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誰の記憶か

 夕闇が迫る王城の医務室。高原の演習場からここまで運び込まれたという事実に、リリアは自分の身に起きた事態の重さを悟り、背筋に冷たいものが走った。


 窓から差し込む残照が、ベッドの傍らで眠るノルンを赤金色に染め上げている。そのプラチナブロンドが夕日に透けて煌めく様は、息を呑むほどに美しかった。


「……ノルン、様」


 リリアが小さく名を呼ぶと、握られていた手に力がこもり、ノルンが弾かれたように顔を上げた。琥珀色の瞳が驚愕に揺れ、すぐさま安堵の色に塗り替えられる。


「……っ、リリア……! 目が覚めたのか」


「ここは……」


「王城だ。お前の魔力が暴走して、学園の医務室じゃ手に負えなかったんだ。……馬鹿かお前は。あんなに無茶をして」


 ノルンの声は震えていた。震える指先を隠すようにリリアの手を一層強く握りしめる。

 リリアはぼんやりと、窓の外にそびえる聖峰を見つめた。夢の中で聞いた鈴の音のような声の少女の姿が、熱に浮かされた頭の奥で鮮明に蘇ってくる。


「……懐かしいわ」

 

 ふと、リリアの唇から独り言がこぼれた。それはリリア自身の言葉であって、リリアではない何者かの響きを帯びている。


「昔、あの山の頂で……誰かを待っていたの。私は……あそこで、風を紡いでいたわ……」


 リリアの瞳に宿る銀色の光が、夕闇の迫る部屋を淡く照らし出す。


「……リリア? 何を言っているんだ。しっかりしろ、意識が混濁しているのか?」


 ノルンが不安に突き動かされ、身を乗り出して彼女の顔を覗き込んだ、その時だった。

 リリアの細い指先が、不意にノルンの頬に添えられた。


「――見つけた」


 鈴が鳴るような、けれどいつもの彼女よりもずっと艶やかな声。

 リリアはシーツを蹴り、驚愕に目を見開くノルンへと顔を近づけた。逃げ場を奪うように、彼女の華奢な体がノルンの胸元へと迫る。


「……っ!? お前、何を……!」


 ノルンは全身を硬直させ、大きくのけぞった。

 今までリリアのことを、信頼できる友人としては見てきたが、こうして一人の女として迫られることなど、想像もしていなかった。

 

 至近距離で見つめるリリアの銀色の瞳は、神秘的で、恐ろしいほどに美しい。

 触れ合っている指先から伝わる彼女の熱と、規則正しく刻まれる鼓動。ノルンの公爵令息としての理性が、その生々しい体温を突きつけられて激しく揺らぐ。


「やめろ、リリア。自分が何を……」


 制止しようと伸ばしたノルンの手が、彼女の肩を押し戻すべきか、それとも抱き寄せるべきか分からず、宙で無様に震えた。

 心臓の音がうるさい。彼女の薄紫色の髪から漂う、甘い香りが鼻腔をくすぐるたびに、ノルンの喉がひくりと鳴った。


「……貴方も、あの時と同じように、私を連れ去ってくれるの?」


 リリアの指先がノルンの唇に触れた、その瞬間だった。彼女の体内で、行き場をなくし渦巻いていた純白の魔力が、「無効化」の本能に呼応して一気に爆発した。


 ――パァンッ!!


