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魔力操作1

 翌朝、リリアは枕元に置いていたフェリスから借りた鏡を手に取った。意を決して蓋を開くと、銀の鏡面が生き物のように激しく波打つ。

 そこに映し出された光景に、リリアは思わず息を呑んだ。

 鏡の中のリリアは、対照的な二つの巨大な光の渦に挟み込まれていた。

 一つは、胸元のネックレスから幾重にも伸び、縛り上げる、冷徹で静かな蒼い鎖。

 そしてもう一つは、足元から這い上がり、逃がさぬように絡みつく、燃え盛るような黄金の蔦。


「エリオット様と、ノルン様の魔力だわ……」


 特にその黄金の光は、あまりにも美しく、見る者の理性を溶かして無理やり跪かせたくなるような、強制的なまでの魅力を放っている。

 鏡の中の二つの渦は、リリアの肌に直接触れることはできていない。彼女の輪郭を縁取る透明な境界線が、そのすべてを峻拒していた。


「無効化がなかったら……今頃、私はこの渦の中に呑み込まれてしまっていたわね」


 確認を終え、鏡を閉じようとしたその時、鏡面の奥から一瞬だけ、銀色の光が漏れ出す。


「えっ?」


 慌てて覗き込んだが、波紋はすでに消え、そこには困惑した表情の自分が映っているだけだった。


「銀の光……。女神リュミエールの光と同じだわ」


 伝説に謳われる慈愛の女神リュミエルは、銀色の光を纏って現れ、その輝きをもって民を慈しみ救ったと言われている。

 エリオットの蒼とも、ノルンの金とも違う、あの清らかな銀の輝き。それが何を意味するのか、今のリリアにはまだ知る由もなかった。



* * *



 他の名家たちが到着する前の静かな時間。リリアはルカと一緒に、館の裏手に広がる、手入れの行き届いたガゼボへと向かった。そこには、既にノルンが待っていた。 


 朝露に濡れた花々に囲まれ、ノルンは所在なさげに立っている。リリアが姿を見せると、その琥珀色の瞳に安堵と、それ以上に強い期待の色が浮かんだ。


「……本当にやるんだな」


「もちろんですわ。約束しましたもの。ルカ、準備はいい?」


 ルカは頷くと、ガゼボの周囲に「遮断」の結界を張った。外部に魔力が漏れないように、そしてリリアの無効化を最大限に引き出すための補助だ。


「では、ノルン様。魔力を解放なさってください」


「大丈夫なんだな?」


「はい、任せてください」


 リリアとノルンは、ガゼボの静寂の中で真っ向から向かい合った。

 途端に、逃げ場のないほど濃密な黄金の熱気が、爆発的な勢いで場を支配する。ガゼボの外側にいるルカが、その圧倒的な圧力に思わず顔をしかめ、一歩後退るほどだった。


 しかし、リリアは違った。荒れ狂う魔力の奔流を、その身に纏う透明な「無効化」の力で静かに切り裂いていく。リリアは怯むことなく、重い熱気の中を一歩、また一歩と前へ踏み出し、ノルンの目の前まで静かに歩み寄った。


「リリア……、本当に苦しくないのか?」


 ノルンは焦燥に駆られたように問いかけた。彼の周囲では、内側から噴き出す劫火のような熱が渦巻き、ガゼボの空気を歪ませている。それは触れるものを焼き尽くし、威光で平伏させる、苛烈な火の魔力だった。


「いいえ。貴方の魔力は、本来はとても綺麗ですもの」


 リリアは熱風に髪をなびかせながら、穏やかに微笑んだ。

 ミラの放つ、理性を溶かし陶酔させる毒のような「魅了」とは違う。ノルンのそれは、魂の根源を震わせ、強烈に惹きつけてやまない「王の輝き」だ。あまりに眩しく、熱すぎるがゆえに、誰もがその光に焼かれ、思考を奪われてしまう。


