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特訓



「無効化か。……なんてことだ」


 数日後、緊急の報せを受けてポルトへ駆けつけたリリアの父は、報告を聞くなり執務机に両手をつき、深々と頭を抱えた。

 その顔には、隠しきれない驚きと深い困惑が入り混じっている。


「お父様、そんなに珍しい力なのですか?」


 同席していたルカが不思議そうに首をかしげると、父は苦笑いしながらも、これまでにないほど真剣な面持ちで二人を見つめた。


「珍しいどころではないよ。あらゆる魔法現象を『なかったこと』にする無効化は、歴史書にすら数例しか記述がない古代の力だ。……もしこれが知られれば」


 父は苦しげな表情を浮かべる。


「国中の魔法学者が研究対象として私を囲い込み、王家や他国も『最高の盾』として、あるいは『最凶の天敵』として放っておかないでしょうね」


「あぁ……」


 父は椅子から立ち上がり、リリアの肩にそっと手を置いて声を落とした。


「リリア。お前の平穏を守るためにも、この力は隠し通さねばならない。『平凡な魔法使い』を装うんだ。いいかい、それが自分自身と、そして大切な者たちを守ることにつながる」


「はい、お父様。……皆を困らせたくありませんもの」


「だが、この力はリリアを守ってくれる。力を磨き、完全に隠蔽できるようになるのが理想だ」


 リリアは真っ直ぐに父を見返し、素直に頷いた。あの二人のためにも、自分が新たな政争の火種になるわけにはいかない。


 ただ、リリアの胸の奥には、一つだけ解けない違和感が残っていた。ルカを救ったあの瞬間、何かを消し去る感覚だけでなく、自分の願いが世界を無理やり押し広げるような、爆発的な「熱さ」を感じたのだ。


(あれは、無効化の反動かしら……?)


 リリアは父の言葉を素直に受け取り、「無効化」という名前だけを深く胸に刻み込んだ。




 * * *




 ポルトの穏やかな陽光と潮風の下で、リリアは訓練に明け暮れた。

 父が極秘裏に招いた師は、王宮魔法騎士団の元実力者、ガゼル。


「お嬢ちゃん、ここは公爵家の土地だ。カモメと魚以外に、あんたの魔法を見る奴はいない。加減はやめだ、全力でぶつかってきな!」


 ガゼルが杖から放ったのは、巨大な炎の塊だった。魔法騎士団の猛者が放つそれは、触れれば岩をも溶かす熱量を孕んでいる。


「……はい、先生!」


 リリアは翡翠の瞳を鋭く光らせ、真正面からその火球へと手をかざした。


(止まれ、消えろ、無に帰れ……!)


 ――キィン。


 世界から音が消える。リリアの掌から放たれた無色の波導が火球に触れた瞬間、猛火は一瞬にして霧散し、熱気さえも残さず「無」へと還った。


 座学と実践を繰り返し、移住して一年が過ぎた頃、ガゼルが「魔力制御の極致を見せてやる」と一人の青年を連れてきた。

 抜けるように白い肌に、夜の帳を溶かしたような艶やかな黒髪。吸い込まれそうな黒い瞳。彼はこの国では珍しい、東の国の民族衣装に身を包んでいた。


「……ハクと申します。リリア様、貴女のその『溢れすぎる力』、私がお手伝いしましょう」


 ハクは涼やかな声でそう言い、指先一つで海の水を一滴すくいとると、一切の揺らぎなく空中に留めてみせた。その緻密で無駄のない魔力制御は、リリアにとって驚嘆の対象だった。


「リリア嬢、ハクの制御は俺より数段上だ。こいつの技術を盗みな」


 ガゼルの言葉通り、ハクとの特訓は静謐でいて過酷だった。ハクはその長い指先でリリアの魔力の流れを優しく、的確に整えてくれた。


「リリア様は、優しすぎるのです。その願いが、意図せず世界を押し広げてしまう。まずは、ご自身の心を凪にすることです」


 ハクの淡々とした、けれど温かな指導のおかげで、リリアは自らの力を内側に封じ込める術を学んでいった。

 ある日、リリアは浜辺に素足で立ち、大地の魔力を肌で感じながらガゼルとの実戦訓練を早朝から行っていた。


「己の限界を知ると、さらに器が広がる! これはどうだ!」


 ガゼルの咆哮とともに、容赦なく撃ち放たれる炎の剛球。リリアはそれを一つ一つ、確実に「無」へと帰していく。単純だが、精神を削る過酷な訓練だった。


 やがて、リリアは次第に自分の中に異常な「熱」を感じ始める。無効化しきれなかった余剰エネルギーが、制御不能な熱量となって体内を駆け巡り始めたのだ。


「あ……」


 視界が白く染まる。膝の力が抜け、砂浜に崩れ落ちそうになったその時。


「リリア様!」


 珍しくハクが慌てた声を上げた。

 気がつけば、リリアは砂の上に倒れ込む直前で、ハクの腕の中に抱きとめられていた。


「失礼いたします」


 ハクの低い、落ち着いた声が耳元で響く。

 次の瞬間、彼はリリアを壊れ物を扱うように、けれど力強くその胸へと抱きしめた。


「は、ハク……さま……?」


 リリアの体温は、自身の魔力の暴走で火傷しそうなほどに上がっていた。しかし、ハクの体はひんやりと冷たく、彼に触れられた場所から、驚くほど澄んだ魔力が流れ込んでくる。


