女神の教会にて
教会の高い天井には、ステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいた。集められた子どもたちとその親がずらりと並び、祝福の儀が始まるのを静かに待っている。
十二歳になったリリアも、その中の一人だ。
「お父さま、あの水晶が『リュミエルの瞳』でしょうか?」
リリアは、祭壇の前に置かれている水晶に視線を注ぐ。
父である公爵は優しく微笑むと、膝の高さで娘の耳元に囁くように説明した。
「そうだ、あれは――女神リュミエルの力を宿した聖石だ」
白く澄んだ水晶の中で、微かな光が揺らめき、まるで内側から息をしているかのように神秘的だった。
「リュミエルは、真理と潜在力を見通す女神だ。祈りを捧げ、彼女の加護を願いながら、この石に手をかざすことで、自らの秘められた力を女神の前に示すことができる」
「……秘められた力、ですか」
「そうだ。たとえまだ幼くとも、リュミエルの瞳は真の力を見抜く。力や属性を映し出し、どのような方向に伸ばすべきかも示してくれるのだ」
公爵はリリアの肩に軽く手を置き、優しく微笑んだ。
「今はまだ小さな光かもしれない。しかし、この先、リリアがどのように力を使い、成長していくかを女神は見守っておられる」
リリアは父である公爵に伴われ、落ち着いた足取りで指定された席へ向かった。母も同席しており、祭壇へと続く長い通路を歩く間、母はそっとリリアの肩に触れた。
「緊張しているのかしら、リリア?」
「大丈夫よ、お母さま。……たぶん」
小さく答えると、母はくすりと笑った。その笑みは優しく、幼い頃から変わらず背中をそっと押してくれるものだった。父は腕を組んだまま、しかし横目でリリアを気遣うように見守っている。
「あなたなら心配ないわ。リュミエル様は努力する子を好まれるもの」
「そうだな。慌てず、いつも通りに落ち着いていれば大丈夫だ」
両親の言葉に包まれながら席につくと、隣には同じく十二歳になった少女が、伯爵の父と一緒に座っていた。
ブラウンのふわりとした髪に、ルビー色の瞳の少女は、リリアに向けてにっこりと微笑み、丁寧に会釈した。その笑顔は柔らかく、光を帯びるようで、初対面の緊張を少しだけ和らげる。
リリアは軽く目を伏せた後、少女を静かに見守るだけだった。自分の立場を知っている。微笑みを返す必要もなく、先に声をかける必要もない。
けれど、少女の無意識に放たれるその魅力に、リリアはほんの少し胸がざわつくような、そんな感覚があった。
少女は少し首をかしげ、思わず口を開く。
「ミラです。貴女のお名前を聞いてもいいですか?」
その一言には、柔らかくも真っ直ぐな瞳の力がこもっている。無意識に相手を引き寄せるようで、リリアの視線が一瞬だけ少女に留まった。
その様子に伯爵は焦り、すぐさま小声でたしなめる。
「ミラ、先ほども言っただろう? 彼女は私たちよりも身分の高いお方だ。不用意に話しかけてはいけない」
「そっか、分かったわ」
ミラという名の少女は少し申し訳なさそうにうなずいた。
それを見て、伯爵は慌てて小声でリリアと公爵夫妻に頭を下げる。
「申し訳ありません、先に挨拶をさせてしまって」
リリアは目を細め、ほんのわずかに口元を動かして微笑む。
「気にしなくて大丈夫よ」
リリアのその静かな対応に、伯爵はほっとした表情を見せる。リリアの落ち着きや上品さ、そして自分たちに向ける無駄のない視線が、彼女の権威を改めて示していた。
ちょうどそのとき、祭壇前で神官がゆっくりと名を読み上げ始めた。
呼ばれた子が一歩、また一歩と進み出ると、「リュミエルの瞳」は彼らを迎えるように光を強めていく。
――祝福の儀が始まった。
女神の瞳に手をかざすたび、淡い光が属性を示す色へと変じ、父母が小さく息を呑む。そのたびに、観衆の視線が揺れ、会場の空気がわずかに震えた。
ミラはその光を見守りながら、心の中で問いを抱えていた。
――リリアはどんな光を放つのだろう。
――自分とは、どれほど違うのだろう。
そして次に呼ばれる名前を、二人は静かに待っていた。
「ミラ・フェンディ」
名が呼ばれると、ミラは一度だけ小さく息を呑み、慎重な足取りで祭壇へ進んだ。伯爵夫妻は姿勢を正し、まるで自分のことのように誇らしげに見守っている。
ブラウンの髪とルビー色の瞳——父親譲りのその特徴が、祭壇の光にふわりと照らされた。
ミラがそっと水晶へ手をかざした瞬間だった。
水晶の内部に、ゆっくりと火色の光が灯る。だがそれだけでは終わらない。火の赤に交じり、橙や金の色が輝き溶け合うようにうねり、長く光り続けた。
——ん?
