すごく昔の話①
「昔の話を聞かせてよ、クリム」
隣に座るスクエラが僕に顔を寄せる。彼女の髪が腕にふれる。石鹸の匂いがした。
昔の話。
そう言われて思い出したことがある。
この世界に転生してくる前のこと。誰かとこんな風に並んで話をした気がする。
ああ、そうだ。そういえば、そうだった。
あまりにおぼろげな記憶しか残っていないから、すっかり忘れていた。
スクエラには話せない、誰にも話せない、転生する前の秘密の記憶。
懐かしい匂いをかいだような、そんなかすかな感触。
僕はほんの瞬きの間に、転生する前の記憶を一つ思い出したのだった……。
***
「また、手柄を横取りされてましたね、先輩」
僕は苦笑した。
喫煙者は喫煙室へ行けば堂々と休憩できる。ただあいにく、僕はタバコを吸わないので喫煙室を利用できない。
だから代わりに休憩スペースの自販機でコーヒーを買ってベンチに座ってそれを飲んでいる。これなら割と堂々としていい気がする。できるだけちびちび飲むことでより長く休憩できる。
ただし、後輩がきて思わぬ出費となることもある。今の僕のように。
「そういうこと言うもんじゃないよ。誰かに聞かれたら困るだろ?」
「聞かせてやればいいんです!」
「相変わらず元気だね」
「どうしてそんな平気な顔していられるんですか? 私なら、もう、何発もぶん殴ってますよ」
「それはよかった。暴力沙汰は大ごとだからね」
「軽口はいいです。答えてくださいよ」
「別に出世とか興味ないよ。僕は定時で帰ってゲームがしたいんだ。仕事は楽しいこともあるけど、あまり出世すると大変だからね。ああやって横取りしてくれるなら、ありがたいもんだよ」
「……」
「あの、ごめん。そんなに、にらまないでよ……」
「どうして先輩が謝るんですか、もう……」
彼女は僕の後輩だ。新人教育のときは僕が指導していた。以来、なにかと頼みごとをされている。席も近いし、年も近いからだろうと推測している。
「あの人、社長の息子だから誰からも注意されないんですよ。上の人だって、きっとわかってるのに……」
「そこまでわかってて、怒ってるんだ?」
「わかってるから、怒ってるんです!」
「荒れてるねえ」
僕はコーヒーを一口飲んだ。彼女が荒れているときは、だいたい仕事が大変なことになっている。ここは逆に、攻めてみよう。
「ところで、君の仕事は順調?」
「へ!? あ、えっと、じゅ、順調ですよ……?」
さっきまでの勢いはどこへやら。急に視線は泳ぎ回り、口元は形が定まらなくなった。確認するまでもない。図星だ。
「この後、見てあげようか?」
「いいんですか!? ……あっ、また、煙に巻くつもりですね、先輩」
「見なくていい?」
「……お願いしますぅ」
僕は笑ってコーヒーの残りを飲み干した。
***
「おーい、戻ったか」
彼女が詰まっていた箇所にアドバイスをして、ついでに目についた要修正箇所を十か所ほど指摘して席に戻ると、例の社長の息子に声をかけられた。直属ではないが、一応階級は上で、上司に当たる。
「なんですか?」
「ちょっとこっち来てくれ。こっち」
「……?」
僕は手まねきされるまま、彼の机の近くに行った。彼は僕に耳を寄せるようにジェスチャーした。
「あのさ、君、あの子と仲良いのか?」
社長の息子は「後輩」の名前を耳打ちした。
「よく一緒に休憩してるよな」
「ええまあ。教育したのが僕だったので。それなりに」
「仕事帰りに飲みに行ったり、するのか?」
「はい。たまに。今日も飲みに行きます」
「いいなあ、モテモテだな」
「愚痴を聞いてるだけですよ」
「けっ、そうかい。まあいいや。じゃあな」
そういって、彼は「帰れ」とばかりにしっしっと手を払ってみせた。僕は会釈して自席に戻った。
ぞんざいな態度を取られたことに対するイライラは、パソコンのスリープを解除している間に、頭の中からおいやった。そうして冷静になった後で、ふと疑問がわいた。
彼はどうして僕を呼んだのだろう。
特になにか特別な話をしたわけではなかったと思うけど……。
しかしそんな疑問も、やりかけの仕事が画面に表示されたことで優先順位が落ちた。
まあいいか。
僕を呼んだ理由を忘れてしまったのだろう。




