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本物の涙

 講義の合間の休み時間。張り詰めていた空気がふわりと緩み、教室のあちこちで生徒たちの談笑が始まった。


「ねえ、サリーナ様。ずっと気になっていたのですけれど……」


 教科書を閉じながら、リリアは少し身を乗り出して小声で尋ねた。


「私、どうして『冬の薔薇』なんて呼ばれているのでしょうか?」


 入学式の会場でも囁かれていたその二つ名。リリア自身は、自分がそう呼ばれている理由がいまいちピンときていないようだった。サリーナは扇子で口元を覆い、くすりと笑う。


「あら、ご自覚がないのね。……幼い頃の貴女は、氷の中に閉じ込められたように表情が少なかったのよ」


 その言葉に、リリアはかつての自分を思い返した。

 確かに自覚はあった。公爵令嬢として、一族の名を汚さぬよう完璧に振る舞わなければならない。

 そう自分を律し、常に気を張って周囲を拒絶していたのだ。

 

「その美しさは当時から圧倒的でしたわ。誰も触れられない、冬の寒さの中でだけ凛と咲く孤高の薔薇。……社交界の方々は、畏怖と憧れを込めてそう呼んでいたのよ」


「まあ……。そんなに冷たい顔をしていましたか、私」


「ええ。でも今は……」


 サリーナは言葉を切り、視線を教室の前方へと流した。

 リリアがつられて視線を追うと、そこにはエリオットとノルンの姿があった。二人は談笑している他の生徒たちには目もくれず、背もたれに体を預け、じっとこちら――正確にはリリアのことを見ていた。


 リリアと目が合うと、エリオットはふわりと優雅に微笑み、ノルンは気まずそうにフイと視線を逸らす。


「ふふ、あの方たちも気が気じゃないみたいね。『冬の薔薇』が春の陽気を纏って、こんなに無防備に咲いているんだもの。悪い虫がつかないか、番犬のように見張っているのよ」


