第6章
翌朝。
俺は、昨日とはまったく違う人間になっていた。
満員電車は相変わらず地獄だったが、もはや苦痛は感じない。
俺の視界には、ドミネーターが映し出す、乗客たちの無数のデータが乱舞していたからだ。
彼らはもはや、ただの不快な肉塊ではない。
俺の分析対象となる、興味深い「データソース」に過ぎなかった。
テクノロジアのオフィスに足を踏み入れた瞬間も同じだ。
昨日まで俺を圧迫していた重苦しい空気は、今や心地よい狩場の匂いへと変わっていた。
俺は、捕食者。
そして、このフロアにいる全員が、俺の獲物だ。
自席に座り、PCを起動する。
その時、フロアの向こう側で、聞き慣れたダミ声が響き渡った。
「だから、お前の案は具体性が足りないって言ってるんだよ! 分かるか!?」
見ると、田中部長が、入社二年目の若いエンジニアをネチネチと詰めている。
昨日、俺がやられた光景とまったく同じだ。
だが、今の俺には、その光景はまったく違って見えていた。
俺は、すっとドミネーターに意識を集中させる。ターゲット、田中部長にロックオン。
瞬間、俺の視界の右側に、半透明のウィンドウがポップアップした。
田中の顔の横に、リアルタイムで変動するパラメータが表示される。
《TARGET: TANAKA, KOJI》
《STRESS LEVEL: 35% (LOW)》
《EMOTIONAL STATE: 優越感 60%, 支配欲 30%, 苛立ち 10%》
「分かりやすい奴だ」
弱い者いじめをして、快感に浸っている。
まさにクズの典型。だが、俺が本当に知りたいのは、そんな表面的な感情じゃない。
俺は、ドミネーターの機能を切り替える。
『――PSYCHO-SCAN、実行』
俺の網膜に、青いスキャンラインが走るイメージが浮かぶ。
次の瞬間、田中のパラメータが、より深層的なものに書き換わった。
《PSYCHO-ANALYSIS RESULT》
【不安: 70%】
【隠蔽欲求: 85%】
【自己保身: 92%】
【恐怖(露見): 78%】
俺の口元が、自然と吊り上がっていくのが分かった。
この男、常に何かに怯え、何かを必死に隠そうとしている。
この高い隠蔽欲求と、露見することへの恐怖。
これこそが、俺が探していた、奴の「弱点」だ。
では、その隠しているものを、白日の下に晒してやろうじゃないか。
俺は、静かに席を立った。
コーヒーを淹れるフリをして、給湯室へと向かう。
その途中、ターゲットである田中のデスクのすぐ真横を、ごく自然に通り過ぎる。
『――INFO-HUNTER、起動。ターゲット、田中部長の所持デバイスに接続』
ドミネーターが、俺の命令を忠実に実行する。
視界の隅で、小さなウィンドウが開き、猛烈な勢いでログが流れ始めた。
《SCANNING NEARBY DEVICES... 3 FOUND》
《TARGET 1: TECT-01-MOBILE (SMARTPHONE)... VULNERABILITY DETECTED》
《TARGET 2: TECT-01-LAPTOP (PC)... VULNERABILITY DETECTED》
《EXPLOITING... ACCESS GRANTED》
《FILE SYSTEM... FULL ACCESS PERMISSION ACQUIRED》
あまりにも、あっけない。
ものの十数秒で、俺は田中が持つデバイスの完全な支配権を手に入れていた。
俺は給湯室でコーヒーを淹れ、自席に戻る。
そして、何食わぬ顔で、自分の仕事に取り掛かるフリを始めた。
俺の意識は、視界の片隅に表示された、もう一つのウィンドウに集中していた。
それは、田中のPCのデスクトップ画面そのものだ。
俺は、念じるだけでファイルを閲覧し、メールを盗み読み、プライベートなメッセージを覗き見ることができた。
ここから先は、地道なデータマイニング作業だ。
俺は、田中が過去に申請した経費の精算データを、奴のメールボックスとスケジュール帳、そしてプライベートなSNSの投稿と一つ一つ突き合わせていく。
……あった。
『クライアントA社様との懇親会費』として申請された、一件十五万円の領収書。
だが、同日の田中の妻のSNSには、家族で高級フレンチを楽しんでいる写真が、ご丁寧にアップされている。
写真に写り込んだワインの銘柄と、領収書の明細が完全に一致。真っ黒だ。
……まだある。
『新規プロジェクト視察』として申請された、週末の温泉旅行。
だが、その日に送られた愛人と思しき女とのLINEのやり取りには、「今日の露天風呂、最高だったね」「次はどこに連れてってくれるの?」などと、情事の生々しい記録が残っている。
さらに、俺は奴の業務データにも手を伸ばした。
過去のプロジェクト報告書を漁ると、出るわ出るわ、部下の手柄の横領の山。
若いエンジニアが書いた独創的なコードや、俺自身が過去に作成した画期的な設計図が、いつの間にか「発案者:田中部長」として、役員向けの資料に堂々と記載されている。
俺は、一つ一つ、動かぬ証拠をキャプチャし、ドミネーター経由で俺だけがアクセスできる匿名のクラウドストレージへと転送していく。
怒りは感じなかった。
ただ、冷たい、絶対的な確信だけが、俺の胸に満ちていく。
――勝てる。
◇
夕方、終業時刻を迎える。
田中は、何も知らずに、鼻歌交じりで帰る支度をしていた。
今日のパワハラショーで、さぞ満足したのだろう。
俺の視界に映る奴のステータスは、【満足度: 80%】【ストレスレベル: 15%】。実に幸せそうだ。
だが、その幸せも、あと数分で終わる。
俺は、完璧に整理された「証拠」という名の爆弾を抱え、静かに立ち上がった。
そして、会社のメッセンジャーを使い、田中に、極めて丁寧な一文を送る。
『田中部長、お疲れ様です。昨日のバグ修正の件で、至急ご報告したい事項がございます。お部屋に伺ってもよろしいでしょうか』
すぐに、返信が来た。
――罠にかかったな、愚かな獣め。
俺は、冷たい笑みを浮かべながら、支配者の権能を試すべく、最初の処刑場へと、静かに歩き出した。