第3章
窓の外は、とっくに漆黒の闇に支配されていた。
眼下に広がる渋谷の街は、眠ることを知らないかのように無数のネオンを煌めかせ、まるで巨大な電子回路基板のようだ。
その光の洪水が、このビルのガラス窓をぼんやりと照らし出し、俺の孤独な影を床に長く引き伸ばしている。
時刻は、午後十時をとうに過ぎていた。
広大なオフィスフロアに、生命の気配はない。
数時間前まであれほどうるさかった電話の呼び出し音も、同僚たちの無駄話も、田中部長の不快な怒声も、今はすべてが嘘のように静まり返っている。
聞こえるのは、部屋の隅で唸りを上げる巨大なサーバーラックの冷却ファンの音と、壁の時計が時を刻む、カチ、カチ、という無慈悲な音だけ。
そして、俺がキーボードを叩く、乾いた打鍵音。
「……また残業か」
俺は誰に言うでもなく、自嘲気味に呟いた。
俺は、とっくにぬるくなったエナジードリンクの最後の一滴を呷り、空になった缶をぐしゃりと片手で握り潰した。
冷たいアルミニウムの歪む鈍い音が、静寂に満ちたオフィスの中で、やけに大きく、そして虚しく響き渡った。
なぜ、俺だけがこんな惨めな思いをしなければならないんだ?
俺は、この仕事が好きだ。心から。
複雑に絡み合った難解な問題を、美しいロジックの刃で鮮やかに解きほぐしていくプロセスに、純粋な、何物にも代えがたい喜びを感じる。
目の前のPCモニターに表示されている、何千行にも及ぶ俺が書いたコード。
それは、どんな高名な芸術家が描いた絵画よりも機能的で、合理的で、そして俺にとっては美しいとさえ思える作品だ。
俺には、才能がある。技術がある。
それは、この世の誰が何と言おうと、揺るがすことのできない絶対の事実のはずだった。
なのに、現実はどうだ。
その技術の価値を1ミリも理解しようとしない、権力欲だけの無能な上司に日々罵倒され、ビジネスごっこに明け暮れる口先だけの同僚に足を引っ張られ、そして、氷のように冷たい瞳を持つ高慢ちきな秘書に、存在そのものをゴミ扱いされる。
いっそ、辞めてしまおうか。
そんな考えが、ここ数ヶ月、何度も頭をよぎっては消える。
だが、辞めてどうする?
この会社のネームバリューがなければ、俺の経歴など大した価値はない。
家賃も、光熱費も、奨学金の返済も、待ってはくれない。
結局、俺はこのテクノロジアという名の巨大な監獄から、逃げ出すことすらできないのだ。
情熱と現実の、あまりにも大きなギャップ。
それが、鉛のように重く、冷たく、俺の肩にのしかかっていた。
「……いつか、見返してやる」
静寂を切り裂くように、俺の低い声がオフィスに染み込む。
それは、今日一日で、もう百度以上は心の中で繰り返した、復讐の誓いだった。
だが、今この瞬間、たった一人きりのこの空間で口にしたその言葉は、かつてないほどの質量とリアリティを帯びていた。
もう、ただの負け犬の遠吠えじゃない。
これは、俺の魂が刻む、未来への契約だ。
俺は椅子からゆっくりと立ち上がり、一日中同じ姿勢で固まっていた背中を思いきり伸ばす。
バキバキ、ゴキゴキと、全身の骨が悲鳴を上げた。
さて、と。感傷に浸っていても、腹は膨れないし仕事も終わらない。
田中に押し付けられた、あのクソみたいなバグを修正するには、どうしても必要な資料がある。
旧世代の試作デバイスに関する、ハードウェアの物理仕様書だ。
二年前に開発が凍結された、いわば会社の黒歴史のようなプロジェクトの資料で、社内サーバーのどこを探してもデータが見つからなかった代物。
確か、関連する物理資料はすべて、地下二階にある試作品保管庫にアーカイブされているはずだった。
こんな夜更けに、好き好んで薄暗い地下室に行きたい人間などいるはずもない。
正直、気味も悪い。
だが、これをやらなければ、明日もまた、俺は田中の怒声で一日を始めなければならなくなる。
それだけは、もうご免だった。
俺は自分のデスクのPCをロックすると、カバンを肩にかけ、非常灯だけがぼんやりと灯る、静まり返った不気味な廊下へと足を踏み出した。
カツ、カツ、と俺の安物の革靴の音だけが、やけに大きく、そして規則正しく響き渡る。
その音はまるで、俺の未来を正確に刻む、運命のカウントダウンのようだった。