聞かない命令、効く言葉
白亜の迎賓館の庭園に、子ども向けのお茶会のための丸いテントが張られていた。春の陽が薄布を透かし、ふわりとした光が会場全体に広がっている。
貴族の子どもたちは飾り立てられ、鮮やかな服と笑い声がひらひらと風に揺れていた。
リリアは、その中央に置かれた小さなテーブルに座っていた。まだ五歳とはいえ、母に習った通りの姿勢は小さな背中を凛と見せる。皿には焼き菓子と季節の果物。甘い香りが鼻をくすぐった。
(あのお菓子……とっても美味しそう。ピンク色の丸いのは何かしら? お母様が出してくださるお茶菓子にもなかったわ。ふわふわしていて、きっと甘いのよね。あぁ、あれを全部抱えて好きなだけ食べられたら……しあわせだわ)
そう心の中で小さくはしゃぎながらも、リリアは表情に出さない。少し背筋を伸ばし、習った通りの動作でカップに手を伸ばす。
五歳の少女らしい好奇心は胸の奥で弾んでいるのに、外側はしとやかに整えられた仕草のままだ。
その瞬間、影が差した。
視線を上げると、年の頃の近い金髪の男の子が立っていた。
陽の光を受けて柔らかく輝く金髪。その下の瞳は、薄い琥珀色――澄んでいるのにどこか高慢さを帯びた光を宿している。
そしてその琥珀の瞳は、まるで当然のようにリリアを見下ろしていた。
「なぁ、お前。あれ取ってこいよ」
指さした先には、テーブルの端に積まれた別皿のクッキー。
あまりに当然の言葉に、リリアは瞬きした。
「……私のこと?」
「ほかに誰がいるんだよ。お前が取ってこいって言ってんだ」
命令口調は、まるで使用人にでも告げるようにぞんざいで。
リリアの胸に、ちいさく不愉快なものが芽生える。
「いやよ。どうして私があなたの言うことを聞かないといけないの?」
淡々とした拒絶。
男の子は一瞬、ぽかんと口を開けた。理解が追いつかなかったのだろう。だが次の瞬間には、顔を真っ赤にして怒りに震えた。
リリアはその変化を見ながら、ふっと胸が冷めていくのを感じた。
(せっかく、お菓子で幸せな気分だったのに……)
リリアは小さな肩を落とし、わざとらしくため息をついた。
その態度が男の子には“自分を拒絶された”と見えたらしく、顔が瞬く間に真っ赤になり、目の端まで怒りで潤んでいる。
「なんなんだよ! 俺が言ってるんだぞ!? お前はさっさと――!」
声が甲高く跳ね、大きなテントの中に怒鳴り声が響いた。
子どもたちはびくりと肩をすくめ、お菓子をつまむ手を止めてじっとこちらを見つめる。
「どうなされましたか!?」
慌てた大人が駆け寄り、二人の間に割って入った。
その焦りようは、誰の目にも“彼が暴れだす前兆”を読み取っているかのようだ。
「あっ、あぁ……はいはい、お菓子ですね! 私が取ってきますから!」
大人は、なぜか頬をほんのり赤らめていた。気まずそうに笑いながら、けれどどこか嬉しげに男の子へ皿を差し出す。
「はい、こちら……お好きなお菓子をどうぞ」
声は焦っているのに、どこか浮ついた柔らかさがあった。
その後ろから、遠巻きに様子を見ていた男女がゆっくりと歩み寄ってくる。身なりの良い二人――おそらく男の子の両親だろう。
二人の表情には、“またやってしまったわね”というため息こそあれど、怒気はまるで浮かんでいない。それどころか、顔立ちがどこか緩んでさえいた。
「まあまあ、そんなに機嫌を悪くしないでちょうだい」
「ほら、すぐに用意してもらえたじゃないか。ね?」
その声音には叱責の色など微塵もない。
“怒った彼を落ち着かせる”ことにだけ注意が向けられていた。
さらに両親は、困った素振りは見せず、むしろその幼いわがままぶりや顔を赤らめる姿も愛おしそうに見守っているように思えた。
その様子に、リリアははっきり悟る。
(きっとあの子は……誰にも止めてもらえないのね)
理不尽に命じても咎められず、機嫌が悪くなれば大人が慌てて拾いに走る。
その一連の光景は、幼いリリアの胸に、薄い嫌悪と同時に、言葉にできない同情をも呼び起こした。
リリアはそっとスカートの裾をつまみ、小さく息を整えた。
静かに椅子から降り、丁寧な所作でスカートの皺を払う。
(やってられないわ。離れましょう。これ以上ここにいても、いいことなんて何もないもの)
そう思った瞬間、胸の中のもやがふっと晴れた。
場の空気はまだざわついている。けれど誰も、幼い令嬢がそっと席を立つことには気づかない。気づくほど、この場に“落ち着いた目”を持つ者はいなかった。
リリアは背筋を伸ばし、歩き出した。
子どもらしい小さな足取りなのに、どこか凛とした気配がある。
騒々しいテントの中の空気が背中から遠ざかっていくにつれ、張りつめていた気持ちがほどけていく。
春風が頬を撫で、花の香りがふわりと漂った。
(そうよ。今日は楽しい日だったはずだわ。あとは私が、私のままでいればいいの)
誰にも気づかれずに、リリアはその場を静かに後にした。
* * *
少し離れると、そこは先ほどのざわつきが嘘のように静かだった。
