王城へ2
歴史書と魔法書は従者が抱え、リリアは歩調をそろえながら外廊下へと向かっていた。
白い石畳に午後の光が差し込み柔らかな道を描き出す。
その静けさを破ったのは、軽やかな早足の音だった。
——コツ、コツ、コツ。
「……ノルン様?」
思わず振り返ったリリアの声は、そのまま喉の奥で止まった。
そこにいたのは、見覚えのない少年だった。
陽を受けて金糸のように揺れる髪。
深い湖を思わせる澄んだ蒼の瞳。
白い外廊下の光景に紛れながらも、そこだけ色を変えるほどの存在感。
少年は、呼び間違えられたことを気にするでもなく、どこか寂しげに口元を緩めた。
「ノルンが良かったかな……?」
風の音に染み込むような、柔らかな声だった。
「い、いえ……。早とちりをしてしまいました」
リリアはうつむくと、少年は軽く微笑む。
「もっと早く来たかったんだ。君が本を借りているって聞いて……急いだんだけど、なかなか抜けられなくてさ」
「え……?」
戸惑うリリアに、少年は苦笑しながら従者の抱える本に視線を移した。
「歴史書と魔法書。うん、いい組み合わせだ。
——僕もその棚、よく読んでるよ。手を伸ばすたびに新しい出会いがある」
「本、お好きなのですか?」
「大好き。特に歴史書の、静かな熱が好きだな。
魔法書は……読むほどに想像が膨らむから、ちょっと危ないくらい」
少年の笑みは光をまとって揺れ、髪先がそよ風にかすかに踊った。
「ねえ、もしよかったら……少し散歩しない?
ちょうど今、庭園にこの季節だけ咲く花があって。君の髪色に似ていて、とても綺麗なんだ」
真っ直ぐに向けられる蒼の瞳に、リリアは返事を飲み込めなくなった。
「……少しだけ、なら」
「よかった」
少年が安心したように息を吐き、リリアの横へ並ぶ。外廊下を抜けると、ふわりと外気が流れ込み、花の香りが薄紫のように漂った。
「ほら、あれだよ」
指さした先には、淡い薄紫の小さな花が咲いていた。
花弁は細く繊細で、陽光を反射するたびに光の粒を散らすように揺れる。
「本当に……私の髪色に、似ていますわ」
「でしょ? この花、王宮の中でもこの一角にしか咲かないんだ。
魔力を帯びているって言われていて……触れる人によって、花の色味が変わるって噂もある」
「そんな特別な花だとは……知りませんでした」
「ふふ、特別なのは、花だけじゃないかな」
少年の声が少し低くなった。
リリアがきょとんと見返すと、彼はふいに視線をそらす。
「……あ、その……今日、君に会えたことも、ね」
その横顔に、ほんのり赤みが差した。
子どもと大人の中間のような、まだ不器用な照れ方が愛らしくて、リリアの胸がくすぐられる。
「ねえ、リリア」
名を呼ばれ、リリアははっと顔を上げる。
「また……会える?」
蒼の瞳は真っすぐで、ほんの少しだけ不安を宿していた。その不安を払うように、リリアは穏やかに微笑む。
「ええ……よろしければ」
「……よかった」
安堵の息が彼の胸から抜けていく。
本気でほっとしている気配が伝わり、リリアの胸の奥が温かくなった。
「じゃあ、今度は——」
そう言いかけた少年の横顔を見つめた瞬間、リリアはふと違和感に気づく。
陽を受けて輝く金の髪。
澄みきった蒼の瞳。
纏う気品、歩き方、どこか陰のある微笑み。
——まさか。
「……もしかして。あなたは……エリオット様、でしょうか?」
名を告げた途端、少年は驚いたように目を丸くした。そして、照れ隠しのように口元を緩める。
「正解。僕は……エリオット・カリオン」
その声は、先ほどよりわずかに大人びていて、二人の距離がほんの少しだけ縮まったように感じられた。
——エリオット・カリオン。
改めて名を告げられた瞬間、リリアは小さく息を呑む。金の髪、蒼の瞳。王家の血を象徴する色。
彼は、現王と王妃の二人の息子のうちの一人。そして王位継承権を持つ、第一王子。
けれど、その姿は公にほとんど現れず、人々が知るのは噂ばかりという、掴みどころのない存在。
そんな人物が今、目の前で光をまとったような微笑みを浮かべている。
「驚かせちゃったかな?」
エリオットは照れたように金の髪をかき上げ、気取らない柔らかさを纏った笑みを見せた。
「でも……今日は、ただの“僕”として話したかったんだ。肩書きより、君に知ってほしいことがたくさんあるかから」
その声音は、まっすぐで……少しだけ寂しさを含んでいた。
——肩書きより、僕を。
リリアの胸の奥に、静かに火が灯る。
