ルミナスの星
二人の青年と出会った日の、少し熱を帯びた記憶が胸に残ったまま——
季節は、初夏の気配を濃くしはじめていた。
そんなある朝、リリアの部屋の扉が軽く叩かれた。
「リリア様、お届け物です」
侍女が差し出したのは、白い封筒だった。
金糸で縁どられた、清らかな月の紋章。誰のものかは、見ただけでわかる。
(エリオット様……?)
あの日の出来事を思い出し、胸の奥がきゅっとする。
そっと封を切ると、流れるような美しい文字が目に飛び込んできた。
『“初夏の観測会”へのご招待。もしよければ、あなたにも夜空を見に来てほしい』
丁寧で、それでいてどこか親しさが滲む文面。読み終えた瞬間、頬がほんのり温かくなる。
「……どうしましょう」
呟いたそのとき。
コン、コン。再び扉が鳴った。
開けた侍女が、今度は気まずそうに、もう一枚の封を差し出す。
「た、たびたび失礼します。今度はこちらを……」
淡い青の封筒。けれど、封蝋は雑で、端には折られた跡がある。
差出人は——ノルン。
中には、短く走り書きがあった。
『観測会、来るよな? 別にお前がいなくても構わないけど、暇なら来い』
言葉は素っ気ない。けれど、紙の端には微かに指の力がこもった跡が残っている気がした。
リリアは思わず息を止めた。胸がざわつき、何度も二つの招待状を見比べる。
(同じタイミング……)
きっと、偶然ではないのだろう。
彼らの親たちが裏で糸を引き、同時にリリアへ接触を図らせたのだ。
その夜、リリアは深夜まで机に向かっていた。
エリオットからの月の封書。ノルンからの、走り書きのような青い封書。
どちらか一方の誘いに乗れば、それは「ロゼッタ公爵家がどちらの派閥に付くか」を宣言するのと同じ。
王位継承権を持つ二人の少年の間で、自分の行動一つが国の勢力図を塗り替えてしまう。
――私は公爵令嬢。安易に動いてはならない身。
リリアは筆を執り、覚悟を込めて二人に宛てて同じ内容の返信を書いた。
『三人でなら、喜んでお伺いいたします』
それは、精一杯の防衛線であり、そして彼らへの誠実さでもあった。
* * *
観測会の夜。
リリアは鏡の前で、深い夜空色——ミッドナイトブルーのドレスに袖を通していた。
華美な装飾は控えめに、けれど生地の上質さが月明かりに映えるような、落ち着いた仕立て。派手すぎず、かつ公爵令嬢としての品位を損なわない一着だ。
リリアの薄紫の髪と深い翡翠の瞳が美しく引き立っている。
最後の支度を整えていると、部屋の扉がノックされ、リリアの父が入ってきた。
「……リリア、準備はできたか?」
父の声はどこか落ち着きがない。部屋に入ってくるなり、腕を組んでリリアの姿をじろじろと検分する。
「まあ。お父様、そんなに怖い顔をして。どこかおかしなところがありますか?」
「おかしくはない。……いや、似合いすぎているのが問題だ」
父は眉間にしわを寄せ、わざとらしくため息をついた。そして、ドレスの襟元を指先で少しだけ摘まむふりをする。
「首元が、少し寒くないか? もう一枚、何か羽織ったほうがいいんじゃないか?」
「お父様、これはこういうデザインですわ。それに、お母様からショールも借りる予定です」
「むぅ……」
父は唸り、落ち着かない様子で部屋の中を少し歩き回る。
以前、王城から帰る馬車の中で「どちらが好みか?」などと楽しげに聞いてきた時とは大違いだ。
「いいか、リリア。今夜会うのは、王家の血を引く男たちだ。隙を見せれば何を言いくるめられるか……」
そのあまりの剣幕に、リリアは思わずくすりと笑ってしまった。
「お父様。先日、私に『どちらが良いか』と楽しそうに聞いてらしたではありませんか。エリオット様との顔合わせを画策されたのも、お父様ですよね?」
痛いところを突かれた父は、ぐっと言葉に詰まる。
だがすぐに、むきになったように言い返した。
「それは『将来の可能性』としての話だ! いざこうして、夜に娘が男の元へ出向くとなると話は別だ!」
父は拳を握りしめ、力説する。
「男というのはな、リリア。夜の星空の下などというシチュエーションにおかれると、ろくなことを考えない生き物なんだ! 特にあのヴァルディアン家の息子など、見るからに強引そうじゃないか。第一王子だって、優しそうな顔をして何を考えているか……」
「あなた、落ち着いてくださいな」
父の熱弁を遮るように、母が柔らかな笑みを浮かべて入ってきた。手には、銀糸の刺繍が入ったショールを持っている。
「見苦しいですよ。自分でお膳立てしておいて、いざとなるとオロオロするなんて」
「オロオロなどしていない! 私はただ、公爵家当主として、娘の護衛体制に不備がないかを確認してだな……」
「はいはい。当主様の心配性はいつものことね」
母は呆れたように笑いながらリリアの肩にショールをかけ、優しく背中を撫でた。そして、鏡越しに娘と目を合わせる。
「リリア。お父様がああ言っているのは、あなたが大切で仕方がないからよ。……『お嫁に行かせたくない』と『良い家に嫁がせたい』の間で、心が千切れそうなのね」
「なっ……! ち、千切れそうになどない!」
図星を指されたのか、父は顔を赤くしてそっぽを向いた。
その背中がいかにも拗ねている子供のようで、リリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ふふ……ありがとうございます、お父様。ご心配には及びませんわ。私はただ、友人として星を見に行くだけですもの」