 乾いた衝撃音が静かな医務室に響き渡る。二人の間に生じた物理的な衝撃波が、ノルンの体をベッドから引き剥がし、リリア自身もその反動でシーツの上に弾んだ。

 窓のカーテンが激しくはためき、サイドテーブルに置かれた水差しの水が波立つ。


「……っ!?」


 その衝撃が、リリアの意識を現実に戻した。

 瞳に宿っていた銀色の光が消え、元の翡翠色へと戻っていく。熱に浮かされたような陶酔感は、自分の置かれた状況への凄まじい当惑に代わる。


「あ……、あ、あの……ノルン様……?」


 リリアは、目の前で椅子に深く沈み込み、肩で息をしているノルンを呆然と見つめた。

 ノルンの髪は乱れ、いつもは整っているはずの襟元もリリアに掴まれたせいで崩れている。

 そして何より、彼の顔が耳の裏まで真っ赤に染まり、琥珀色の瞳がこれまでに見たことがないほど激しく揺れ動いている。


「お前……、お前なぁ……っ!!」


 ノルンは片手で顔を覆い、絞り出すような声で呻いた。その声は怒りというよりも、抑えきれない動揺を必死に隠そうとする少年のものだった。


「ご、ごめんなさい! 私、何を……その、変な夢を見ていたような気がして……!」


 リリアは顔を真っ赤にして、震える手で毛布を胸元まで引き上げた。

 自分が彼に何を言ったのか、どんなに恥ずかしい距離まで近づいたのか、その断片的な記憶が蘇るたびに、頭から火が出そうなほどの羞恥心に襲われる。


「……夢、だと? ……あれが夢で済むと思っているのか……」


 ノルンは覆っていた手をようやく下ろしたが、その瞳はまだリリアを直視できずにいた。

 公爵令息としての、そして一人の男としてのプライドが、今の一瞬で木っ端微塵に打ち砕かれていた。

 しかし、謝罪を口にしようとしたリリアの言葉が、ふと途切れる。


「……っ、あ……」


 急激に血の気が引き、視界がぐらりと歪んだ。先ほどの「無効化」の暴走は、リリアの体力を根こそぎ奪い去っていた。心臓が早鐘のように打ち、喉の奥が焼けるように熱い。


「リリア?」


 異変に気づいたノルンが、気まずさを投げ打ってベッドに身を乗り出した。

 リリアの体は糸の切れた人形のように力なく揺れ、そのまま横に倒れそうになる。


「おい、しっかりしろ! リリア!」


 ノルンは咄嗟に彼女の肩を抱き寄せ、自分の胸元に支えた。

 さっきまでとは違う、青ざめて冷たい彼女の肌。小刻みに震える呼吸。ノルンは先ほどの動揺も忘れ、ただ目の前の少女を失うかもしれないという恐怖に突き動かされる。


「くそっ、医者を……! 誰かいないのか!」


 ノルンの叫びが、夕闇に沈みかけた医務室に虚しく響いた。リリアは彼の腕の中で、かすかに「ごめんなさい……」と呟き、再び深い眠りへと落ちていった。



 騒ぎを聞きつけたルカが医務室へ踏み込んだとき、そこには青ざめたリリアを抱きしめて立ち尽くすノルンの姿があった。


「ノルン様、姉様をベッドへ。僕が診る」


 ルカの短く、拒絶を許さない声に、ノルンは戸惑いながらもリリアを横たえた。ルカはすぐさまリリアの手を握り、瞳を閉じて集中し始める。


「……っ、これは」

 

 ルカがリリアの傍らに膝をつき、その小さな掌をかざすと、部屋の空気が一変した。

 溢れ出したのは、春の陽だまりのように柔らかな、けれど触れれば跳ね返されるほど密度のある淡い光。それは学園の講義で教わるような、表面的な傷を塞ぐだけの初歩的な魔法とは根本から異なっていた。


「……ルカ。これほどの治癒の術を、一体どこで……?」


 ノルンの問いに、ルカは答えなかった。ただ一点、姉の安らぎだけを願い、額に汗を浮かべながらひたすらに力を注ぎ続ける。


「ノルン、さっきの騒ぎは……っ!」


 遅れて医務室へ踏み込んできたエリオットが、その場で息を呑んだ。光の中心にいるルカの姿を見て、王子の顔に驚愕の色が広がる。


 ノルンは、自分たちがこれまで「守るべき対象」として見てきた少女の弟が、自分たちや王族すら及ばない「癒やし」の聖域に到達している事実に、本能的な戦慄を覚えた。

 同時に、リリアの頬に少しずつ朱が差し、呼吸が穏やかになっていくのを見て、白くなるまで握りしめていた拳をようやく解いた。


 このルカの規格外の力は、その場にいた三人と、事後に報告を受けた国王のみの厳重な秘密とされた。まだ幼い少年に向けられるであろう過度な期待、そして何より、彼を奪い合おうとする血生臭い政治的利用から守るために。



.



 王城の離れ、窓に鉄格子がはめられた別棟。そこにはミラ・フェンディが、幽閉に近い形で留め置かれていた。

 あの日、リリアに触れた瞬間に失われたはずの魔力は、時を経て少しずつ彼女の元へ戻っていた。指先には紫の光が灯り、ミラの唇は歪な弧を描く。


「……あの方の力は何なの」


 一度は恐怖に震えたはずの心は、今や別の色に染まっていた。自分の魔力を消し去り、空虚に突き落としたリリア・ロゼッタ。

 あの底知れない力に再び触れたい、今度こそあの巨大な器を自分のものにしたいという、狂おしいほどの渇望が彼女を支配していた。




 「……これ以上、フェンディ家の娘を留め置くことは不可能だ」


 国王は重苦しい溜息とともに、執務机に置かれたフェンディ伯爵からの督促状を放り出した。窓の外では、ミラを乗せるための馬車が静かに別棟へと向かっている。傍らに立つエリオットは、不満を隠そうともせずに眉を寄せた。


「父上、彼女がリリアに何をしたかはお分かりのはずです。あの執着は異常だ。解放すれば、必ずまたリリアを狙います」


「分かっている。だが、あの家が握る小麦の供給が止まれば、冬を越せずに民が飢える。伯爵もそれを承知で、暗黙の圧力をかけてきているのだ」


 国王は一度言葉を切り、自身の精神を保護している強力な魔法障壁の守護石に触れた。その表面には、微かな「ひび」が入っている。


「……それに、あの娘の力だ。魔法団とも確認したが……あれは『魅了』だ。それも、本能の深淵を直接掻き乱す、極めて危険な類のな」


「父上でも、防ぎきれませんでしたか」


「ああ。対面した際、幾重にも張り巡らせた私の魔法障壁でさえ、あの瞳に見入られた瞬間に崩れかけた。王である私でさえ、一歩間違えれば彼女の望むままに動かされていたかもしれん」


 国王の言葉に、エリオットは奥歯を噛み締めた。

 

「エリオット、ゆめゆめ油断するな。あの黄金の小麦畑を支配する一族は、その豊穣さと同じだけの深慮と、独占欲を秘めている」



 王城の門が開き、ミラの乗った馬車がゆっくりと動き出す。

 馬車の窓から、ミラは王城の高くそびえる塔を見上げ、密かに囁いた。


「待っていてね、リリア様。小麦の穂が実る頃に、またお会いしましょう」


 こうして、各々に消えない火種を抱えたまま、長い夏季休暇が始まった。

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