第87想 魔法試験・最後の関門――越えられぬ過去、越えるべき今(1)
霧に包まれた擬似空間の中心で、流水は一人、静かに立っていた。
足元に広がる水面は、鏡のように揺らぎながら淡く光を反射している。
深海を思わせる冷たい空気が肌を撫で、呼吸のたびに胸の奥がひりついた。
「まさか最後に立ちはだかるのが、鮫とはね……」
自嘲気味に呟いた。
鋭利な背びれ、岩のように硬質な皮膚。
巨大な顎に並ぶ歯は、一本一本が刃のように光っていた。
次の瞬間、声が響く。
「汝チカラヲ見セロ」
それは空気を震わせたわけではない。
直接、脳内に流れ込んできた――そんな感覚。
「……しかも喋ってるし」
思わず突っ込みながらも、流水は大きく息を吸い、構えを取る。
恐怖は確かにある。
だが、それに飲まれるほど、彼女はもう弱くない。
「まぁいいわ。一瞬で決めてやるわ」
鮫の魔力が膨れ上がる。
≪深海の監獄≫
次の瞬間、周囲の水が一斉に暴れ出し、渦となって流水を包み込んだ。
視界が一気に青に染まり、身体が水の中へと引きずり込まれる。
「魔法!?……まずい。水中に飲まれ――」
完全に水没。
だが、予想していた苦しさは訪れなかった。
「あれ……息が出来る?」
喉に手を当て、軽く息を吸う。
問題なく呼吸できている。
「なるほど……これも魔法で作られてるってわけね」
冷静に状況を把握した、その瞬間。
「わわっ……!」
視界の端を掠める影。
巨大な鮫が、信じられない速度で間合いを詰めてくる。
流水は反射的に身を捻り、ぎりぎりで回避する。
「水中デハ、人間ハ思ウヨウニチカラガデナイノダロ?」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
暗い海。
冷たい水。
足を取られ、必死に息を求めた幼い日の記憶。
そして――迫ってきた鮫の影。
だが、脳裏に浮かんだのは、それだけではなかった。
共に戦ってきた仲間たちの顔。
恐怖に立ち向かう姿。
信じて背中を預けてくれた、あの瞬間。
「……甘いわよ!!」
流水の瞳に、強い光が宿る。
「アタシのオーシャンアーツは、水中でこそ真価を発揮するんだから!!」
脚に魔力を集中させる。
水が彼女の意志に呼応するように、流れを変える。
『流れに乗る』
≪オーシャンアーツ壱の型 流歩≫
「行くわよ!」
水を蹴る。
泳ぐというより、“滑る”ような感覚。
流水の身体は一気に加速し、鮫へと肉薄する。
『蒼海を駆ける一撃!!』
≪オーシャンアーツ壱の技 藍鯆≫
鋭い蹴りが放たれる――が。
「簡単ニハ当タラヌ」
巨体に似合わぬ機敏さで、鮫は身を翻し、攻撃を躱す。
「ちっ……早いわね……」
目で追うのも難しい速度。
水流が乱れ、距離を測るのも困難だ。
それでも、流水は歯を食いしばる。
「でも……アタシもう、小さい頃のアタシじゃない!!」
恐怖を振り切り、精神を研ぎ澄ます。
脚に込めた魔力が、赤く、鋭く染まっていく。
『静かな海に、赤き影――逃げ場はないわ』
≪オーシャンアーツ伍の技 赫鮫≫
一閃。
水を裂くような蹴りが、鮫の側面を捉えた。
衝撃が走り、巨大な身体が大きく揺らぐ。
その隙を、流水は逃さない。
一気に間合いを詰め、ライセンスで鮫に触れる。
「ミゴト……ダ」
低く、どこか満足げな声を残し、鮫の身体は霧となって霧散していく。
水が静まり、擬似空間が元の姿を取り戻す。
「……やっ……やったわ!!」
肩で息をしながら、流水は拳を握りしめた。
恐怖を越えた、その実感が、確かに胸に残っていた。
一方――
墓場のような擬似空間で、癒水は必死に息を整えながら走っていた。
足元にはひび割れた石畳。
