to Dyeing Flowers
制服か喪服のように黒く染めた髪を、後ろで一つに結んで鏡の前に立つ。
鏡の中では、見慣れない女性が疲れたこわばった表情できょろきょろと視線を左右に泳がせていた。とっくの昔に外したはずのピアスの穴が、まだ塞がりきらずに存在を主張している。
「大丈夫…大丈夫……今日も、がんばろう」
言い聞かせるようにつぶやく言葉が、毎朝少しずつ重たくなってきていた。それに比例するように、大学時代に就職活動に併せて買った真っ黒なリクルートスーツを着込む動作も、緩慢になっていくのを自覚していた。
日ごとに悪くなっていく寝つきをどうにかしようと飲み始めた薬の影響か、ぼうっと動きの悪い頭をゆっくりと振って動く気力を絞り出した。
澱のように体を蝕む重さに耐え、引きずる身体を押し込むように玄関扉を開けると、薄暗い部屋に慣れた目を白が刺した。
室内にいたときには押し殺されていた蝉の鳴き声が、やかましく鳴り響いている。
先を急ぐ車の群れが、押さえつけあうようにクラクションを鳴らし、真夏のおしくらまんじゅうの掛け声を発していた。
八月六日――季節は夏。
四月に印刷会社に入社して、営業として外回りを始めてから早4ヶ月。
『あこがれだったクリエイティブ業界で仕事ができる』そんな高揚を覚えていたのはいつだったか。毎日のように降りかかってくる無理難題を、必死の思いで捌いているうちに今日を迎えていた。
元から要領の良い方ではなかった自分だが、就職してからは日々自分の不出来を突きつけられているようだった。
先輩には『若いってだけで得だね』と言われ、お客様には『元気でいいね』と笑われる。『新人はやっぱり~』なんて言葉から始まる、誰かにとって都合のいい言葉が、少しずつ心を削っていくのを感じていた。
***
八月のアスファルトは熱く、息をするだけで汗がにじむ。スーツは容赦なく体にまとわりついてきた。両手に握りしめた紙袋の中には、客先で『朱書き。明日までに直して』という無慈悲な言葉と共に放り投げられた、数百ページある同じ原稿二部が入っている。
オフィスに戻ったらこの二部を見比べて、正しい原稿を作成して——現場からは何でそんな仕事の流し方をするのだとまた怒られるのだろう。
「あ……お昼、食べてなかった……」
今朝は出社直後から上司に数字を詰められ、午後からのアポに遅れそうになったから慌てて会社を飛び出してきたせいで、昼食を食べることもできていなかった。
両手に握りしめた紙袋が、余計にその重さを増していくように感じる。
「だめだ……少しだけ、休もう」
限界を迎えた私は、駅前にある小さな公園へと足を向けた。そこには木製のベンチがぽつんと置かれている。真夏の輝く太陽を受けて、今こそ我が盛りとばかりに鬱蒼と足元に生い茂る雑草たちが、ベンチへの道のりを前のめりに遮っていた。名もなき小さな花が控えめながらも力強く自己主張をしてくる。
「――はぁ……って、熱っ……!」
なんとかベンチまでたどり着き、荷物を置いて一息をつこうとすると、熱せられたベンチの暑さに悲鳴を上げた。それでも、なんとか恐る恐る腰を下ろして、今度こそ一息をついた。
ベンチから周りを見回せば、恨めしい名も知れない雑草たちが、生命力に満ち溢れた様子で輝きを反射している。
なんとなくその輝きを見ていられず、視線をそらした先に花屋があった。足元で強く主張している雑草たち打って変わって、色とりどりの花々が、一糸乱れず整然と通行人とあいさつをしている。
【無限の可能性を秘めた花。レインボーローズ】
そんなうたい文句と共に、いかにも人工的に染められたと思しき虹色をしたバラが笑顔で客を出迎えているのが目を引いた。
思えば、卒業式やライブ、職場の先輩の退職にお見舞いと、イベントごとでは花束を見かけることはあれど、落ち着いて花を見ることもなかった。こうしてみるとずいぶんといろいろな花が世の中にはあるらしい。
「いろんな花……あるんだな」
***
待ちわびたはずの盆休みはいつの間にか訪れていた。
散らかった部屋を適当に片づけ、最低限生ごみだけはゴミ捨て場に放り込んだ後、ひさびさに実家へ帰った。えっちらおっちら引きずってきたキャリーケースを自分の部屋で広げ、ベッドの上に横になると、ようやく人心地がついた気がした。
四か月ぶりに戻った部屋の様子は、私がこの家で暮らしていたころと何ら変わりなかった。
ただ、この家で暮らしている頃はあまり意識しなかった部屋の香りがなぜか妙に強く感じ、落ち着くような、よそよそしいような、なんとも言えないもどかしい気持ちを覚えた。
「ごはんよ! 降りていらっしゃい!」
気が付けば、思ったよりも時間が経っていた。部屋の香りにも、いつの間にか夕ご飯のお醤油の香りがほのかに混じっている。
母の号令に慌てて一階にあるリビングへと向かった
「「「いただきます」」」
