第5章
自宅アパートの安物のカーテンの隙間から、朝の気配が忍び寄ってくる。
だが、俺の部屋は、まだ深夜の闇を引きずっていた。
六畳一間の、どこにでもあるワンルーム。
床には脱ぎ散らかした服や技術専門書の山が築かれ、机の上には、食べかけのコンビニ弁当の残骸と、空のエナジードリンク缶が転がっている。
お世辞にも清潔とは言えない、典型的な独身男の城だ。
その城の主である俺は、昨夜から一睡もしていなかった。
目の前には、俺の人生を変えるであろう「支配者」――ドミネーターが、その心臓部を惜しげもなく晒している。
「……信じられない」
吐息と共に、言葉が漏れた。
俺は、精密ドライバーを片手に、ドミネーターの内部構造を食い入るように見つめていた。
昨夜、あの不気味な保管庫から持ち帰って以来、俺はずっとこいつの解析に没頭していたのだ。
まずはハードウェア。テンプル部分のカバーを外すと、そこには米粒ほどの大きさのカスタムチップセットが整然と並んでいた。
なんだこの実装密度は。
民生品のレベルを遥かに超えている。
搭載されているCPUのアーキテクチャは、俺の知るどの商用製品とも異なり、明らかに軍事技術の系譜を引くものだ。
そして、レンズと一体化したセンサーアレイ。
単なる高解像度カメラやマイクじゃない。
赤外線サーモグラフィ、レーザーマイクロドップラー、果ては超広帯域の電磁波センサーまで組み込まれている。
馬鹿げている。こんなオーバースペックな代物が、なぜテクノロジアの地下に眠っていた?
だが、真の驚きは、ソフトウェアの解析を始めてからだった。
俺は自作の解析用端末にドミネーターを有線接続し、そのファームウェアの深層へとダイブした。
デバイスに仕掛けられた幾重ものプロテクトは、今の俺の、怒りと興奮でブーストされた集中力の前では、無いも同然だった。
そして、俺は見た。神の設計図を。
「……これがあれば、俺の人生が変わる」
その確信は、メニュー画面に表示されていた各機能のソースコードを読み解くうちに、絶対的なものへと変わっていった。
心理解析モード『PSYCHO-SCAN』。
これは、ただ相手の表情を読むだけじゃない。
センサーアレイが捉えた相手の瞳孔の動き、声帯の微細な振動、心拍数、血流の変化、発汗量、体表温度といった膨大なバイタルデータをリアルタイムで統合分析し、相手の感情――喜び、怒り、悲しみ、そして恐怖――を99.8%の精度で数値化する。
さらに、言語野の活動パターンから、嘘や隠蔽の確率まで弾き出す。
まるで、人の心に直接デバッガを突き立てるような、恐るべき機能。
情報収集モード『INFO-HUNTER』。
これも、そこらのハッキングツールとは次元が違う。
近距離の無線通信を総当たりで解析し、あらゆるデバイスの脆弱性を自動で突く。
スマホのロック解除、PC内のデータ窃盗、IoT家電の乗っ取り。
さらには、主要なクラウドサービスに仕込まれた、開発者ですら知らないはずのバックドアへのアクセス権まで有している。
これはもはや、デジタルの世界における万能のスケルトンキーだ。
そして、極めつけは……。
洗脳誘導モード『MIND-CONTROL』。
俺は、このコードを見つけた時、さすがに背筋が凍った。
これは、SFやファンタジーの産物ではなかった。
神経科学と認知心理学に基づいた、極めてロジカルな技術の結晶だ。
視覚情報を司るレンズから、人間の意識では捉えられないサブリミナル映像と、聴覚を司る骨伝導スピーカーから、脳が最も影響を受けやすい特定の周波数の音波を送り込む。
それを継続的に行うことで、ターゲットの思考パターンに介入し、特定の感情を増幅させたり、偽の記憶を植え付けたりすることすら可能になる。
「信じられない……心理解析、情報収集、そして、洗脳誘導……」
俺は、呆然と呟いた。
これは、兵器だ。人の心を支配し、社会のルールさえも書き換えることが可能な、現代の魔法。
俺は、無意識のうちに笑っていた。
最初は微かな笑みだったが、それは次第に大きな、抑えきれない哄笑へと変わっていった。
「は……はは……ははははは! なんだ、そういうことか!」
俺は全てを理解した。
このドミネーターこそが、俺がずっと求め続けていた「力」そのものだったのだ。
俺を罵倒した田中部長。
彼の弱みはなんだ? PSYCHO-SCANで丸裸にし、INFO-HUNTERで不正の証拠を掴めばいい。
俺を嘲笑った山田や先輩たち。
彼らの隠している秘密やコンプレックスは? 同じように、根こそぎ奪い取ってやればいい。
そして、俺を心の底から侮辱した、あの白石美咲。
彼女のあの完璧な仮面を、MIND-CONTROLで内側から破壊してやればいい。
俺への絶対的な愛情と服従心を、その美しい頭脳に直接、刻み込んでやればいいのだ。
復讐への具体的な計画が、パズルのピースがはまるように、次々と頭の中に組み上がっていく。
それは、技術者である俺にとって、最も得意とする作業――完璧なプロジェクトの設計だった。
窓の外が、白み始めている。新しい一日が、始まろうとしていた。
俺は、完全に解析を終えたドミネーターを、再び元の美しい姿に組み上げた。
その黒く滑らかなボディは、まるで夜明け前の空の色を映しているかのようだ。
俺は、それを手に取り、ゆっくりと自分の顔にかける。
視界に、再びクールなUIが起動する。
昨日までの俺は、もういない。
今日から俺は、支配者だ。
冷たく、そして自信に満ちた笑みが、俺の口元に浮かんだ。
さあ、始めようか。
「最初のターゲットは、もちろん――田中部長、あなたですよ」
俺の、壮大な復讐のプロジェクトが、今、静かに始動した。