかってないよ。応援してるだけ」
「応援とか……そういうのじゃない」
私が言うと、真帆は少しだけ真顔になった。
「ひなのさ。あんた、自分のこと、過小評価しすぎ」
「してない」
「してる。めちゃくちゃしてる。人があんたに優しくすると、すぐ『誰にでも優しいだけ』って言うじゃん」
「だって……そうだし」
「そうかなあ」
真帆は、私の視線の先――斜め前の席に目をやった。
そこには朝倉くん。友達に呼ばれて、席を立つところだった。
彼が立ち上がった瞬間、私の呼吸が一瞬止まる。立ち姿がきれいで、制服のしわが少ない。そういうところまで見てしまう自分が、恥ずかしい。
彼が通路を歩くとき、ほんの少しだけ、こちらに顔が向いた。
目中王――みたいに、視線が絡むのを期待してしまった。
でも実際には、彼は私の机の脚あたりを見ているような、そんな視線で、ただ通り過ぎた。
……当たり前だ。
なのに。
通り過ぎるとき、彼の手が私の机の端に軽く触れた。ぶつからないように、という感じで。
それだけで、心臓が跳ねた。
(……何してるの、私)
私はその場に硬直してしまった。真帆が、私の顔を見て、呆れたみたいに言う。
「はい今の。今の見た?」
「な、なにが」
「机の端。触れた」
「ぶつからないようにしただけだよ」
「それを気にするのが朝倉くんってこと」
「みんなそうするよ」
「しない人の方が多いって」
真帆は小声で言う。
「ひなの、気付いてないだけでさ」
「……なにを?」
真帆は続きを言いそうになって、言葉を飲み込んだ。代わりに、肩をすくめて笑う。
「なんでもない。ほら、移動教室の準備しよ」
私は、頷くしかなかった。
(気付いてない……って、何)
でも、それを聞くのが怖かった。聞いたら、期待してしまうから。
期待して、傷つくのが怖い。
移動教室に向かう廊下は、人でいっぱいだった。教科書を抱えた子たちが、ぶつからないように体をよけながら歩いていく。
私は教室を出るタイミングを少し遅らせて、流れが落ち着いてから歩き出した。
真帆は先に行ってしまって、私は一人になった。
……こういうとき、私はいつも一人だ。
別に、嫌じゃない。静かなのは落ち着く。でも、ふと、隣に誰かがいたらいいのにと思ってしまう。
誰か、って――
(やめて。やめて、そういうの)
廊下に出た瞬間、後ろから声がした。
「白石」
びくっと肩が跳ねた。
振り返ると、朝倉くんが立っていた。いつの間に。さっき前にいたのに。
「……な、なに?」
声が裏返りそうになって、私は慌てて咳払いをした。
朝倉くんは、私の手元――教科書の束を見ていた。
「それ、落ちそう」
「え……?」
私が腕の中を見ると、プリントがずれて端から滑りかけていた。気付かないうちに、抱え方が雑になっていたらしい。
「……あ、ほんとだ」
慌てて押さえると、彼が自然に手を伸ばして、プリントの端を支えた。
距離が近い。
息が止まりそうになる。
彼の指が、紙の上で私の指と少しだけ触れた。ほんの一瞬。なのに、触れたところが熱くなる。
「ありがとう……」私は小さく言った。
朝倉くんは頷いただけで、私の手元が安定したのを確認すると、すっと手を引いた。
「……気をつけて」
それだけ言って、彼は私の横を歩き出した。足音が近い。同じ速さで歩いているのに、私はどう歩けばいいのかわからなくなる。
(なんで、声かけたの)
(たまたま? たまたま見えただけ?)
