第86想 個人戦開幕――試されるのは強さか覚悟か
それぞれが門を潜った瞬間、視界が歪み、足元の感覚が一気に失われた。
次に意識を取り戻した時、そこは現実とは切り離された異空間だった。
どうやら、試練のために構築された擬似空間らしい。
◆◆◆
「……さて、相手は誰?」
一人きりになった流水は、静かに息を整えながら周囲を見渡す。
足元は浅い水面のように揺らぎ、空気はひんやりと湿っている。
辺り一面、白い霧が立ち込め、視界は極端に悪い。
まるで、海の底に沈められたかのような感覚。
――その時。
霧が割れ、水面が大きく波打った。
「……来たわね」
姿を現したのは、異様なまでに巨大な鮫型モンスター。
鋭い輪郭と、こちらを捉えて離さない冷たい眼光が、流水を射抜く。
「嫌な相手……」
幼い頃、海で溺れかけた記憶。
暗い水の中、恐怖だけが膨らんでいったあの日。
海の生き物を愛している流水にとって、
この存在だけは――唯一、心の奥に残る恐怖だった。
「……でも」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「相手にとって不足はないわ!」
震えを気迫でねじ伏せ、流水は正面から鮫を睨み返す。
恐怖を超えられるか、それとも飲み込まれるか。
これは、自分自身との戦いでもあった。
◆◆◆
一方、癒水もまた門を潜った直後、別の空間へと転送されていた。
「……ここは……」
足元は固い地面。
空気は冷たく、どこか澱んでいる。
視界に映るのは、古びた石と傾いた墓標のような影。
「……嫌な雰囲気ですね。墓地……でしょうか?」
胸元に手を当て、慎重に一歩踏み出した、その瞬間。
――ざわり。
周囲の影が、一斉に動いた。
「……え?」
次の瞬間、霧の奥から次々と人の形をした影が現れる。
動きはぎこちなく、目に宿る光はなく、まるで命が抜け落ちたようだった。
「……きゃ……きゃああっ!」
思わず声が漏れる。
「ゾ……ゾンビ……!?」
ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる存在達。
触れられた瞬間、心まで蝕まれそうな、強烈な不安が押し寄せる。
癒水は後ずさりしながら、必死に魔力を集中させる。
◆◆◆
一方、怜花が飛ばされた先は、深い森のような空間だった。
高く伸びた木々が空を覆い、木漏れ日はほとんど差し込まない。
湿った土の匂いと、葉擦れの音だけがやけに大きく感じられる。
「……ここは、森?」
足元を確かめるように一歩踏み出し、怜花は不安げに周囲を見渡した。
どこまで続くのか分からない緑の迷路。
視界の端で、何かが動いた気がして、肩が小さく跳ねる。
「一体、何が出てくるんでしょうか……」
胸に広がる不安を、ぎゅっと飲み込む。
「でも……私も頑張らなくちゃ」
そう自分に言い聞かせた、その直後だった。
「……って、わわわっ!!」
視界の上から、ぬるりとした影が降りてくる。
「く、蜘蛛です!!」
怜花の前に現れたのは、彼女が昔から苦手としている蜘蛛。
しかも、ただの蜘蛛ではない。
人の胴ほどもある巨大な体に、異様に長い脚。
黒光りする外殻が、ゆっくりと蠢く。
思わず後ずさる怜花。
足がもつれ、呼吸が浅くなる。
「……こ、こんなの……」
恐怖が喉を締め付ける。
だが逃げ場はない。
怜花は震える手を必死に抑えながら、魔力を練り始め
己の恐怖と対峙する。
◆◆◆
その頃、郷夜が立っていた空間は、他のメンバーとは明らかに異なっていた。
「……ん?」
見慣れた廊下。
白い壁、規則正しく並ぶ扉。
窓の外には、夕焼けのような色の空。