「じっとしていてください。貴女の熱を、私が整えます」


 ハクはリリアの背中に手を回し、自身の精密な魔力を彼女の体内へと浸透させていく。それは、荒れ狂う海を鎮める静かな月光のような魔力だった。

 ハクの完璧な制御技術によって、リリアの中で膨れ上がっていた魔力の熱が、少しずつ、けれど確実に解きほぐされ、本来あるべき場所へと収まっていく。


 ドクン、ドクンと早まっていた鼓動が落ち着きを取り戻す。

 密着したハクの胸の鼓動と、東の国の香油のわずかな匂いが、リリアの意識を現実へと繋ぎ止めた。


「……もう、大丈夫です。おさまりましたよ」


 ハクがゆっくりと腕の力を緩め、リリアの顔を覗き込む。

 リリアの肌の赤みは引き、翡翠の瞳にはいつもの静かな光が戻っていた。


「ありがとうございます、ハク様。……助かりました」


 リリアが少し照れくさそうに微笑むと、ハクはいつもの無表情な仮面を戻したが、その黒い瞳には、抱きしめた時に感じた彼女の命の熱さが、消えない残像として焼き付いていた。

 遠くで見守っていたガゼルが、やれやれと首を振る。


「熱に当てられるのは魔力だけにしときな、リリア嬢」


 そんな師のからかいに、リリアは今度こそ顔を赤くして、ハクの胸からそっと離れるのだった。



 * * *



 十五歳を迎え、王都へ戻る日が近づいたある日の夕暮れ。

 リリアの内側に眠る膨大な魔力は、かつての危うさが嘘のように、凪いだ湖面のごとく静まり返っていた。

 師であるガゼルとハクから「これならば学園でも申し分ない」とお墨付きをもらったその日、ハクは静かに別れを切り出した。期限付きで東の国から派遣されていた彼の役目は、これで終わったのだという。


「リリア様。貴女の力は、感情と密接に結びついています。王都へ戻れば、心が揺れることも多いでしょう」


ハクはそう言うと、懐から一つ、不思議な光沢を放つ腕輪を取り出した。東の国に伝わる「秘銀ミスリル」を用い、幾重もの細かな紋様が刻まれた美しいブレスレットだ。


「これは、我が国に伝わる魔封じの石を組み込んだものです。魔力が溢れそうになった時、これが一時的にその余剰分を肩代わりしてくれます」


 ハクはリリアの手をそっと取り、その細い手首に自らブレスレットを嵌めた。冷たい金属の感触が肌に触れた瞬間、リリアの全身を巡っていた魔力が、心地よい重さでスッと収まるのを感じる。


「これは私からの……いえ、東の国からの餞別です。どうか、肌身離さず」


「ハク様……。ありがとうございます。大切にしますわ」


 リリアが微笑むと、鉄面皮とまで言われたハクの口元が、わずかに、本当にわずかに綻んだ。

 リリアは胸が熱くなるのを感じた。訓練は過酷で、彼自身のプライベートを知る機会はついになかったけれど、そこには確かに師弟を超えた絆があったのだ。

 リリアは用意していた小さな包みを差し出した。


「お世話になりました、ハク様。これ……道中の無事をお祈りして、作りましたの」


 中身は、東の国の国花である『白蓮』を、翡翠色の糸で丁寧に刺繍したハンカチだった。

 ハクはそれを手に取ると、まじまじと見つめたまま、凍りついたように動かなくなった。


「これは……リリア様、貴女が?」


「ええ。ハク様をイメージして、心を込めて縫いましたわ」


 ハクの視線が、ハンカチとリリアの間を何度も往復する。東の国において、高貴な女性が国花を刺繍した布を贈るということが何を意味するのか――リリアは知る由もない。ハクの瞳には、戸惑いと、言葉にできない熱い色が混じり合っていた。


「……リリア様。このようなものは、今後、心から親しいと定めた者にのみ、お渡しになるように。……勘違いする者が、出ます」


「? ……ええ、もちろんですわ。ハク様は、私にとって大切な師ですもの」


 その無垢な言葉に、ハクは何かを飲み込むようにして深く一礼し、風のようにポルトの地を去っていった。

 後ろでガゼルが笑いを堪えていたせいで、去り際のハクの耳が、わずかに赤らんでいたことにリリアは気づかなかった。

 ハクが去った後の邸は、ひっそりとした静寂に包まれていた。

 手首のブレスレットをなぞり、もう隣に厳格な頼れる師がいない寂しさを噛み締めていた、


 そんなある日のこと。

 沈んでいた空気を一変させるように、立て続けに数通の便りがポルトへ届けられた。

 差出人の名を見た瞬間、リリアの翡翠の瞳がぱっと輝きを取り戻す。


「お父様、ノルン……エリオット様、それにサリーナまで!」


 封筒に記された懐かしい筆跡の数々。

 そこには、王都の政争の合間を縫って、大切な家族と友人たちがこのポルトへとやってくることが記されていた。

 最後に会ったあの日から、何年も経っている。


 ノルンも、エリオットも、きっともう「少年」ではないだろう。

 サリーナはどれほど美しくなっているだろう。

 

「ルカ、みんなが来るわ! 準備をしましょう!」


 遠く、潮騒の向こうから懐かしい足音が聞こえてくるような気がして、リリアの胸はかつてないほどに高鳴っていた。

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