王子という立場の人間が、自分に同じ目線で話している。
距離を置くでも、威圧するでもなく……
むしろ彼のほうが一歩、自分の世界に近づこうとしているような。
「あの……そんなふうに言っていただけるなんて……」
リリアが言いかけると、エリオットはふっと微笑んだ。
「なぜだろう。君と話していると、不思議と息がしやすいな」
その眼差しは、年相応の少年らしい無邪気さと、
背負うものを抱えた者特有の深さの両方を湛えていた。
「だから……もう少しだけ、一緒に歩いてくれる?」
淡い薄紫の花が風に揺れ、
光が二人の足もとに柔らかく降り積もる。
リリアは自然と、微笑みを返していた。
「ええ。喜んで」
その瞬間、エリオットの横顔が陽に照らされ、
どこか安堵したようにほころんだ。
* * *
「そろそろ戻らないといけない頃合いかな」
エリオットが空を仰ぎ、庭園に落ちる光の角度を確かめるように言った。陽はまだ高いところにあるが、午後の空気にはゆっくりと夕方の気配が混じり始めている。
「君のお母様をお待たせしてしまうといけないしね」
差し出された手は、特別な意図を押しつけるようなものではなく、ただ丁寧で、自然体で、温かかった。
「……ありがとうございます」
リリアがそっと手を添えると、エリオットの指先がわずかに震え、次の瞬間には包み込むような優しさに変わった。
二人は並んで庭園を抜け、白い外廊下へ戻っていく。
歩幅は、エリオットがリリアに合わせてくれているのだろう。先ほどよりも、歩みがゆったりと穏やかだった。
「さっきの花、気に入ってくれた?」
「はい……とても綺麗でしたわ」
「薄紫を見ると、これから君のことを思い出すかもしれない」
からかい半分にも聞こえるし、真剣にも聞こえる声。リリアは思わず視線を落とし、胸がほんのり熱を帯びる。
そんな彼女を、エリオットは横目にそっと見て、
何かを守るような柔らかい微笑みを浮かべた。
廊下の角を曲がった瞬間、ガラス越しに
王妃とリリアの母、そしてもう一人の上品な女性が談笑している姿が見えた。
「着いたね」
エリオットはリリアの手を離す前に、ほんの一瞬だけ力を緩めた。名残惜しさが滲む、控えめな仕草。
そして扉の前に進み出ると、先に姿勢を整えて挨拶をする。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
その声は、庭園で見せていた“年相応の少年”とは違い、王宮の第一王子としての気品と落ち着きをまとう声だった。
王妃は穏やかに目を細める。
「いいのですよ。あなたがご一緒してくださったのなら、むしろ安心ですわ」
丸卓を囲むのは、王妃、リリアの母、
そして見知らぬ女性——深い青のドレスを纏った、ヴァルディアン公爵夫人。
その優雅な姿は、纏う空気までも洗練されているようだった。
リリアが近づくと、三人の視線がふわりと彼女に集まった。
「ただいま戻りました、王妃様……お母様」
リリアが小さく頭を下げると、王妃が微笑む。
「おかえりなさい、リリア。エリオットがご一緒してくれたのですね」
エリオットは静かに会釈し、王妃の隣へと控える。
その横で、深青のドレスの婦人がゆったりと立ち上がった。
「リリアさんが幼い頃に一度お会いしたことがありましたのよ。私はノルンの母、ヴァルディアン公爵夫人ですわ」
柔らかくも芯のある声だった。上質な絹布のように品位があり、存在そのものが空気を整える。
「ノルンとは……お会いになりまして?」
「はい、先ほど少しだけ……」
リリアが丁寧に答えると、公爵夫人は目元を和らげる。
「あの子は好奇心が旺盛ですから。幼いながら吸収が早いのです。リリアさんも勉学に励まれると聞いておりますよ」
「そ、そんな……わたくしなんてまだまだで……」
慌てて頭を下げるリリアに、公爵夫人は満足そうに微笑んだ。
その様子を静かに見つめていた王妃が、ふと視線をエリオットへと向ける。
「素晴らしいわね」
王妃はにこやかに、けれどどこか確信めいた響きを含んで言葉を続けた。
「エリオットとノルンは、互いに刺激し合って成長しているわ。いずれ王家とヴァルディアン家を担う者同士……従兄弟として、これからも仲良く手を取り合っていってほしいものです」
その“未来への期待”を含んだ声音に、公爵夫人も優雅に頷く。
「ええ、王妃様。あの子たちが並んで立つ日が楽しみでございますわ」
——従兄弟。
——並んで立つ日。
母親たちの視線が、自然な雑談の延長のように見えて……どこか探るようにリリアへと向く。