リリアは思わず瞬きをする。
火属性の光だけではない。何か、別の色が混ざっている……。
けれど、神官は特に反応を示していなかった。
周囲の観覧者たちも、ただ賞賛の気配を浮かべているだけで、その不思議な色の混ざりには気づいていないようだった。
ふと、リリアとミラと視線が交わる。
瞬間、言葉にできない理解が二人の間に走った気がした。互いにその微かな共鳴に、胸の奥で静かな興奮を覚える。
「——さすが、フェンディ伯爵家のご令嬢でございます」
光が静かに収まると、神官は柔らかな笑みを浮かべて告げ、ミラはほっと息をつきながら軽く礼をした。
フェンディ家は、昔から火の魔法を扱う家系として知られている。祭事や魔法騎士の儀式では、必ずその力を発揮してきた。
その血筋は、今、ミラにもしっかり受け継がれており、彼女の両親はその様子を温かく見守っている。
けれど、ミラ自身もリリアも、どこか心の奥で小さな引っかかりを感じた。
「リリア・ロゼッタ」
名が呼ばれ、リリアは深く息を吸い、小さく胸の前で整えるように吐き出した。
周囲のざわめきは次第に遠ざかり、彼女の意識はただひとつ――祭壇中央に据えられた「リュミエルの瞳」へと向かう。
細かな彫刻が施された水晶は、神殿の光を受けて淡い輝きをまとっていた。
リリアが両手を差し出し、そっと表面に触れた瞬間――
ぱあっ と弾けるように光が走った。
まばゆい閃光に、その場の誰もが息を呑む。
リリアも反射的に目を見張った。
(……これほどの反応、文献でも読んだことがないわ)
普段は落ち着き、年齢以上の気品を漂わせるリリアでさえ、この瞬間ばかりは胸の奥に冷たい震えが走った。
指先がわずかに震え、呼吸が浅くなる。
水晶球の内部では、光が形を探すように揺らめいていた。
色が定まらず、青、金、白、緑……あらゆる光が折り重なり輝いている。
まるで属性そのものが、リリアに応えきれず迷っているかのよう。
神殿に集まった子どもたちも、親たちも、ただ目を奪われて立ち尽くすしかなかった。
神官でさえ、まばたきを忘れたように固まり、胸に手を当てて震える声をこぼした。
「……これは……女神リュミエルの加護が、想像を超えて強大……」
言い切れないほどの衝撃がその表情に刻まれていた。
「まれに――ではありますが、属性が定まらないこともございます。成長とともに本質が形となりましょう。ですが……これほどまでの光は……私も、生涯で初めて目にいたします」
神官の声は震えている。
リリアはそっと眉を寄せ、指先に残る余韻を確かめた。
その時だった。
教会の扉が開き、少年とその両親がゆっくりと歩みをすすめた。
少年の金色の髪は光をまとったかのように輝き、琥珀色の瞳はステンドグラス越しの光を受けて宝石のように煌めく。
その姿が入るや否や、空気がわずかに変わるのを、誰もが感じた。小さな息遣いが漏れ、自然と視線は彼へと集まる。
「すまない、遅くなってしまったな」
父親が教会にいる人々に声をかける。
少年が祭壇に近づくと、神官が慌てた様子で説明を始めた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらにお進みください。リュミエルの瞳に手をかざし、心を落ち着けて力を集中してください。すると、魔力量と属性が光として顕れます」
少年は深く一礼し、父親に軽く目配せをしてから神官の指示通り、祭壇の前に立った。琥珀の瞳が水晶のに向けられる。
水晶に触れた瞬間、きぃん――と澄んだ音が響き、光がしぶきを上げるように四方へ散った。橙と深紅の光粒が舞い上がり、まるで小さな火花が踊るように空気を照らす。
その直後だった。