「もう、サリーナ様ったら。番犬だなんて」


 リリアが困ったように笑い返した、その時だった。


「――本当に。言い得て妙な、素敵な呼び名ですわ」


 鈴を転がすような甘い声が、二人の会話に割り込んだ。

 いつの間にか、ミラ・フェンディがリリアの席のすぐ横に立っていた。彼女はリリアの輝くような薄紫の髪に、うっとりとした視線を這わせる。


「冷たく閉ざされていた蕾が、こうして色鮮やかに綻んでいる……。今のリリア様は『冬の薔薇』というより、蜜をたっぷり湛えた春の花のようですわ」


 ミラはリリアの顔を覗き込み、その翡翠の瞳を至近距離で見つめた。


「とても綺麗。……私、貴女のこと、もっと知りたいです」


 純粋な賞賛の言葉。けれど、そのルビー色の瞳の奥には、美しいコレクションを見つけた時のような、ねっとりとした執着の光が宿っていた。

 遠くの席で、エリオットの笑顔が凍りつき、ノルンが眉間に深い皺を刻んだことに、リリアだけが気づいていなかった。




* * *




 放課後の図書室は、懐かしい静寂に包まれていた。

 リリアは講義でどうしても理解を深めたい魔法式の構造を調べるため、重厚な書架が並ぶ迷宮へと足を踏み入れた。


「……あった、この専門書だわ」


 背表紙に指をかけた時、すぐ近くの閲覧席から聞き慣れた鼻を鳴らす音が聞こえた。


「そんな初歩的なところで躓いているのか?」


 驚いて顔を上げると、そこには窓際の影に隠れるようにして座るノルンの姿があった。

彼は周囲の喧騒や、自分を追いかけてくる令嬢たちの視線から逃れるために、ここへ避難してきたようだった。


「ノルン様……。ごめんなさい、お邪魔でしたか?」


「別に。ここには、お前みたいな勉強以外に能のない奴しか来ないからな。……貸してみろ、その式だろ」


 ノルンは不遜な態度でリリアの手から本を取り上げると、隣の席に座るよう顎で促した。

 二人は机を突き合わせ、かつて王都の図書室で過ごした時のように、高度な魔法理論についての議論を始めた。

 専門用語が飛び交い、白熱する議論。その瞬間だけは、昼間の「他人行儀なクラスメイト」ではなく、対等な友人同士に戻ったかのようだった。


 しかし、議論が佳境に入った時、リリアがふとした勘違いを口にすると、ノルンは苛立ちを隠さずに吐き捨てた。


「お前、ポルトで頭までふやけたんじゃないのか? そんな馬鹿な解釈、公爵令嬢として恥ずかしくないのかよ」


 それは、ノルンにとってはいつもの毒づきのつもりだった。かつての「冬の薔薇」だった頃のリリアなら、冷たく聞き流していただろう。

 けれど、ポルトの温かな日々に慣れ、素直な感情を持った今のリリアにとって、友人からの容赦ない言葉は、鋭い刃となって胸を突いた。


「っ……」


 リリアの動きが止まる。

 翡翠の瞳が揺れ、みるみるうちに大きな涙が溜まっていく。リリアは涙が溢れないよう、瞬きをするが無駄な抵抗なのは明らかだった。


「今のは……」


 ノルンがハッとして顔を強張らせた。


「リリア!」


 焦って手を伸ばすノルンだったが、言われ慣れない罵倒にショックを受けたリリアの目からは、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、頬を伝って机の上に落ちた。


「泣かせるつもりじゃなかった。俺は――」


「――そこまでだよ、ノルン」


 凍てつくような低い声と共に、強い力がリリアの肩をい抱き寄せ、その場から引き剥がした。

 気がつくと、リリアはエリオットの腕の中にいた。彼はいつの間に現れたのか、ノルンを射殺さんばかりの冷徹な蒼い瞳で見据えている。


「エリオット様……っ」


「大丈夫だよ、リリア。……ノルン、君はやりすぎだ。彼女がどれほど懸命に学ぼうとしているか、見ていて分からなかったのか?」


 エリオットは、震えるリリアを庇うように優しく、けれど力強く抱きしめた。

 ノルンは伸ばしかけた手を宙で握りしめ、己の失言への後悔と、エリオットにリリアを奪われた焦燥感で、苦々しく顔を歪めることしかできなかった。


 図書室に流れる重苦しい沈黙。


 エリオットの腕の中で肩を震わせるリリアを前に、ノルンは凍りついたように動けずにいた。


「……あ……」


 口から漏れたのは、言葉にもならない掠れた音だった。

 これまでの人生、彼がどれだけ傲慢に振る舞い、他者を踏みにじるような言葉を吐いても、返ってくるのは「さすがノルン様」「厳しいお言葉、身に沁みます」といった、反吐が出るほど卑屈な追従ばかりだった。

 誰も、自分の言葉で傷ついてなどいなかった。

 いや、傷ついていたとしても、それを彼に見せる勇気のある者などいなかったのだ。


 けれど、リリアは違った。

 彼女の翡翠の瞳から溢れるその一粒一粒は、ノルンの放った言葉がどれだけ鋭く、どれだけ彼女を深く傷つけたかを雄弁に語っていた。


(こいつは……嘘をついていない)


 初めて見る「本物の涙」。

 ノルンの胸を、鋭い痛みと、言いようのない後悔が突き上げる。

 嫌われたかったわけじゃない。ただ、かつてのように自分を対等に扱ってくれる彼女と、言葉を交わしたかっただけなのに。


「……悪かった」


 ノルンの声は、かつてないほどに弱く震えていた。

 