(そうだよね。優しいだけ)
自分の中で答えを作って、それにしがみつく。
そのほうが安全だから。
私が黙っていると、朝倉くんが少しだけ顔をこちらに向けた。
「移動、同じ?」
「……うん。数学」
「俺も」
それだけで、胸の奥がじわっと温かくなってしまう。
同じ。たったそれだけ。
なのに、私は勝手に意味を足してしまう。
(同じだね、って言いたい)
(話題がないから、言っただけ)
(気まずくならないように)
全部、そう。
全部、普通。
普通の会話。
私はそう思い込もうとして、頑張って笑った。
「……そ、そっか。じゃあ、同じだね」
「うん」
朝倉くんの返事は短い。でも、その「うん」が、変に柔らかく聞こえた気がした。
気のせい。
きっと気のせい。
教室に入る直前、前を歩いていた女子二人が振り返って、朝倉くんに手を振った。
「朝倉くーん! こっちこっち!」
朝倉くんは軽く手を上げて、そっちに向かって歩き出す。
私は、自然に足を止めた。
……私は呼ばれてない。
当然だ。
彼は私と一緒にいる必要なんてない。
私は、教室の端の方の席に座って、教科書を開いた。けど、文字が頭に入らない。
視線が勝手に朝倉くんの方へ向く。彼は呼んだ女子たちの近くで話していた。笑っているように見える。
(……楽しそう)
胸が少し苦しくなる。
その苦しさを「片思いだから」と、私は簡単に片付けた。
片思い。
私だけが好きで、私だけが勝手に揺れている。
きっと、それが真実だ。
授業が終わって放課後になると、窓の外の光が黄色くなっていた。部活見学の話で盛り上がる声が教室に広がる。
私は帰り支度をゆっくりしていた。真帆は私の机にやってきて、にやにやしながら言う。
「さっき一緒に移動してなかった?」
「……たまたま」
「たまたまねえ」
「プリント落ちそうだっただけ」
「そういうことにしておくんだ」
真帆は、わざとらしくため息をついた。
「ひなのってさ。ほんとに、ほんとーに、自分に都合の悪い可能性は切り捨てるよね」
「都合の悪い可能性ってなに……」
「……言わない」
真帆はそう言って、カバンを肩にかけた。
「でもね。私、あんたが傷つくの、見たくないから」
「……え」
思わず顔を上げると、真帆はもう笑っていた。さっきの真顔が嘘みたいに。
「ほら帰るよ。春ってさ、変に気持ちが浮くじゃん。変な期待しないようにね、ひなの」
期待しないように。
それは、私が一番言われたくない言葉だった。
だって私は、期待してはいけないって、自分で一番わかっている。
――なのに、期待してしまうから。
校門に向かう途中、下駄箱で靴を履き替えていると、後ろからまた声がした。
「白石」
振り向くと、朝倉くんだった。
また。
さっきは偶然でも、これは……?
心臓がうるさくなる。
「……なに?」
「これ」
彼が差し出したのは、私のプリントだった。数学の。名前が書いてある。
「……え。なんで」
「机の横に落ちてた。たぶん、さっき」
「……私、落としたんだ」
「うん」
彼はそれだけ言って、私にプリントを渡した。指先が触れそうで触れない距離。
私は慌てて受け取って、頭を下げた。
「ありがとう……助かった」
「別に」
「……でも、わざわざ」
「たまたま拾っただけ」
朝倉くんがそう言った瞬間、私の胸の中が少しだけ冷たくなった。
(たまたま。そうだよね)
私が勝手に特別を感じるたびに、彼の言葉がそれを否定する。
たまたま。別に。
そう言われると、安心する。
変な期待をしてしまう自分を止められるから。
でも同時に、少しだけ寂しい。
矛盾してる。
私は矛盾の塊みたいだ。
帰り道、真帆が横で腕を組んだまま、こっちを見て笑った。
「ねえ、今のさ」
「なに」
「たまたまって言ったの、どっち?」
「……どっちって?」
「朝倉くん。『たまたま拾った』って言ったじゃん」
「うん」
「私、あれ、優しさ隠してる感じに見えたけど」
「考えすぎだよ」私は即答した。「恥ずかしいだけだよ。そういうの、誰でも」
真帆は「ふーん」と言って、前を向いた。
「じゃあさ。ひなのは、いつ気付くんだろうね」
「……なにに」
「なんでもない」
真帆はそう言って、春の風に髪を揺らした。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
私は、プリントをカバンの中にしまいながら、心の中で繰り返した。
(私は片思い)
(彼は優しいだけ)
(私が勘違いしてるだけ)
そうやって、自分の気持ちを小さく折りたたむ。
折りたたんで、見えない場所に隠す。
でも隠しても、なくならない。
春の空気みたいに、薄くても確かにそこにある。
そして私は、まだ知らない。
この春の「たまたま」が、私の知らないところで、どれだけ必死に選ばれていたのかを。