「いいですか、ノルン様。今の貴方は燃え広がる野火と言ったほうがいいかしら。それを、私の方へ向けて一点に集中させてみてください」


 リリアは、ノルンの熱い両手を自身の掌でしっかりと包み込んだ。

 刹那、ノルンの指先から伝わる爆発的な熱量が、リリアの無効化の結界と衝突し、目に見えない火花を散らす。


「リリア、無茶だ。俺の火は、お前まで――」


「貴方の火を、私がすべて受け止めます」


 リリアの冷たいほどに澄んだ無効化の力が、ノルンの荒れ狂う黄金の熱とぶつかり、中和されていく。


「リリアの魔力を……道標にしろと言うのか」


「そうです。私の力を『壁』だと思って、そこに魔力を押し留める感覚を掴んでください」


 ノルンは必死に、己の内側で暴れる巨大な力を制御しようと歯を食いしばった。リリアの手を握る力が、無意識に強くなる。

 その時、リリアは服の下のネックレスが、ノルンの魔力に呼応するように微かに熱を帯びるのを感じた。

 リリアの「無効化」が、ノルンの荒ぶる「火」を、周囲に害をなさない穏やかな灯火へと変えていく。


「熱が、静まっていく……」


 見守っていたルカが、感嘆の声を上げた。

 あんなに狂おしく吹き荒れていた黄金の熱風が、今、リリアの小さな手の中に完全に収まっていた。


「できましたわね、ノルン様。これが『蓋』をした状態です」

 

 リリアが顔を上げて微笑むと、至近距離で見つめ合う形になったノルンの顔が、不意に赤く染まった。


「……本当に恐ろしい令嬢だ」


 ノルンは手を離そうとせず、むしろ指を絡めるようにして力を込めた。だが、我に帰ったノルンが弾かれたようにリリアの手を離した。

 その瞬間、抑え込まれていた熱量が逃げ場を失い、ノルンの両手から真っ赤な炎が勢いよく巻き上がった。


「危ないっ!」


 リリアは反射的に、再びノルンの手をぎゅっと握り締める。

 じゅっ、という中和音が響き、炎は霧散した。


「……ま、まさか」


ノルンが、自身の掌とリリアの顔を交互に見て、掠れた声を出した。


「私も……まさかとは思っておりますわ」


 二人の顔は揃って引きつっている。リリアは、確認のために「せーの」の合図で、恐る恐る指先を少しだけ離してみた。


 ボワッ!


 離れた隙間から、まるで待ってましたと言わんばかりに炎が溢れ出し、慌ててリリアが再び手を握り潰す。

 ……どうやら、魔力を無理に一点リリアへ集中させすぎたせいで、手を離した瞬間にそこから魔力が噴き出す「強制排出状態」になってしまったらしい。


 つまり、リリアが手を離せば、ノルンは人間火炎放射器になりあたり一面を焼き尽くすことになる。


「……これ、どうするんだ。いつまで握ってればいい」


「……少なくとも、ノルン様が自力で『蓋』を維持できるようになるまでは、離せないかもしれませんわね」


 手を繋いだまま固まる二人。その背後で、ルカが頭を抱えて深いため息をついた。


 手を離せば火柱が上がるという絶体絶命の状況に、リリアとノルンは顔を見合わせ、絶望に近い表情で頷き合うしかなかった。

 結局、二人はそのまま、ルカに周囲を警戒させながら館へと戻ることになった。

 幸いにも他家の人々はまだ到着しておらず、人目は少なかったものの、運悪く朝食を運んできたヴァルディアン家の従者たちと鉢合わせてしまう。


「あ、あらあら……! これは失礼いたしました!」


 ノルンの自室に朝食を並べにきた年配のメイドたちは、主人が令嬢の手を固く握りしめ、顔を真っ赤にして座っている姿を見て、驚きに目を見開いた。

 しかし、すぐに「陶酔」と「後押し」の空気に包まれた彼女たちは、頬をバラ色に染めてうっとりと手を合わせた。


「まあまあ、ノルン様。ようやく心から大切にしたいお方が見つかったのですね」


「ち、違う。これは……!」


「ごゆっくりなさってくださいませ。皆様のご朝食もお待ちいたしますわね。私たちは何も見ておりませんわ、ふふふ」


 メイドたちは幸せそうな溜息をつき、逃げるように部屋を去っていった。


「ち、違う! これは訓練の一環で……!」


 ノルンの必死の叫びも、扉の向こうへと消えていく。すぐに追加で二人分の朝食が用意された。

 