リリアがそう言って微笑むと、父はばつの悪そうにこちらを振り返り、一つ咳払いをした。
「……うむ。わかっているならいい」
そう言って、父はリリアの前に立つと、不器用な手つきでリリアの髪を少しだけ直した。
「……あまり、遅くなるなよ。もしだ、何か変な気を起こされそうになったら、すぐに私の名を出しなさい。衛兵ごと飛んでいく」
「はい。頼りにしております」
父の、矛盾だらけの不器用な愛。
それをしっかりと受け取り、リリアは深く一礼した。
「では、行ってまいります」
部屋を出ていくリリアの背中を、父はやはり心配そうに、けれどどこか誇らしげに見送っていた。
残された部屋で、母が「やれやれ」と笑う声が、廊下まで小さく響いていた。
夏の夜風が心地よい。
リリアは、王城の高台へ続く階段を一歩一歩上がっていた。
白い観測塔が月明かりを受けて淡く光っている。
その入口で、誰かが待っていた。
金の髪を夜の風に揺らし、蒼い瞳でこちらを見つめる少年。
「——来てくれたんだね、リリア」
エリオットだった。優しい声音が、夜の始まりを告げるように響く。
……その、少し後ろ。柱の影で腕を組み、不満げな琥珀の目をした少年がこちらを見ている。
「遅い」
ノルンだった。
「……三人か。お前らしいな、リリア」
ノルンが夜空を仰いだまま、鼻で笑う。
エリオットもまた、困ったような、けれどどこか安心したような微笑を浮かべている。
「でも、おかげでこうして集まれた。感謝しているよ、リリア」
初夏の観測会は、こうして静かに幕を開けた。
観測塔の上階は、夜風が心地よく吹き抜けていた。
高く開かれた天窓から、無数の星が降るように瞬き、三人の影を床に長く落としている。
「この星なんだけどね」
エリオットがそっと指を伸ばす。
南の空、他より少しだけ淡く、けれど凛と光る星——ルミナス星。
「王城では昔から言われてる。あの星に、心を込めて願うと……願いが、いつか必ず叶うって」
「……迷信だろ」
ノルンが腕を組んだまま、そっぽを向く。
「そうかもしれない」
エリオットは否定せず、穏やかに笑った。かつて、まだ「公爵令嬢」や「王子」という肩書きが今ほど重くなかった幼い頃、彼らはこの場所で星を見たことがあった。
「……あの頃は、もっと単純だったな」
ふと、ノルンが低い声でこぼした。
「ああ。あの時は、ただ『強くなりたい』とか『美味しいお菓子を毎日食べたい』とか、そんなことを真っ直ぐに願えたのに」
エリオットの言葉に、リリアは胸がちくりと痛むのを感じた。
「今は……もう、何が自分の『本当の願い』なのか、わからなくなっている。親の期待か、臣下の望みか。それとも、自分自身が求めているものなのか……」
エリオットの静かな呟きを、ノルンが冷たく切り捨てる。
「相変わらず綺麗事だな、エリオット。何が『わからない』だ。お前はただ、優等生の仮面を被って、誰も傷つけずにすべてを手に入れたいだけだろう?」
「……ノルン、君こそ。反抗的な態度で周囲を威嚇していれば、自分の孤独が隠せるとでも思っているのかい?」
「なんだと? 媚びへつらう奴らに囲まれて悦に浸っているお前に、言われたくないな」
毒を含んだ言い合い。かつての「遊び相手」だった関係は、今や政治的な競合相手としての鋭さを帯びている。
しかし、その言葉の端々には、互いの本質を理解しているからこその「甘え」のようなものも混じっていた。
「やめてください、お二人とも」
リリアが静かに、けれど毅然とした声で割って入った。
その声には、不思議と場を鎮める力が宿っているようだった。
「ここにいるのは、親に命じられた『公爵家の子息』ではありません。私に招待状を送った、私の知人であるはずです」
二人は毒気を抜かれたように、同時に口をつぐんだ。
リリアの凛とした態度が、二人の間に漂うとげとげしい空気を中和していく。
「……悪かったよ」
ノルンが気まずそうに目をそらす。
「ごめん。……君の前で醜態を見せてしまったね」
エリオットも、いつもの穏やかな王子に戻った。
リリアは夜空に輝く、ひときわ淡く、けれど気高い星――ルミナス星を指差した。
「では、お二人のあの日と同じように、願いましょう。誰の思惑でもない、私たちの願いを」
「じゃあ、三人で同じ願いにしようか」
エリオットが提案する。
「同じ……?」
リリアが小さく声を上げる。
「うん。三人で。違う願いだと、星が迷うらしいから」
「なんだそれ」
ノルンはそう言いながらも、視線は素直に星へ向いていた。
一瞬、三人の間に沈黙が落ちる。
「……願いの内容は?」
リリアは胸に手を当て、ゆっくり息を整えた。
派閥も、家柄も、将来の争いも、すべてを超えて。今、この瞬間にある絆だけは。
「——“大切なものを、失わないでいられますように”」
ノルンが僅かに目を細める。
「……甘いな」
そう言いながらも、否定はしなかった。
「でも、悪くない」
エリオットが静かに頷く。
「うん。じゃあ、それでいこう」
三人は、並んで星を見上げる。
言葉にせず、心の奥で、同じ願いを結ぶ。
その瞬間——
ふわり、と空気が揺れた。
星の光が一瞬だけ強まり、観測塔の床に、淡い光の輪が浮かび上がる。
「……今の、見たか?」
ノルンが低く呟く。
「あぁ」
エリオットの声は、どこか確信を帯びていた。
リリアの胸元が、ほんのりと温かい。
何かが、確かに刻まれた。
今はまだ、小さく、静かな魔法。
けれど——いつか、この星の願いが、三人を守るために応える日が来る。
そんな予感だけが、夜空に残っていた。




