第43想 揺れる記憶、魂の輪舞曲
次の日の朝。
白く曇った空から差し込む光が、校舎の長い廊下をぼんやりと照らしていた。
本番まで、残り三日。
練習に向かうため、燈也とななは並んで廊下を歩いていた――
はずなのだが。
「おーい! 早く練習やるのだ!」
振り返ると、ななはすでに数メートル先。
小柄な体で腕をぶんぶん振りながら、やけに元気いっぱいだ。
「ハハハ、ずいぶん張り切ってるな」
燈也は苦笑しつつ、その背中を追う。
「どっちが先に部屋に着くか勝負なのだ!」
そう言うが早いか、ななは廊下を全力で駆け出した。
「ったく……子供じゃないんだから。おい、走ると危ないぞ!」
注意する声もむなしく、ななはスピードを上げる。
「失礼な! 子供じゃないのだ!!」
ぷりぷり怒りながら走り続け――
「わっ……!!」
鈍い音とともに、小さな体が前方に弾かれた。
「ほらみろ。だから言ったのに……」
燈也がため息混じりに言いながら駆け寄る。
ななは前にいた男子生徒と正面衝突していた。
「いたた……ごめんなさいなのだ」
床に手をつきながら、ななは素直に頭を下げる。
しかし。
男子生徒は、ななを一瞥することもなく――
いや、まるでそこに誰もいないかのように、無表情のまま通り過ぎようとした。
「……おい、待てよ」
違和感に気づいた燈也が、男子生徒の腕を掴んで引き止める。
「いくらなんでも、それはないだろ。謝ってんだぞ?」
声音には自然と苛立ちが混じった。
ふざけているにしては、悪趣味すぎる。
「は? 急に何言ってんだ、お前」
男子生徒は露骨に不機嫌そうな顔で振り返る。
「は? じゃねえよ。女の子がぶつかって、謝ってただろ?」
燈也が、男子生徒に詰め寄る。
だが、次の言葉が――
燈也の思考を凍りつかせた。
「女の子? どこにそんな子がいるんだよ。
俺とお前以外、誰もいないだろ?」
冗談を言っているような口調ではなかった。
本気で、そう信じている目だった。
「なっ……!!」
息が詰まる。
横には、間違いなく――なながいる。
「……ったく。寝惚けてんじゃねーよ」
男子生徒は呆れたように吐き捨てると、呆然と立ち尽くす燈也を置き去りにし、廊下の奥へと歩き去っていった。
その足音が遠ざかっていく中で。
――まさか……こいつもななみのように
胸の奥に、冷たいものが広がる。
――”なな”が、見えていない……?
燈也は、隣に立つななの姿を、無言で見下ろした。
ななを一旦バンドメンバーたちに任せ、燈也は校舎の影に一人足を向けた。
胸の奥に渦巻く違和感が、どうしても拭えなかった。
(何がどうなっている……?)
頭の中で何度問いかけても、答えは返ってこない。
ななが消えかけている――いや、“存在そのものが曖昧になっている”ような、そんな悪寒。
校舎裏を抜け、中庭へと視線を向けた瞬間、燈也は足を止めた。
「……お、あれは?」
そこには見慣れた顔ぶれが集まっていた。円陣を組むように立つ、ななファンクラブのメンバーたち。
「……ファンクラブの奴らか。丁度良かった」
燈也は半ば縋るように、彼らへと歩み寄った。
「不知火? どうかしたのか?」
中心に立っていた男子が振り向く。ファンクラブ隊長の雄介だ。
その声音はいつもと変わらない。
だが、その“いつも通り”が、今の燈也には異様に思えた。
「大変なんだ! ななが……!」
言葉を遮るように燈也は一歩詰め寄る。
「……待て」
しかし返ってきたのは、困惑に満ちた声だった。
「なな、とは……誰のことだ?」
「……!?」
世界が、ぐらりと傾いた気がした。
(――まさか……こいつらも!?)
「お、おいおい! 冗談はやめろよ!」
燈也の声は、自分でも分かるほど上ずっていた。
「ファンクラブまで作ってくれたじゃないか! ななのために!」
雄介はしばらく黙り込み、やがて首を傾げる。
「そう言われてもなぁ……何か勘違いしてるだけじゃないのか?」
そこには嘘も誤魔化しもない、“本気で分からない”という表情があった。
「そんなわけ……ないだろ……」
燈也は唇を噛みしめる。
「頼む……思い出してくれ。ななは、ここにいた。確かに」
必死な訴えは、宙に浮いたまま届かない。
「……すまん」
雄介は視線を横に逸らし、隣に立つ少女へ助けを求めるように声を掛けた。
「如月、分かるか?」
名を呼ばれた愛紗は、少しだけ目を伏せ、考え込む。
沈黙が、やけに長く感じられた。
「……ごめんなさい」
やがて彼女は、小さく首を振った。
「私にも……何のことなのか、分かりません」
その声には、申し訳なさが滲んでいた。
「……そうか」
燈也の肩から、力が抜ける。
「悪かったな……急に変なこと言って」
彼は一歩、また一歩と後ずさり、中庭から距離を取った。
「力になれなくて、申し訳ない……」
雄介の言葉を背に受けながらも、燈也は振り返らない。
「いや……いいんだ」
それだけ言い残し、踵を返す。
去っていく背中を、二人は黙って見送っていた。
「……不知火先輩、急にどうしちゃったんでしょうね」
愛紗がぽつりと呟く。
「分からん……」
雄介は胸の奥を押さえるように、目を伏せた。
「……だが、何故かモヤモヤするんだよな」
言葉にできない感覚。
何か大切なものを、確かに失っているという感触。
「日向先輩も、ですか……」
愛紗もまた、自分の胸に手を当てた。
「実は私も……何か、とても大事なことを忘れているような気がするんです」
中庭には、風の音だけが静かに流れていた。
次回 『第44想 夢の最後まで』
「――世界は、あいつの存在を消そうとしている」
消えゆくなな。消えゆく記憶。
その現実を前に、燈也の意志は、絶望の淵でも光を求める――。
「可能性がゼロでも……俺は、あがいてみせる!」
運命に抗う少年の決意と、誰も知らない真実が交錯する。




