新入生歓迎会3
仮面舞踏会では言葉を交わすことは禁じられている。ただ、重なり合う手の熱と、ステップの振動だけが相手を伝える唯一の情報だ。
リリアの元には、その神秘的な美しさに惹かれた多くの男性たちが次々と手を差し伸べた。しかし、リリアは彼らの誘いを丁重に、けれど速やかに断ると、喧騒から逃れるようにして太い大理石の柱の影へと身を潜めた。
リリアの翡翠の瞳が捉えていたのは、華やかな舞踏会の光景ではなく、その裏側に渦巻く異様な気配だった。
(……あの、おぞましい色は何?)
視線の先にいるのは、ミラ・フェンディ。
彼女の周囲には、他の誰にも見えていないであろう、粘りつくような紫黒色の魔力が立ち昇っていた。それは「愛」というにはあまりに重く、「欲望」というにはあまりに鋭い、見る者の精神を蝕むような不気味な光を放っている。
見られているとは露ほども気づかず、ミラもまた巨大な燭台の影に身を潜め、フロアの中央で踊るノルンの後ろ姿をじっと見つめていた。
ミラのルビー色の瞳には、獲物を定める猛禽類のような鋭さと、数千年の渇きを癒そうとする狂気的なまでの執着が宿っている。
(さあ、ノルン様……私の虜になりなさいな)
ミラは瞳を妖しく細め、パートナーがいなくなった瞬間のノルンの前にすっと躍り出た。そして半ば強引に彼の手を取り、踊り始める。
「願えば叶う」というミラの強烈な意志が魔力となり、ノルンの意識を塗り潰そうと襲いかかった。
だが、魔力の波動を至近距離で浴びたはずのノルンが、何事もなかったかのように平然とステップを続けているのだ。それどころか、彼はエスコートする手つきすら変えず、苛立ったようにわずかに首筋を掻いただけだった。
(……おかしいわ。なぜ? 私の力が効かないなんて、ありえない……!)
ミラは困惑し、眉を寄せる。そして、初めて密着するほどの距離に近づいて、ミラは気付いた。
ノルンからも、自分と同じ性質の力が放たれていることに。
「……まさか、あなた?」
思わず声に出したが、ノルンからの返事はない。仮面の下の瞳は、まるでミラなど視界に入っていないかのように冷ややかだった。
ノルンとのダンスが終わったあと、苛立ちを隠せないミラは、すぐ傍を通りかかった適当な男子生徒に力を向けた。するとその生徒は、吸い込まれるように瞳の焦点を失い、陶酔しきった表情でフラフラとミラの方へ吸い寄せられてきた。
「あ、ああ……ミラ様……美しい……」
「……どきなさい、鬱陶しい」
ミラは邪魔な男子生徒を冷たくあしらい、再びノルンの背中を睨みつける。
他の者には効果てきめんなのに、ノルンだけが弾いている。まるで、彼の魂の奥底に、ミラの魔力など微塵も入り込ませないほどの「何か」が既に居座っているかのようだった。
その光景を、リリアはフロアの少し離れた場所から一部始終見つめていた。
リリアの胸には、拭いきれない疑問が湧き上がる。なぜ、ミラが願うだけで相手の心が容易く捉えられている。あれは魔法というよりも、もっと根源的で禍々しい「何か」のように見えた。
考えに耽っていた、その時だった。
先ほどミラに無残にあしらわれた男子生徒が、行き場をなくしたようにふらふらと彷徨い、リリアの手首を唐突に掴んだ。
「い、いた……」
思わず声を出すと、目の前の相手が先ほどの男子生徒であることに気づく。
夜の森を溶かし込んだような深い緑の髪に、仮面の隙間からは、新緑が毒に焼かれたような、淀んだ黄緑色の瞳が覗いていた。その瞳は異常なほどの熱を持ってリリアに向けられ、男はミラの力の毒に浮かされながら、目の前のリリアを唯一の救いであるかのように、縋りつくような眼差しで見つめている。
リリアは怯える代わりに、冷静に彼の手を取り、ダンスのステップを踏み始めた。そして、繋いだ手から静かに自らの「無効化」の力を流し込む。
白銀の魔力が男の腕を伝わり、全身を包み込み優しく浄化していった。
「……あれ。私は、いったい……?」
男の瞳に理性の光が戻る。
自分がなぜリリアの手首を強く掴んでいたのか、なぜここにいるのかも分からず、呆然と立ち尽くす彼を、リリアは優しく導いた。
ダンスが終わると、リリアはふらついている彼を気遣い、会場の端に用意されている柔らかなソファへと一緒に腰を下ろした。
「大丈夫ですか?」
リリアは周囲に悟られないようこっそりと声をかけ、給仕のトレイから取った飲み物を彼に手渡した。
男は差し出されたグラスを受け取りながら、リリアの翡翠の瞳を見つめ、救われたような表情で深く息を吐いた。
「……すみません、お恥ずかしいところを。なぜあんなに頭がぼーっとしていたのか……」
男子生徒は差し出された飲み物を一口含み、ようやく顔色が戻ってきた。彼は新緑の瞳を伏せ、助けてくれたリリアに対して深々と頭を下げる。
「私はフェリス。二学年のフェリス・ラングレーと申します。家は交易品を扱ったり、自社で魔導具の製造も行っている商会を営んでおりまして……。あなたがどなたかは存じませんが、この御恩は忘れません」
フェリスはそう言うと、感謝を込めてリリアの手をそっと握った。商人の息子らしい誠実さと、どこか打算のない真っ直ぐな瞳。リリアもまた、彼の無事を確信して小さく微笑みを返した。