リリアは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
ノルンとエリオット。
ふたりの母の微笑みは優雅で穏やか——なのに、どこか意図を覆い隠しているように思えてしまう。
エリオットはそんなリリアのわずかな緊張を感じ取ったのか、横目でそっと彼女の表情をうかがった。
王子としての落ち着いたまなざし……けれど、そこには気遣うような柔らかさも宿っている。
けれどリリアには、今はその視線に応える余裕すらなかった。
その時。
「では、そろそろお暇いたしましょうか、リリア?」
静かに見守っていた母の声が、澄んだ鈴のように響いた。
「……はい、お母様」
リリアは深く礼をし、王妃、公爵夫人、そしてエリオットへ丁寧に辞儀をして、その場を後にした。
* * *
柔らかく揺れる馬車の中、窓の外を夕暮れの光が流れていく。城の喧騒が遠ざかるほどに、胸の奥の緊張が静かにほどけていく気がした。
「リリア、二人と会って……どう思われたかしら?」
母が穏やかな微笑みを浮かべ、問いかける。
“二人”がノルンとエリオットのことだと、リリアにはすぐ分かった。
「ええ……お二人とも、まったく違うお人柄でしたけれど……
どちらも強い志を抱かれた方だと感じましたわ」
「そう。そう思ったのなら良かったわ」
母が満足げに頷いたところで、父がわざとらしい咳払いをした。
「こほん……その、仮の話だがな」
いかにも“言いたくて仕方がない”と顔に書いてある。
「婚約するなら——どちらが良いかね?」
「お父様っ……!」
リリアは思わず声を上げ、頬が一気に熱く染まる。
母は上品に口元を押さえて微笑み、父はおどけたように眉を上げた。
「まぁまぁ、リリアよ。親というものは大事な娘の将来を案ずるものなんだ」
「……急すぎますわ」
「あら、そうでもないでしょう?」
母はやわらかく言った。
「貴族では、生まれる前から相手が決まることもあるのよ」
リリアはその言葉に、はっとする。
そして——気づいてしまった。
今日、城に呼ばれた目的を。
「まさか……お父様。今日の登城は……」
「おや。さすがリリア、察しがいい」
父は愉快そうに笑みを深める。
「目的は、リリアの持つ“力”の確認と……エリオット王子との顔合わせだ。ヴァルディアン家の坊ちゃんが来たのは想定外だったが……あの公爵夫人なら、やりかねないと思っていたさ」
父の言葉に、リリアは息を飲んだ。
「……私の力と、エリオット様との顔合わせ……」
頭では理解していた“貴族の娘”としての務め。
それでも、はっきり言葉にされると胸がざわつく。
さっきまでの淡い期待や好奇心が、急に現実の色を帯びて押し寄せてくる。
「そんなに心配しなくていいのですよ、リリア」
母は静かに娘の手に手を重ねた。
その手の温かさに、リリアは少しだけ肩の力を抜く。
「今日あなたを見て……私は誇らしく思いました。
礼儀も、気遣いも、落ち着きも。あの場にふさわしい女性でしたわ」
「お母様……」
母の言葉はまっすぐで、優しかった。
しかし父は、納得したように腕を組みつつも、どこか悪戯っぽい目を向けてくる。
「とはいえ、どちらが良いか、ひとつくらい答えてくれてもいいんだぞ?」
「だからお父様……っ」
リリアの頬がまた熱を帯び、視線を外した。
窓に映った自分の表情が、いつもより少し大人びて見える。
父は大袈裟に肩をすくめる。
「まぁ、まだ急がせるつもりはないさ。ただなリリア——」
そこで、父の声色がほんのわずかに真剣味を帯びた。
「今日見たように、王宮の者はリリアの力に興味を持つ。王子たちも、周囲も。それは良くも悪くも、今後避けられないだろう」
リリアははっと顔を上げる。
「リリアの力は珍しい。だからこそ——誰と結ばれるかで、人生が大きく変わる」
父の優しいが重みのある言葉は、馬車の静けさによく響いた。
母も、ゆっくりとリリアの背に手を添える。
「けれど、最終的に決めるのはあなた自身。
今日の出会いも、きっと未来のための一つのご縁ですわ」
窓の外、夕陽が石畳を長く照らす。
王宮の塔が遠ざかり、かわりに故郷の街並みが近づいてくる。
リリアは胸の前でそっと手を組み、深く息を吸った。
(……ノルン様も、エリオット様も。あの微笑みの裏にある想いを、私はまだ何も知らない)
胸の奥に小さく灯った不安と期待が、夕闇の色の中でゆっくりと混ざり合っていった。