「……ノルン。君には、まだ彼女の繊細さが理解できないようだね」


 エリオットは冷たく告げると、リリアを優しく促して図書室の出口へと歩き出した。


「行こう、リリア。君は何も悪くない」


「……待て、エリオット!」


 呼びかけるノルンの声は、遠ざかる二人の背中に届くことはなかった。

 残されたノルンは、誰もいなくなった静寂の中で、リリアの涙で濡れた専門書をじっと見つめ、自分の拳を白くなるまで強く握りしめた。



 エリオットは、震えるリリアを抱き寄せたまま、静かに図書室を後にした。背後に残されたノルンの、後悔に打ち震える気配を振り切るように。


 人気のない学院の中庭、夕陽が木々の隙間からこぼれるベンチへ辿り着くと、エリオットはリリアを座らせ、自らも隣に腰を下ろした。


「……怖かったね。あいつの言葉は、時として毒になりすぎる」


 エリオットは優しく囁き、刺繍の施された白のハンカチをリリアの頬に添えた。溢れ続ける涙を、まるで壊れ物を扱うような手つきで丁寧に拭っていく。


「ごめんなさい……エリオット様。私、動揺してしまって……」


「謝らなくていいんだよ、リリア。あいつは、他人の心の機微に疎すぎる。君の笑顔を、あいつは自分の手で壊したんだ。……許されないことだよ」


 エリオットの蒼い瞳が、一瞬だけ鋭い独占欲で光った。彼はリリアの手をとり、その指先に自分の唇を寄せる。


「リリア。僕は、君を泣かすようなことはしない。君を傷つけるものは、すべて遠ざけてあげたいんだ。……僕だけを見ていれば、こんなに悲しい思いをせずに済むよ?」


 それは慰めの形をとった、静かな愛の宣告だった。

エリオットの温かな体温と、甘い香りに包まれて、リリアの心臓はノルンの毒舌とは違う意味で激しく鳴り響く。


「……エリオット、様?」


「今はただ、甘えて。……泣き止むまで、ずっとここにいるから」


 彼はリリアの頭を自分の肩に預け、その薄紫の髪を優しく撫で続けた。

 夕暮れ時、黄金色に染まる庭園で二人きり。エリオットは、リリアが弱っているこの瞬間、彼女の心に自分だけの刻印を刻もうとするかのように、どこまでも深く、優しい微笑みを浮かべていた。



* * *



 図書室に残されたノルンは、呆然と自分の手を見つめていた。

 床には、リリアが落としていった小さな刺繍入りのハンカチが、涙の跡を残したまま寂しげに落ちている。

 それを拾い上げるノルンの指先は、かすかに震えていた。

 今まで、どんな暴言を吐いても、周囲は卑屈な笑みを浮かべて自分に媚びてきた。言葉が「届く」という感覚を知らずに生きてきた。

 ノルンにとって、リリアの流した真実の涙は、あまりにも重く、鋭くその胸を貫いていた。


「……あんな顔させたかったわけじゃない」


 独り言のように漏れた声に、廊下から軽やかな足音が重なる。


「あら。あんなに素敵な泣き顔を引き出しておいて、そんなに後悔していらっしゃるの?」


 影から現れたのは、ミラ・フェンディだった。

 彼女のルビー色の瞳は、かつてないほど妖しく、そして熱を帯びて輝いている。ミラはゆっくりとノルンに歩み寄る。


「……見ていたのか」


「ええ。とても素晴らしかったわ、ノルン様。貴方のその傲慢さ、その荒々しい魔力の揺らぎ……。ああ、なんて心地いいのかしら」


 ミラは恍惚とした表情で、ノルンの胸元にそっと手を添える。

 周囲を寄せ付けない孤高の牙を持つノルンが、一人の少女の涙にこれほどまでに心を乱している姿は、ミラにとって最高のスパイスだった。


「リリア様をあんなに傷つけるなんて……ふふ、貴方は本当に残酷で、素敵。私なら、貴方のその毒さえも、美味しくいただけるのに」


 ミラの瞳がノルンを射抜く。

 そこには、リリアに対する執着とはまた別の、同類を見つけた捕食者のような歪んだ思慕が宿っていた。

 だが、ノルンは彼女の甘い誘惑には目もくれず、ミラの腕を冷たく振り払う。


「失せろ。お前の相手をしている暇はない」


 ノルンはリリアのハンカチをポケットにねじ込むと、逃げるように、あるいは彼女を追いかけるように、足早に図書室を後にした。


 一人残されたミラは、拒絶されたことすら楽しむように、薄暗い書架の陰でクスクスと笑い声を漏らす。


「いいわ、もっと抗って。……その果てに貴方が絶望した時、最後に抱きしめてあげるのは、この私よ」



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