第40想 揺れる哀歌
旧校舎の音楽室は、夕暮れの光が斜めに差し込み、埃の舞う静かな空間だった。
「二人とも、こんな所に何しに来たの?」
鍵盤から手を離したななみが、穏やかな声でそう問いかける。
その表情には警戒も疑念もなく、ただ純粋な好奇心だけが浮かんでいた。
――まさか、本当に……。
燈也は胸の奥がざわつくのを感じながら、柊ななみの視線の先を盗み見る。
そこには確かにななが立っている。少し怯えたように、しかし確実に“存在している”。
――ななの姿が、見えていないのか?
――いや……そんな漫画みたいなことがあるわけない……。
そう自分に言い聞かせるものの、ななみの様子には嘘や芝居の気配が微塵もなかった。
見えていない――その事実を疑う余地が、少しずつ現実味を帯びていく。
「あの……ななみさん、実はここに……」
意を決して口を開いた怜花だったが、
「あっ……」
その言葉は、ななの小さな手によって遮られた。
ぎゅっと、怜花の袖を掴むその力は弱々しいのに、必死さが伝わってくる。
(……話さないで、ってことか)
怜花は一瞬迷い、そして静かに口を閉じた。
「あー……えっとな」
沈黙を破るように、燈也がわざと軽い調子で割って入る。
「ピアノの音が聞こえたんでさ。つい気になってな。
悪い、練習中だったか?」
自分でも苦しい誤魔化しだと分かっていた。
それでも今は、これ以上踏み込む勇気が出なかった。
「あははは。そんなんじゃないよ。別に誰かに聞かせるつもりもなかったし」
その屈託のない笑顔に、燈也は胸の奥がちくりと痛む。
「いい曲だよな。なんて曲なんだ?」
少しでも空気を和らげようと、燈也は話題を繋ぐ。
「『虹のグランツ』……」
その瞬間、ななみの表情が柔らかく変わった。
さきほどまでの明るさとは違う、静かで、どこか切なげな微笑み。
「亡くなった妹がね、好きだった曲なの。
よく一緒に聴いてたんだ」
音楽室の空気が、そっと重くなる。
――そうか……。
燈也の脳裏に、ななが以前、小さな声で口ずさんでいた旋律がよみがえる。
――同じ曲だ……。
「妹と……仲が良かったんだな」
自然と、声が低くなった。
「うん……」
ななみは小さく頷く。
「でも、最後はケンカしちゃったままでさ。
だから……妹には、恨まれちゃってるかもしれない」
笑っているはずなのに、その目の奥には深い寂しさが滲んでいた。
「そんな……!」
思わず、怜花が声を上げる。
「恨んでるなんて……絶対にありませんよ!」
その言葉は、ななみではなく――
まるで、ななの心を代弁するかのようだった。
ななは怜花の隣で、じっと唇を噛みしめている。
「れいちゃん……」
ななみが、少し驚いたように怜花の名を呼ぶ。
「そうだぜ」
燈也も、力強く続けた。
「仲が良かったんだろ?だったら、恨むなんてこと……あるわけねえ」
一瞬、ななみは言葉を失ったように目を伏せ、
それから――ほんの少しだけ、救われたような顔で微笑んだ。
「……二人とも、ありがとう」
ななみはそう言って、静かに頭を下げた。
その声には、ほんのわずかな震えが混じっている。
「なんでかな……」
顔を上げ、どこか懐かしむように微笑む。
「二人の言葉を聞いていたらね。
妹も……同じことを思ってくれてるような気がするんだ」
淡く笑いながら、ななみは遠くを見る。
そこにあるのは、この音楽室ではない、過去の光景なのだろう。
「……あの時に戻れるなら、仲直りしたかったな……」
ぽつりと零れた言葉は、夕暮れの静けさに溶けていった。
「その……」
燈也は一拍置いてから、慎重に口を開く。
「ケンカした理由って、なんだったんだ?
よかったら、聞かせてくれないか」
ななみは一瞬だけ迷うように視線を落とし、
それから、覚悟を決めたように息を吸った。
「……今思えば、本当に他愛のない理由だったと思う」
静かな声で、ななみは語り出す。
「ある日ね、妹がうっかり……私のCDを壊しちゃったの。
それが、全部の始まり」
ななみの指先が、無意識にピアノの縁をなぞる。
「ちょうどその頃、コンサートの発表が近くて……
練習も忙しくて、気持ちに全然余裕がなかった」
自嘲するように、小さく笑った。
「だから、つい感情的になって……喧嘩になっちゃった」
音楽室に、重い沈黙が落ちる。
「コンサートが終わったら謝ろう、って……
本気でそう思ってたんだよ」
しかし――。
「でも、会場に向かってた妹と父が乗っていた魔導艇が……墜落して」
その言葉を口にした瞬間、ななみの声がかすかに掠れた。
「それで……もう、二度と会えなくなった」
燈也は息を呑む。
怜花も、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
「最初は信じられなかったし……
ショックで、しばらく入院してたしね……お母さんもまだ……」
表情は見えない。
だが、その背中から伝わってくる痛みは、あまりにも生々しかった。
ななもまた、その空気を感じ取ったのか、胸の前で手を握りしめ、
苦しそうに俯いている。
「……大変だったんだな」
燈也の声は、自然と低くなった。
「まぁね」
ななみは振り返り、どこか無理をしたような笑顔を浮かべる。
「でも、大丈夫だよ。
いつまでも落ち込んでるわけにはいかないし」
そう言いながらも、その笑みはどこか儚い。
「……それでも」
吐息のように小さく呟く。
「一言だけでも……謝りたかったなぁ……」
簡単に割り切れるほど、浅い悲しみではない。
その想いが、燈也の胸にも痛いほど伝わってきた。
「ななみ……」
――このままで、いいはずがない。
――後悔と想いが、すれ違ったままなんて。
次回 『第41想 繋ぐ音色――胸の奥の約束』
夕暮れに染まる校庭。
静かに息を整える三人の前に、過去の迷いと後悔が影を落とす――。
「……俺はお前を信じる」
胸に芽生えた想いを抱きしめ、二人は決意を固める。
信じる力が、止まった時間を動かす。
すれ違った心、胸の奥の約束――
次回、三人の絆が奏でる、新たな音色が響く。