傾いた墓標が無数に並び、霧の向こうからは呻き声が絶え間なく響いてくる。
空気は冷たく重く、まるで死そのものが漂っているかのようだった。
「……あせったらダメ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、背後を振り返る。
そこには、人の形をした影――ゾンビの大軍。
「確か……ライセンスを相手に触れさせれば、勝ちでしたよね……」
分かってはいる。
理屈では理解している。
それでも――
「う……ヴァアア……」
腐りかけた喉から漏れる、苦しげな声。
「やっぱり……怖いです!!!」
心臓が早鐘を打つ。
脚がすくみそうになるのを、必死に堪えた。
「……でも、このままじゃ……」
追い詰められた状況で、癒水は震える手を胸元に引き寄せる。
勇気を振り絞り、詠唱を紡いだ。
『集え、水よ
流れて壁となり、命を護れ』
≪水護壁≫
地面から湧き上がった水が、一瞬で厚い壁となり、癒水の前に展開される。
水の膜に阻まれ、ゾンビたちの動きが止まった。
「……これで、少しは時間が稼げる……」
胸を撫で下ろしながらも、癒水はすぐに首を振る。
「でも……防御だけじゃ、勝てない……。攻撃しなきゃ……」
水壁に叩きつけられる無数の手。
衝撃のたびに、壁が揺れ、ひび割れていく。
「……っ」
長くは持たない。
打開策を考えようとするが、恐怖が思考を鈍らせる。
それでも――
癒水は目を閉じ、再び詠唱を始めた。
『静かなる水よ
庭となり、花となり
この身と心を、優しく包め』
≪中級水魔法 メガ・アクア!≫
水の奔流が放たれ、ゾンビたちを飲み込む。
「ギャアアアア……イタイッ!!」
その叫びを聞いた瞬間、癒水の手が止まった。
「……っ」
胸が締め付けられる。
「……やっぱり、私には……」
――その時。
セレナの言葉が、脳裏によみがえった。
――漣癒水……あなたは優しい。
だけどそれは、甘さにもなる。
――それは、戦うならば……
乗り越えなければならない壁なのよ――
「傷つきたくない……でも、傷つけたくない……」
震える声で呟く。
「それが甘えと言われても……やっぱり私は……どうすれば……」
迷いが、心を縛る。
その時――
「……クルシイ……タスケテ……」
ゾンビの声が、直接胸に響いた。
それは敵意ではなく、苦痛そのもの。
命の名残。
救いを求める、か細い叫び。
「……っ」
癒水は、はっと顔を上げる。
「……そうだわ」
涙をこらえ、静かに息を吸う。
「痛みじゃない……
私なりの、やり方で……」
その瞳に、迷いはもうなかった。
『光は慈しみ、水は癒し
痛みも怨嗟も、この流れに溶けてゆけ
邪なる魂を、あるべき輪廻へ還せ――』
≪浄化の聖水≫
柔らかな光を帯びた水が、降り注ぐ。
それは攻撃ではない。
傷つけるための力ではなく――癒すための力。
ゾンビたちの身体から、黒い靄がゆっくりと剥がれ落ちていく。
歪んでいた表情が、次第に穏やかになっていく。
癒水は、そっと一体のゾンビに近づき、ライセンスを触れさせた。
「……ア……アリガト……」
かすれた声。
一瞬だけ浮かんだ、微かな笑み。
そのまま、光となって消えていった。
すべてが静まり返る。
「……どうか、安らかに眠って」
癒水は胸の前で手を組み、深く祈った。
それは戦いであり、同時に――彼女なりの救済だった。
次回 『第88想 魔法試験・最後の関門――越えられぬ過去、越えるべき今(2)』
魔法試験、最後の試練。
仲間たちはそれぞれ、心の奥に刻まれた“恐怖”と対峙する。
「孤独の廊下、幻影との死闘――
郷夜、己の力と恐怖に立ち向かう!
果たして、彼は真の実力を証明できるのか――!?




