第4章
地下二階。その空気は、地上のオフィスとは明らかに異質だった。
ひんやりと肌を刺すような冷気と、古い電子部品と埃が混じり合った、独特のカビ臭い匂い。
長い廊下の天井では、いくつかの蛍光灯が寿命を迎え、チカチカと不気味な明滅を繰り返している。
その頼りない光が、俺の不安をさらに煽った。
目的の「第三試作品保管庫」は、廊下の最も奥にあった。重々しい鉄製の扉に手をかけ、錆び付いたハンドルを力任せに回す。
ギィィィ……という、ホラー映画の効果音みたいな耳障りな音を立てて、扉がゆっくりと開いた。
中は、想像通りの光景だった。
金属製の無骨な棚が迷路のように立ち並び、その上には、日の目を見ることなく開発が中止された、無数の試作品の残骸が眠っている。
かつては最先端技術の結晶として、多くのエンジニアの情熱と希望を一身に背負っていたであろうそれらは、今や分厚い埃をかぶり、ただ静かに忘れ去られるのを待つだけのガラクタの山だ。
ここは、テクノロジアの夢の墓場だった。
「さてと……どこにあるかな」
俺はスマホのライトを頼りに、目的の資料が保管されているはずの区画へと進む。
プロジェクト名が書かれた段ボール箱を一つ一つ確認し、中を漁っていく。
古いケーブル、基盤が剥き出しのデバイス、分厚い設計図の束。
どれもこれも、俺が探しているものではなかった。
「クソ、なんでこんな面倒なこと……」
悪態をつきながら、棚の最上段に手を伸ばした時だった。
指先に、他の段ボールとは明らかに違う、滑らかな感触の箱が触れた。
プラスチック製だろうか。
埃もほとんど被っておらず、まるで最近ここに置かれたかのようだ。
不審に思いながらも、俺はその箱を棚から下ろしてみる。
それは、黒一色の、極めて洗練されたデザインのハードケースだった。
有名ブランドのロゴでも入っていそうな、高級感のある佇まい。
このガラクタの山の中では、あまりにも異質すぎる存在だ。
エンジニアとしての好奇心が、疲労と警戒心を上回った。
俺は、恐る恐るケースの留め具を外し、ゆっくりと蓋を開ける。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
「……これは……」
ケースの中には、精密にくり抜かれた黒いウレタンフォームが敷き詰められ、その中央に、スマートグラスが鎮座していた。
「……なんだ、これ。こんなデザイン、見たことないぞ」
俺が知る限り、社内で開発中のどのデバイスとも違う。
世に出ているどの製品とも違う。
それは、無駄を一切削ぎ落とした、機能美の塊だった。
軽量なチタン合金と思しきフレーム、レンズと一体化した、ほとんど目立たない小型カメラ、そしてテンプル部分に刻印された文字。
【DOMINATOR】
ドミネーター。支配者、か。
大層な名前だ。
俺は、何かに憑かれたように、そのグラスをそっと手にとった。
驚くほど軽い。まるで、自分の体の一部になることを想定して作られたかのように、手にしっくりと馴染む。
気づけば、俺はそのグラスをかけていた。
次の瞬間、俺の視界の右上に、淡い青色の光が点滅した。
《SYSTEM BOOTING...》
《MODEL: DOMINATOR Ver. 7.0 Prototype》
《CALIBRATING RETINAL SCAN... COMPLETE》
目の前に、半透明のヘッドアップディスプレイが浮かび上がる。
まるでSF映画の世界、いや、それ以上だ。
視界を邪魔しない絶妙な透過率、目の動きに寸分の狂いもなく追従するポインター。
これは、俺が理想として追い求めてきた、究極のマンマシンインターフェースそのものだった。
視界の端に、いくつかのメニューアイコンが並んでいるのが見える。
【PSYCHO-SCAN - OFFLINE】
【INFO-HUNTER - STANDBY】
【WEAKNESS-ANALYZER - INACTIVE】
【MIND-CONTROL - LOCKED】
「……え……?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
サイコスキャン? インフォハンター? マインドコントロール……だと?
なんだ、これは?
俺の脳が、エンジニアとしての本能が、猛烈な速度で思考を始める。
これらの名前が意味する機能を推測し、その恐るべき可能性に思い至った瞬間、全身の血が沸騰するような興奮が、背筋を駆け上がった。
夢中でデバイスを調べていると、ふと、保管庫の外、長い廊下の向こうの暗闇で、何かが動いたような気がした。
「……!?」
俺は弾かれたように顔を上げ、ドミネーターを外す。
心臓が、警鐘のようにドクン、ドクンと激しく脈打つ。
気のせいか? こんな深夜に、俺以外の誰かがいるはず……。
俺は息を殺し、開いたままの鉄の扉の隙間から、廊下の暗闇を睨みつけた。
遠い。遠すぎて、はっきりとは見えない。
だが、そこに確かに、誰かが立っていた。
非常灯のぼんやりとした逆光で、黒いシルエットだけが浮かび上がっている。
すらりとした、長身の……女?
スタイリッシュなビジネススーツを着ているように見える。
その人影は、ただ静かに、こちらを――俺を見ているようだった。
まるで、俺がこのデバイスを見つけるのを、ずっと待っていたかのように。
全身に、悪寒が走った。
見られている。
これは、偶然じゃないのか?
俺が恐怖で身動きできずにいると、その人影はすっと身を翻し、音もなく、廊下の闇の中へと溶けるように消えていった。
……今の、は……誰だ?
いや、考えるな。
疲れているんだ。幻覚だ。そうに違いない。
俺は、震える手でドミネーターを慎重にケースに戻すと、それを自分のビジネスバッグの奥深くに押し込む。
そして、本来の目的だった古い仕様書を数枚ひっつかむと、まるで何かから逃げるように、その不気味な保管庫を後にしたのだった。