整えられた花壇が一直線に続き、色とりどりの花々が春風に揺れている。リリアはゆっくりと歩きながら気持ちを整えた。
(せっかくのお茶会なのに……騒がしくて嫌になってしまうわ)
花びらが舞い落ちるのを目で追い、気分を落ち着けようとしていたその時――
不意に花の影から、小さな足音がぬっと現れた。
「あっ……」
振り返ると、さっきの男の子が一人で立っていた。
先ほどの威圧的な雰囲気はなく、少し心細げに見えた。
「また会ったな」
強気の、その一言。
けれどリリアは顔を背ける。
(さっきのことを思い出すと、相手にしたくない……)
彼は困ったようにまばたきした。
「……聞こえなかったのか? また会ったって言ったんだ」
リリアはため息を小さくつき、くるりと振り返った。
「聞こえてるわよ。どうしてまた話しかけてくるの?」
男の子はまだぽかんとしたまま、口を半開きにして立ち尽くしていた。
口元がわずかに震え、手の位置もどこに置けばいいのか分からないらしく、ふらりと揺れる。目はリリアをじっと見つめているのに、どう振る舞えばいいのか全く分かっていない様子だ。
「……なんで怒ってるんだ?」
つぶやくように口を開いたが、その声も頼りなく、少し震えている。どうやら“無視される”という経験自体が初めてなのかもしれない。
「別に、怒ってないわ」
言い切った声は静かだった。
「ただ、あなたの言うことを聞く理由がないだけよ」
男の子は言葉を失い、さらに目を丸くする。
本当に理解できていないのだと悟ったリリアは、少し顎に指を添えながら眺めた。
(誰にも期待されていない……というか、誰もこの子に“教えてあげていない”のね)
なるほど、と幼いながらに合点がいく。叱られないのは可哀想なことだ。
それは――“誰もあなたに本気で向き合っていませんね”という意味でもある。
「あなた……かわいそうね」
男の子は目を見開いた。
「かわいそう……って、俺のこと?」
「ええ。誰も、あなたに本当に期待している人はいないんじゃないかしら」
リリアの言葉は、彼女にとって最も正直な感想だった。誰も叱らないということは、成長を望んでいないということ。何を言っても無駄だと、大人が諦めているのと同じだった。
「どういうことだ? 俺はいつも褒められてるぞ! 叱られたことなんて一度もない!」
顔を赤くして、男の子は必死に言い返す。
「それは……でも、私のところでは違うの。お母様にお稽古をつけてもらえば、間違えたら注意されるし、お父様だって、失敗すればきちんと教えてくださる。だから、自分で少しずつ分かるのよ」
リリアは小さな胸をそっと張り、静かに言った。目の前の男の子は、ただ固まって聞き入るしかなかった。声を出すことも、言い返すこともできずに。
「……あなたを……誰も叱ったりしないのね」
男の子はしばらく口を開けたまま固まっていた。
リリアは何気なく花壇の花を指先で撫でながら続ける。
「誰かに期待されたり、叱られ、認められる中で少しずつでも出来るようになったり、自分を分かってもらえること。それってとても嬉しいことなのよ」
男の子は、初めて自分の世界がすべてではないことを知った。自分の思い通りにならないことがある――それは、これまで味わったことのない、不思議な感覚だった。
「……俺は……」
言葉を探そうとするが、幼い舌ではうまく形にできない。
リリアはそれ以上深入りせず、踵を返す。
「話は終わりよ。もう戻るわ」
その背中を、男の子はただ呆然と見送るしかなかった。
* * *
その日の出来事は、リリアにとってはちょっと嫌な思い出にすぎなかった。
時間が経てば、たくさんあるお茶会の日の一つとして記憶の片隅に埋もれてしまう。
けれど――彼にとっては違った。
「おや、こんな所にいたのか。探していたぞ」
男の子の両親がほっと胸を撫で下ろす。心配そうに見つめていたのだろう、安堵の色が滲んでいた。
「父上、また先ほどの令嬢に会いました」
父親は目を細め、少し考え込むように眉を寄せた。
「先ほどと言うのは……あぁ、淡いラベンダーの髪に、翡翠の瞳が美しい令嬢かい?」
男の子は静かに、ゆっくりとうなずいた。その瞳には先ほどのやり取りの記憶がまざまざと残っている。
単に出会っただけの少女ではない。自分のわがままや傲慢さを初めて揺さぶった相手――。
「公爵家のリリア・ロゼッタ嬢だね」
父の言葉に、男の子はさらに頷く。
「リリア・ロゼッタ……」
その名を口にするだけで、胸の奥がざわつく。目の前で小さく胸を張った少女の姿、淡々と自分を突き放す声――。
その少女の名を、彼は忘れることがなかった。
無理やり従わせようとした自分の思いが、簡単に通じなかったあの瞬間。幼いながらに、世界は自分だけのものではないのだと気づかされた瞬間。
そして、その小さな反発が、今まで感じたことのない強い印象として心に刻まれていた。
リリア・ロゼッタ――その名と面影は、男の子にとって、忘れようのない記憶となったのだった。