 手を繋いだまま固まる二人と、やれやれと肩を落としてパンを千切るルカだけだった。


「……姉様、ノルン様。とりあえず食べないと力が出ないよ。僕が二人の口に運んであげようか?」


「ルカ、冗談を言っている場合ではありませんわ。……ですが」


 リリアはノルンと繋いでいる右手を絶望的に見つめた。リリアの無効化が「蓋」となって、ノルンの溢れ出す火の魔力を辛うじて押し留めている。


「……俺が左手で食わせてやる。だから、絶対に、死んでも手は離すな。いいな」


 ノルンは、かつてないほど真剣な、あるいは羞恥で死にそうな眼差しでリリアを見つめた。

 

「ノルン様、僕が姉様の介助をするので一秒でも早く感覚を掴んでいただいてもよろしいですか?」


 ルカが顔に笑顔を張り付けて、淡々と話しながら姉のリリアにパンを一切れ運んだ。

 

「……これ、どうやったら安定するんだ」


「ノルン様の魔力の『出口』が姉様一箇所に固定されていますね。あと数時間は、姉様の無効化で魔力のバイパスを作ってあげないと、ノルン様が火だるまだ」


 ルカの非情な宣告に、ノルンは呻き、リリアは天を仰いだ。

 他家が到着するまで、あとわずか。この「物理的にも熱い」密着状態を隠し通せるはずもなかった。


 朝食を終える頃になっても、ノルンの魔力は安定するどころか、さらに熱を帯びていた。リリアが隣で甲斐甲斐しくルカから食事を受け取る姿や、繋いだ手から伝わる鼓動が、ノルンの精神的な高揚を招き、火の勢いを増幅させているのだ。


「……ノルン様、少しは落ち着かれましたか?」


「……無理だ。お前が隣にいると、余計に意識が……くそっ」


ノルンが左手で顔を覆い、呻いたその時だった。


「あら、皆様お揃いで! ごきげんよう!」


 ノックの音を置き去りにするような明るい声と共に、部屋の扉が勢いよく開いた。

 そこに立っていたのは、予定よりも大幅に早く到着したランドル公爵令嬢、サリーナだった。彼女は部屋に足を踏み入れるなり、室内を支配する異様な熱気と、固く手を繋いだまま身を寄せ合っているリリアとノルンの姿を捉えた。


「あら……。あらあらあら! リリア、一晩離れただけで、もうそこまで親密になられましたの?」


 サリーナは扇子で口元を隠しながら、翡翠の瞳をこれ以上ないほど輝かせた。


「ヴァルディアンの『不落の火』を抑え込むには、やはりそれくらいの情熱が必要ということですわね。流石ですわ、リリア。お見それいたしました」


「サリーナ様、違いますの! これは事故……いえ、魔力操作の訓練で、決して不純な理由では……!」


「ええ、ええ、分かっておりますわ。訓練という名の睦み合いですわね。皆様、とってもお幸せそうで何よりです」


 サリーナの勘違いは加速する一方で、リリアの弁明は空しく部屋に響くだけだった。サリーナは二人ににじり寄ると、繋がれた手をまじまじと見つめた。


「それにしても、ノルン様。そんなに強く握りしめて……リリアが逃げるとでもお思いかしら? まるで『手枷』ですわね」


「……っ、うるさい。黙れ」


 ノルンは耳まで真っ赤にして顔を背けたが、それでもリリアの手を離すことはできない。離せば即座にこの部屋が火の海になることを、この場の全員が理解していたからだ。

 ルカが冷めた紅茶を飲み干し、サリーナに向かって肩をすくめて見せた。


「サリーナ様、茶化すのはそのくらいにしてあげてください。姉様は今、ノルン様の魔力を逃がす命綱になっているんです。手が離せないのは物理的な問題なんですよ」


「まあ、命綱だなんて……さらに情熱的ですわね!」


 サリーナはうっとりと頬に手を当てた。

 その時、リリアの胸元のネックレスが、かつてないほど激しくドクドクと拍動し、刺すような熱を帯びた。


(……エリオット様?)


 王都から遠く離れたこの地で、ネックレスを通じ、リリアの動揺とノルンとの「密着」が伝わってしまったのか。

 サリーナの到着でさらに賑やかになった室内で、リリアはこれから一週間の滞在を考えると深いため息が出るのだった。

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