第2章
田中の怒声が耳の奥でまだ反響している中、俺は必死に目の前のモニターに意識を集中させていた。
カタカタとキーボードを叩き、複雑怪奇なコードの森をさまよう。
この没頭している瞬間だけが、俺を惨めな現実から解放してくれる。
だが、無情にもデスクトップの右下にポップアップが表示された。
【定例会議:次期アップデート機能提案】
【出席者:田中部長、白石秘書、他】
最悪だ。忘れていた。
今日は俺が新機能の提案をする日じゃないか。
部長と、そしてもう一人、俺が最も苦手とする人物の前で。
俺は重い足取りで会議室へと向かう。
自席から会議室までの短い道のりが、やけに長く感じられた。
広大なオフィスフロアには、俺と同じようなエンジニアが蟻のようにひしめいている。
このテクノロジア株式会社は、「最先端のAIソリューションを開発する企業」として世に知られ、従業員数は約3000名。
その巨大な組織の中で、俺なんてただの歯車の一つに過ぎない。
いや、歯車ですらない、いつでも交換可能なネジかワッシャーといったところか。
たどり着いたのはガラス張りの壁に囲まれた、いわゆる「見せる」ための会議室だ。
バカでかいテーブルが中央に鎮座し、その周りには俺を見下すためだけに用意されたような、座り心地の悪そうな椅子が並んでいる。
空調が効きすぎているのか、部屋の空気はひどく冷え切っていた。
すでに席には数人のメンバーが揃っていた。
俺と同期入社のくせに、いつも上司に媚びへつらって生きている山田。
表面上は優しい言葉を使いながら、その実、俺の技術を完全に見下している先輩の女性エンジニアたち。
そして――部屋の空気を一人だけ支配している、あの女。
白石美咲。CEO直属の秘書。
寸分の狂いもなく着こなされた高級ブランドのスーツ。
完璧にセットされた、艶のある黒髪。
知性と冷たさを同時に宿した、切れ長の瞳。
まるでAIが作り出したかのような完璧な美貌を持つ彼女は、俺たち技術部の人間とは明らかに異質だった。
なぜ秘書が技術会議に? その答えは誰も知らない。
だが、彼女の一言が、プロジェクトの方向性をいとも簡単に変えてしまうことを、俺たちは知っていた。
彼女は、この会社の影の権力者の一人だ。
「それでは、佐藤くん、お願いするわね」
先輩の一人が、猫なで声で俺にプレゼンを促す。
俺は深呼吸一つして、ノートPCをプロジェクターに接続した。
スクリーンに、俺が心血を注いで設計したシステムの概念図が映し出される。
「……えー、本日ご提案しますのは、ユーザーの行動履歴をディープラーニングで解析し、潜在的なニーズを予測して最適なUIを自動生成する、パーソナライズド・インターフェース機能です。この技術の根幹は……」
最初は声が上ずったが、自分の専門分野の話になると、自然と口が滑らかになる。
これだけは、俺が誰にも負けないと自負している領域だ。
この機能が実現すれば、ユーザー体験は飛躍的に向上し、テクノロジアの製品は競合他社を圧倒できる。
俺は確信していた。
しかし、俺の十五分にわたる熱弁が終わった瞬間、待っていたのは称賛ではなく、冷ややかな沈黙だった。
最初に口火を切ったのは、同期の山田だった。
腕を組み、わざとらしく天井を仰ぎながら、さも「分かっている」風な口調で言う。
「うーん、佐藤さんの案ってさ、いつも理想論すぎるんだよね。技術的には面白いかもしれないけど、マネタイズの視点が欠けてる。それ、実装するのにどれだけ工数がかかると思ってるの? 費用対効果、考えた?」
出た、ビジネス用語でマウントを取るだけの男。
てめえは一行もコードが書けないくせに、よくもまあ偉そうに。
続いて、先輩女子エンジニアたちが追い打ちをかける。
「そうねぇ、コンセプトは素敵だけど、現実的じゃないわよねぇ」
「私たちのリソースも無限じゃないし、もっと地に足のついた改善案からじゃないかしら」
四方八方から飛んでくる、丁寧な言葉で包装された否定の弾丸。
俺の提案は、あっという間に蜂の巣にされていた。
だが、本当の地獄はこれからだった。
それまで黙って爪先を眺めていた白石美咲が、ふっと、鼻で笑った。
そのたった一つの仕草で、会議室の空気がさらに凍りつく。
彼女はゆっくりと顔を上げ、憐れな虫でも見るかのような目で、俺を上から下まで値踏みするように見つめた。
「あらあら、技術者さんは、ご自分の考えたものが世界一素晴らしいって信じて疑わないのね。ビジネスの現実が、まったくお分かりになっていないようだわ」
その声は、鈴の音のように美しかったが、絶対零度の冷たさを帯びていた。
技術者さん、という呼び方。
そこには、俺という個人への敬意など微塵も含まれていない。
ただ、「そういう分類の生き物」として、完全に下に見ていた。
俺は、顔に血が上るのを感じた。
何か、何か言い返さなければ。
このまま黙っていたら、俺の技術者としての魂が死んでしまう。
「し、しかし、この技術のポテンシャルは――」
「ポテンシャル? そんな不確かなものに、会社のリソースは割けませんわ。もう少し、私たち『凡人』にも理解できるような、地に足のついたお話をしていただけるかしら?」
彼女が「凡人」という言葉を口にした時、その唇が楽しそうに歪んだのを、俺は見逃さなかった。
彼女は楽しんでいるのだ。
俺のような、技術しか取り柄のない人間を、完璧な論理で完膚なきまでに叩きのめすことを。
会議は、俺の提案が満場一致(俺を除く)で却下される形で終わった。
メンバーたちがぞろぞろと退出していく中、俺は席を立つこともできず、ただ呆然とスクリーンを眺めていた。
その時だった。
すっ、と花のようないい香りが鼻先をかすめた。
白石美咲が、俺のすぐ真横を通り過ぎていく。
そして、他の誰にも聞こえない、悪魔のような囁き声が、俺の耳に直接注ぎ込まれた。
「……キモいオタク」
世界から、音が消えた。
時間が止まった。
全身の血が逆流するような、強烈な衝撃。
それは、田中部長に罵倒された時の、単なる怒りとはまったく質の違う、魂の核を直接抉りの取られるような、絶対的な屈辱だった。
彼女は、俺の全てを否定したのだ。
俺の仕事も、情熱も、存在そのものも、たった五文字の言葉で、ゴミ箱に叩き込んだ。
振り返った時には、彼女の完璧な後ろ姿が、会議室のドアの向こうに消えていくところだった。
俺は、テーブルの下で固く拳を握りしめていた。
爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む。
痛みさえ、今の俺には心地よかった。
(絶対に許さない……お前のその完璧な笑顔を、絶望と屈辱で歪ませてやる。そのプライドをズタズタに引き裂いて、俺の足元で這いつくばらせてやる……)
田中への怒りが、ただの子供の癇癪に思えるほどの、黒く、冷たく、そして底なしの復讐心が、俺の心の中で静かに産声を上げた。