父と母、久しぶりにだれかと一緒に『いただきます』と口にした。なんだかそれだけで胸の奥が温かくなった。 『帰ってきた』ようやくそんな気がする。大きく息を吸い込むと、黙々と母が作ってくれた食事を口に運んでいく。
「仕事、慣れてきた?」
テーブルの上に並べられた食事を八割方食べ終えたころ、母がそっと聞いてくれた。
「仕事……ちょっと、辞めたいかも」
温かい食事に気が緩んでいたのかもしれない。
気が付けば口から思わぬ本音が転がり出た。
箸を持っていた父が、手を止める。
数秒の沈黙のあと、少し低い声で言った。
「どんな仕事も、三年は続けてみろ。それが社会人の礼儀だ」
母は黙ったまま、ただ静かに味噌汁をすすっている。
――それ以上、何も言えなかった。
***
夜。部屋の薄暗がりのなかで、いつものように白い小さな錠剤を口に含む。睡眠薬。
それがないと、次の日が来るのが怖くてたまらなかった。
カチッカチッという時計の秒針が刻む音を聞きながら、ふわふわとした揺らぐ眠気が訪れるのを必死に待った。
三十分もしたころだろうか。ようやく瞼が重くなり、強制的な眠気の中へともぐりこんでいくことができるようになった。
――眠りに落ちる直前、ふと駅前の花屋で見た光景を思い出す。
色とりどりの花が、整然と並んでいた。
どれも元気そうに見えたけれど、根はどこにもなかった。
水と肥料と活性剤。
『生きているように見えるように』維持された命。
――ああ、そうか……あれ、私じゃん。
無理やり元気そうに見せられている。
根も、土も、もうここにはない。
***
今日も、朝起きて、薬の副作用でぼんやりしたまま職場へ向かう。
エレベーターの鏡に映った自分が、やっぱり誰だか一瞬わからなかった。
電車に揺られながら、スマホに視線を落としSNSをつらつらとめくり続ける。
同僚がSNSにアップしているランチの写真が目に入った。
『#社会人ライフ #やりがい #オフィスライフ』そんなタグ付けがされたその投稿が、どうしても白々しい嘘に見えてしまう。
ふと気になって、スマホで自分の昔の投稿を遡った。
――ブリーチした髪に、ライブ会場でのはしゃいだ写真。
ピアスをたくさんつけて、笑ってるあの子。
――ああ。あの子は、もういない。
***
その日、仕事帰りに足が勝手に向いたのは、お盆前に見かけた駅前の花屋だった。
ふらっと入った店内は、どこか懐かしい匂いがした。色とりどりの花々が、整然と並んで今か今かと誰かの想いを乗せるその時を待ち構えている。
そのまま、何を目的にするでもなく店内を見回っていると、一本だけ、少ししおれた虹色のバラがあった。ちょうど通りかかった花屋の女性がそれに霧吹きをかけながらちらりとこちらに視線を向ける。
「ああ、この子、少し元気がなくなってきちゃってね」
少し困ったように眉を寄せた女性は虹色のバラに視線を向けなおした。
優しくそっと茎をつかみ花の位置を整え直した。
「――でもね。ちゃんと手入れすれば、まだ咲くのよ」
私に向かって語り掛けるように、女性がそう言って霧吹きを掲げて見せた。
「見た目だけじゃわからないでしょう? でも生きようとする力って、すごいのよ」
そういって、少しだけ口元に優し気な笑みを浮かべ直す。
――咲けるの? ほんとに? まだ?
その日、私は、その花を買って帰った。
帰宅途中、花を傷つけてしまわないよう、大事に大事に抱え込むように持ち帰った。
花瓶なんてものない部屋を漁り、ようやく見つけ出したコップに水を入れて、そっと挿す。
テーブルの上に置いた花を無心で見つめた。
蛍光灯の光を受けた花が、無機質な光を少し柔らかく反射し返している。
いつまでも、いつまでもその姿を見つめていた。
今の自分にとっては、それだけが精一杯の祈りだった。
***
翌朝、出勤前に耳に小さな透明ピアスを入れてみた。少し小さくなっていた穴に無理やりピアスを入れると痛みが走り、わずかに血がにじんだ。
本当はバレたらまずいのかもしれない。でも、誰も気づかないかもしれない。
ほんの少し髪を下ろして、化粧もいつもより少しだけ濃くした。
駅のホームに立つ自分を、スマホの反射で覗き見た。
――まだ、ちゃんと自分がいる。
会社では、何も変わらない。
数字を追って、電話に出て、資料を作る。上がってきた原稿をチェックして、現場に渡す。
現場の担当者が怒鳴り込んできて、叱責をされる。
でも、自分だけは少しだけ、確かに変わっていた。
ああ――
『三年は頑張れ』なんて、いったい誰の安心のための言葉だったんだろう。
私が咲けない場所で枯れていくのを、誰のために正当化してたんだろう。
夜、部屋に帰って、机に目をやる。
花瓶の虹色のバラが、ほんの少しだけ力強く花びらを開いていた。
『まだ、生きようとしてる』
私はノートパソコンを開いて、「履歴書 テンプレート」で検索を始めた。
どこかに、ちゃんと根を張って咲ける場所があると信じて。