異質な人
父上が家庭教師のリセマラをつづけている間、僕は一人で黙々と勉強することを強いられた。
一人での勉強は気楽だが、当然のことながら過酷だった。
教本はあるが、そもそも僕は五歳である。本を読むのには相当な集中力が必要なのだ。ただでさえ叫び声で集中力が削がれる状況で、これは苦行でしかない。
おまけに、教本の記述もわかりにくい。とても五歳児に読ませるような内容ではない。当たり前だ。ここに書かれているのは七歳児が学ぶ内容だし、そもそも先生が読むための本である。子供じゃない。
というわけで、僕の勉強はただただ精神力を摩耗するだけの不毛な作業となり果てた。これを三か月くらい真面目にやり続けたことについては、自分の根性をほめてやりたい。
最近の僕はというと、勉強の時間中にこっそり屋敷を抜け出すようになっていた。もちろん全く勉強しないわけではないが、「ああもうこれ以上は無理だな」と思うと外で散歩することにしていた。どのみち休憩は必要だし、休憩を考慮していない父上が悪いのだ。何度言っても聞き入れてくれないし。人類に休息は必要なのである。
……時々、自分のことがよくわからなくなる。
今だってそうだ。僕は、どうも、おかしい気がする。こんなことを自分で思うのもおかしいとは思う。でも、おかしいとしか言いようがない。
まず、自分が五歳である、という認識があまりにも、なんというか確定され過ぎている。「普通の」五歳児ならこれくらいはできるだろう、とか、これは無理だろう、というような推測ができる。そして、スクエラについてはおおむね外れない。自分には当てはまらないが、自分は例外だということも計算した上でこれくらいはできる、という推測をしているのだ。
要するに、父上に「期待し過ぎです!」と文句をいうための理屈なのだ。
不気味である。
五歳でありながら、自分をここまで客観視できるものだろうか。
そう。「客観視」だ。そもそもこんな言葉は聞いたことがない。聞いたことがない言葉が思考の中に混ざりこんでいる。極めて自然な形で。
不気味だ。
考えれば考えるほど不気味なのだ、僕は。
寄生虫かなにかに、頭の中をうろちょろされているのではないだろうか。それくらい異質なものを抱えている気がする。
僕は一体、何者なんだろうか……。
「こんにちは。なにか悩み事ですか?」
僕はびっくりして顔をあげた。
見知らぬ男が立っていた。背は驚くほどに高いが、威圧感のようなものはまるでない。大木というよりは小枝、という感じの男だった。
男は穏やかな笑みをうかべて、同じことを質問した。
「ずいぶんお悩みのようですが、大丈夫ですか?」
「……大丈夫、です……。あの、あなたはどなたですか?」
「え、はあ、申し遅れました。ええと、はじめまして。ラグランといいます」
ラグランと名乗った男はおもいきりよくお辞儀をした。そのせいで背負っていた巨大なリュックが飛んできた。僕はすんでのところで避けたが、ラグランはリュックの遠心力に引っ張られたのか、地面に頭をぶつけていた。
「うっ、重いっ、すみません、失礼は承知ですが、その、助けていただけると、ありがたいです。ああ、でもご迷惑でしたら、このまま捨ておいていただいても、一向に―――」
「助けます、助けますから!」
僕はあわててラグランを助け起こした。
「いやあ、申し訳ない」
ラグランはなにがおかしいのか、顔を土まみれにして笑っている。
「お恥ずかしい所をお見せしてしまいました」
「いえ、それはいいのですが、あの……」
僕は数歩さがって、ラグランをもう一度じっくりと見た。
さっきは思わず助けてしまったが、やはり初めて見る顔だ。
そして、周囲に我が家の使用人の姿はない。
今、僕とラグランが立っている場所は、ただの遊歩道ではない。誰でも歩いていい場所ではない。
ここはホワイト家の敷地内である。
我が家の許可のないものは立ち入りできない。客人であっても、よほど親しくない限りは必ず使用人が同伴する決まりだ。
「……ここがどこなのか、わかっていますか?」
「おお、そうなんです。実は私、迷子になってしまって、困っていたんです!」
やはりラグランは笑顔だった。にこにこしながら両手をぶんぶんと振り回して自分が迷子であることを訴えている。
それにしても、ほとんどずっと笑顔なのに、作り物のような感じはしない。まるで子供のような無邪気さを感じる。
ラグランは続けた。
「ホワイトさん、という御宅をご存じですか?
そちらへお伺いしないといけないのですが……」
「……こちらです」
僕はとりあえずラグランを案内することにした。
彼が害意のある侵入者であろうとなかろうと、護衛たちのいる兵舎へ案内すればいい。
侵入者なら何も問題ないし、そうでなくても謝れば済む。
「君はこの近くの子ですか?」
「え、ええまあ、はい」
「ずいぶんと身なりがいいですね。あ、ひょっとして、ホワイトさん宅のお子さんとか?」
「ち、違います!」
僕はあわてて否定した。
万が一、悪意のある侵入者だったら大変だ。人質にされる。
それにしてもこの人、どう見ても抜けてるくせにけっこう勘がいい。
「僕は、その、お母さんがここで働かせてもらっているんです」
「おや、そうだったんですか。それは失礼しました。しかし、本当に上等な服ですね。高いものでしょう」
「こ、これは……、坊ちゃんの服です。いま、取り換えっこして遊んでいまして……」
「ふふふ」ラグランは含み笑いをした。「悪い子たちですね」
僕とラグランはしばらく黙って遊歩道を歩いた。
木々の合間からわずかに木漏れ日がさしている。
僕は少し目を伏せてその光を目で追いながら歩いていた。
「……なにを悩んでいたんですか?」
唐突にラグランは質問した。
僕はラグランを見上げた。
ラグランは今までで一番薄い、かすかな笑顔をうかべていた。
「そんなに悩んでいるように見えますか?」
「ええ。君のような表情をうかべている子は初めて見ました。これでも、子供の表情には敏感な方だと思っていたのですけどね」
ラグランは立ち止まって、身をかがめた。
またリュックが反転して、顔面が地面にめりこむ。
僕はまたラグランを助け起こした。
「ありがとう」
ラグランは前髪から土をはらいながら申し訳なさそうに笑った。
「また恥ずかしい所を見られてしまった」
ラグランは手に一枚の葉っぱを持っていた。
それをくるくると回している。
僕はそれをみて、変なイメージが浮かんだ。
椅子に座ってくるくる回っている男のイメージだ。
ラグランのように笑っていたような気がする。
「どうしました?」
「いえ」僕は首をふった。「木漏れ日が少しまぶしくて。それはなんですか?」
「この葉の名前ですか? さあ、なんでしょうね」
ラグランは微笑んだまま、葉っぱを回して遊んでいる。
「生き物というものは、不思議ですよね。どうしてこんな形をしているんだろう?」
「さ、さあ、どうしてでしょう」
「木々も、虫も、実におかしな形だ。きっと必死で生きてきた積み重ねが、彼らを少しずつおかしな形にしたのでしょうね。バラバラで美しい」
「……」
「悩むのはいいことです」
また唐突にラグランは言った。
実にあっけらかんと。
一切重みを持たずに放たれた言葉だった。
「君が懸命に生きているという証拠ですよ」