「……あれ? ここ、学校じゃねぇか?」
首を傾げながら、郷夜は歩き出す。
異空間とはいえ、あまりにも日常に近い光景だった。
「ま、いいか」
肩をすくめ、にやりと笑う。
「オレ様にかかればさ、鬼が出ようと蛇が出ようとへっちゃらだぜ」
これまでの試練を突破してきた経験が、自信となっていた。
多少の相手なら問題ない。
そう思えるほど、心には余裕があった。
――だが。
その余裕は、次の瞬間、容赦なく打ち砕かれる。
「……ほう?」
廊下の先から響いた、冷え切った一言。
「……あ?」
郷夜の背筋に、ぞくりと悪寒が走る。
そこに立っていたのは、
忘れるはずもない存在。
ドライツェン・エクレール先生。
生徒なら誰もが知る、そして誰もが恐れる教師。
「……え」
一拍の沈黙。
「ひええええええ!!」
郷夜の悲鳴が、廊下に反響する。
「蛇は蛇でも先生かよ!? そんなの聞いてねぇって!!」
冗談では済まされない相手。
まさか試練に“先生”が出てくるとは、夢にも思っていなかった。
逃げ場のない空間で、
郷夜の運命は、無情にも教師の視線に捉えられていた。
◆◆◆
燈也が門を潜った瞬間、世界から音が消えた。
次に意識を取り戻した時、そこは命の気配というものが一切存在しない――
完全に無機質な世界だった。
地平も空も区別がつかない。
上も下も曖昧で、ただ白とも黒ともつかない色彩だけが、果てしなく広がっている。
風も、熱も、匂いすらない。
存在しているはずの燈也自身の鼓動だけが、やけに浮いて感じられた。
「……ここは……」
言葉にした途端、その声さえ吸い込まれるように消えていく気がした。
ここは、通常の人間が立ち入ることすら許されない領域。
選ばれた存在、あるいは拒絶された存在だけが踏み込む場所。
――神域。
燈也は、この空間を知っていた。
いや、忘れられるはずがなかった。
「見覚えがある……いや、忘れるわけがない」
それは幾度となく悪夢に現れた世界。
眠るたび、意識の底へ引きずり込まれる場所。
(ここが神域であるなら、俺の相手はおそらく…)
「くくくっ……そりゃそうだろよォ」
静寂を引き裂くように、背後から声が響いた。
忘れるはずがない。
忘れたくても、忘れられなかった声。
「……やはりお前か。天野ッ!!」
振り返った視線の先に、圧倒的な存在感を放つ一人の男が立っていた。
灰色を基調に、白いメッシュが無造作に混じった髪。
切れ長の瞳には理性よりも欲と計算が浮かび、
薄く歪んだ笑みがその性格を雄弁に物語っていた。
学ランの上着をだらしなく羽織り、その下には漢字で「最恐」と大きく書かれたTシャツ。
ふざけた格好のはずなのに、危険な雰囲気を纏っている。
それは、彼が“規格外”である証だった。
「ああ……久しぶりだなぁ」
かつて仲間だった男。
理想を共有し、同じ景色を見て、そして――裏切った存在。
「……不知火ィ」
――天野龍人。
燈也と同じSランク魔法使いで燈也を“相棒”と呼び、
唯一肩を並べられる存在だと信じていた男は、
あの頃と何一つ変わらない、不敵で高慢な笑みを浮かべていた。
「また会えるとはな。しかも――こんな“舞台”でよ」
その瞳が、根源の扉と、そして燈也を同時に射抜く。
燈也にとって、最も避けられない試練。
過去と因縁と裏切り、そのすべてを背負った戦いが今、幕を開ける!
次回予告 『第87想 魔法試験・最後の関門――越えられぬ過去、越えるべき今(1)』
魔法試験、最後の試練。
仲間たちはそれぞれ、心の奥に刻まれた“恐怖”と対峙する。
そして燈也の前に現れたのは、忘れ得ぬ裏切りの男――天野。
果たして彼らは、自分自身を乗り越えられるのか。