「もし、私の力が必要になったらいつでも言ってください。今、渡せるのはこれしかありませんが……これがあれば、わが商会の者は皆、あなたを最優先で助けるでしょう」
そう言って、彼は自身の懐から小さなラピスラズリの飾りが付いた銀のコインを取り出し、リリアの掌にそっと乗せた。ラングレー商会の特級顧客のみが持つという、信頼の証。
しかし、その温かな空気は、背後から近づく鋭い覇気によって一瞬で凍りついた。
「……気安く触れるな」
低く、地這うような声。
振り返れば、そこには仮面すら突き抜けるほどの冷徹な眼光を放つノルンが立っていた。
現れたのは、漆黒の仮面をつけたノルンだった。彼はフェリスが握っていたリリアの手を、拒絶を許さない力強さで引き剥がすと、そのまま彼女の腰を抱き寄せる。
「え……?」
ノルンはフェリスを冷たく一瞥し、有無を言わさぬ圧力を放った。フェリスがその気迫に圧倒されて言葉を失っている間に、ノルンは強引にリリアをフロアの中央へと連れ戻していく。
オーケストラの調べが激しさを増す中、ノルンとリリアは踊り始めた。
先ほどまでの荒々しい様子とは打って変わり、リリアをリードするノルンの手つきは驚くほど優しかった。まるで繊細な硝子細工を扱うかのように、そっと、けれど確かな温もりでリリアの手を包み込んでいる。
言葉を交わすことが禁じられた静寂のダンス。重なり合う手のひらの熱と、ステップを踏むたびに伝わるわずかな振動だけが、二人の世界を繋いでいた。
ノルンがゆっくりとリリアをターンさせ、再びその腰を抱き寄せたとき、彼はふと彼女の腕の異変に気づいた。
「……っ、その腕」
ノルンの声が低く沈み、鋭い眼光がリリアの白い手首を射抜いた。
リリアの肌には、先ほどの男子生徒に強く掴まれた跡が、痛々しく赤紫に変色して浮かび上がっていた。ミラの力にあてられ、理性を失った男の力がどれほど強かったかを物語っている。
「……大丈夫です。思ったほど痛くないのですよ」
リリアが咄嗟に袖で隠そうとしたが、それよりも早くノルンが彼女の手首を掴み取った。今度は、壊れ物を扱うような、けれど決して逃さないという執着の籠もった力加減で。
「医務室に行くぞ」
そのままノルンはリリアを連れて医務室へと向かった。 かう途中で後ろからルカの声が聞こえ、二人は足を止める。
「姉様、何があったの?」
ノルンを鋭く睨みつけ、牽制するルカ。彼はそのまま拒絶を許さない動きで、ノルンからリリアをそっと奪うように引き寄せた。
ノルンはルカの守りたい意志を感じ取り、抵抗せずにその身を預ける。
「……これは。ひどいね、まさかノルン様ではないですよね?」
「違うわ!……私が不注意で、他の方に」
慌てて否定するリリアの言葉を聞き、ルカは小さく息を吐いた。
「これなら僕が治せる。……姉様、もう帰ろう。ここは騒がしすぎる」
ルカはそのままリリアをエスコートし、校門に待機させていたロゼッタ家への馬車へと乗り込んだ。
夜道を揺られる馬車の中、ルカは優しくリリアの手首を手に取る。彼がそっと手を当てると、そこから淡く清らかな光が溢れ出した。
「……えっ?」
リリアが驚いている間に、赤紫に腫れていた痣はみるみるうちに引いていき、元の真っ白な肌へと戻っていく。いつの間にか、ルカは高度な治癒魔法を習得していたのだ。
「驚かせようと思って内緒にしていたんだ」
ルカは少し照れたように、けれど満足げに微笑んだ。
「こんな形で見せることになったのは残念だけど、僕が姉様の役に立てて良かった。……もう、誰にも傷つけさせたくないんだ」
その言葉には、弟としての愛らしさと、一人の男としての強い決意が滲んでいた。
その夜、リリアは夢を見た。
深い霧が立ち込める、どこまでも続く白銀の世界。
中心に、一人でうずくまり、肩を震わせて泣いている少女がいた。
その姿は、リリア自身に似ているようでもあり、同時に、あの激情を瞳に宿したミラ・フェンディのようでもあった。
「……どこ……? 私の愛しい人は、どこにいるの?」
聞き覚えのある少女の嘆きは、魂を直接揺さぶるような悲痛な響きを帯びていた。
「ずっと、ずっと探しているのに。……あの日、私を愛してくれた貴方の温もりだけが、どうしても見つからないの」
少女が顔を上げた瞬間、彼女の背後で世界が二つに割れた。
一方は、美しくも儚い光。
もう一方は、焼き尽くすような暗い熱。
光の中にいるリリアの指先は、その嘆きに触れようと震える。
しかし、闇の中から伸びてきた数多の腕が、少女の身体を無理やり引きずり込んでいった。
「寂しい……苦しい……。ねえ、貴方の力で、この燃え盛るような愛を、終わりにしてちょうだい……」
リリアが叫ぼうとした瞬間、夢は幕を閉じた。
激しい動悸と共に飛び起きたリリアの視界には、見慣れたロゼッタ家の天蓋が広がっている。頬を伝う一筋の涙が、シーツに静かに吸い込まれていった。
あれは、誰かの記憶なのだろうか。それとも、これから起こる何かの予兆なのか。
少女が求めていた「愛しい人」という言葉が、胸の奥に冷たく澱のように溜まって離れない。
リリアは窓の外、まだ白み始めたばかりの空を見つめた。
昨夜、ルカに治してもらった手首はもう痛みもしないのに、夢の中の少女の嘆きに触れた指先だけが、いつまでも痺れたように熱を持っていた。