火の輝きの裏側から、ふわりと淡い翡翠色の光がゆっくりと湧き上がる。細かな緑の粒が風に乗って渦を描き、まるで草原に宿る精霊が息を吹きかけたような優しい煌めきを見せる。
火と風がひとつに溶け合うその光景に、神官は息をのんだ。
「なんと、火と風の二属性を持つとは!」
神官の言葉に、少年は口元に小さな笑みを浮かべた。――自慢げなその表情は、まるで「これが俺の力だ」と言っているようだった。
しかし視線を巡らせると、思ったほどの騒ぎはなく、観客たちは落ち着いている。興味の中心は自分ではないことに気づいた。
「……なんでっ」
少年は小さく、誰にも届かぬ声で呟いた。
父親である公爵は肩に手を置きながら静かに微笑む。
「良くやった。想像以上の結果だ」
公爵の言葉は少年には届いていなかった。
自分の力を誇示して見せたのに、人々の視線はリリアに吸い寄せられている。
少年は水晶を握る手に力を込める。炎色の光はさらに激しく揺れ、強く輝く。だが、リリアの存在感に及ばない。彼は自覚する――今日、観客の心は、自分ではなく、あの少女に注がれているのだと。
「なんなんだ……」
少年は水晶から手をさっと引いた。その瞬間、金色の光が一瞬跳ね上がったように見えたが、周囲は誰も反応しなかった。
気のせいだと思い直し、少年はそのまま自分の席にどかっと腰を下ろし、儀式の終わりを待った。
しかし、リリアだけは違った。
金の光をしっかりと視界に収め、ミラの時と同じように、神官さえも気づいていないことに驚くいていた。
これが当たり前のことなのかどうか、判断のつかないリリアは、事を荒立てることなく、静かにその場を見守ることにした。
* * *
「おい! お前……リリア・ロゼッタ!」
祝福の儀が終わり、参列者たちがぞろぞろと教会を出ていく頃だった。
両親と共に出口へ向かおうとしていたリリアの目の前に、ひとりの少年が勢いよく立ちふさがった。
金糸のような髪が夕光を受けて揺れ、瞳は驚くほどまっすぐこちらを射抜いていた。
「……えっと。どなた、でしょうか?」
問い返した瞬間、少年は大きく肩を震わせた。
「な、なっ……!? 忘れたのか!? 本当に!?」
リリアは困りながら、頭の中を探る。
だが、目の前の少年に心当たりは一つもなかった。
彼は苛立つように足を踏み鳴らす。
「昔! 会っただろうが! ほら……あの、庭園で……!」
「庭園……?」
リリアの眉がわずかに寄る。
彼の方は完全に覚えている調子だが、リリアの記憶には霧のように曖昧な影さえ残っていない。
「……っ、もういい! 覚えていろよ!」
少年は悔しさと照れ隠しを混ぜたような声で叫んだ。
「次は負けないからな!」
リリアが瞬きをする間もなく、少年は続けざまに名を告げる。
「俺は――ノルン・ヴァルディアンだ!」
それだけを勢いよく言い捨てると、少年はくるりと背を向け、足早に歩き去った。
あまりにも唐突で、あまりにも一方的な去り方だった。
残されたリリアは、しばらくぽかんと立ち尽くす。
(何の勝負のことかしら。どこかで会った覚えがあったかしら……?)
本当に思い出せない。
それでも、必死に何かを伝えようとした少年の熱量だけは、胸に妙に残った。
父は横で静かにその様子を見守っていた。
リリアの落ち着いた表情に、目尻がわずかに下がる。
「……良い対応だな。焦らず、動じず、よく心得ている」
リリアは小さく頷き、言葉を返さずに父の隣を歩く。
父は微かに笑みを漏らした。
「……あの子も、随分と元気に育ったようだ」
リリアは何も答えなかった。
ただ、胸の奥に残る少年の存在が、思い出せない記憶の影と重なり、静かに心に刻まれていた。




