ガラスの皇子
「……元気そうね、ビスキュイ」シャルロット様は真っ青になった顔で言った。「……なにしに、来たの?」
「元気そうに見えますか、姉上」
ビスキュイ殿下は杖を床にたたきつけるようにして歩きながら言った。穏やかな表情と優しい声をオブラートにして、むきだしの憎悪をくるんでいるようだ。
「なんでもいいでしょう。王宮は僕の家のようなものですから。姉上がいらしていると聞いたので、うかがいました。お邪魔でしたか」
「そんなことないわ」シャルロット様はいくらか平静を取り戻したらしい。「会えて嬉しいわ、ビスキュイ」
「……」ビスキュイ殿下は黙って口元に笑みを浮かべている。
重い。ひたすらに空気が重苦しい。
ふと、ビスキュイ殿下が僕に目をむけた。まるで天使が憑依したキャリオ様ににらまれたようなプレッシャーを感じる。
「はじめまして、君が姉上の新しい執事さんですか」
ビスキュイ殿下はあくまでもにこやかだ。
ベル嬢が僕の隣からすっとさがる。ああ、置いていかないでください。
「目はどうしたんですか?」
「ちょっと、呪われていまして。人目には見苦しいので、隠しているのです」僕はつとめて落ち着いて答えた。
「見せてくれませんか?」
ビスキュイ殿下はわざとらしいほどの笑顔で言った。
そのとき、天使が初めて僕から目をそらした。ビスキュイ殿下へ視線をむけているようだ。その目はまるで「何を言っているんだ、こいつ?」と言わんばかりだった。天使に常識を疑われるとは、恐るべし、ビスキュイ殿下……。
僕が返事をしようとしたとき、シャルロット様が割り込んだ。
「ビスキュイ、私の執事に命令しないでちょうだい」
「命令してません。お願いしただけですよ」
「同じことよ」
「……。ははは、失礼しました」ビスキュイ殿下は笑顔を崩すことなく、片手を上げた。「姉上が雇ったというから、どんな色男なのか確かめようと思いまして」
「人聞きが悪いわね。私はマスクの下を見てないわよ」
「気になりませんか?」
「余計なお世話だわ」
「相変わらず潔癖ですね」
「私は余計だと言ったのよ、ビスキュイ」
「……」
ビスキュイ殿下は無言で微笑んだまま、杖をカンカンとリズミカルに叩いた。それはどうやら別れの挨拶だったらしい。そのまま、身体をゆっくりと反転させる。
「どうもお呼びではないようですね。私はこれでお暇します」
「そう……」
シャルロット様は唇をきつく結び、まるで怒っているかのように眉間にしわを寄せている。
でも少なくとも、僕とベル嬢はわかっている。
この表情は他者への怒りではない。これは、自分への怒りの表情だ。ビスキュイ殿下がそれを見抜いているかは、わからないが……。
ビスキュイ殿下は最後、すれ違いざまにじろっと僕の方をみた。笑みを消して、あらゆるものを憎んでいるような表情を一瞬見せる。
「姉上をよろしく」
僕にしか聞こえない声で低くそう言うと、ビスキュイ殿下は聖堂を出て行った。相変わらず憎悪に満ちた杖の音を響かせて。
***
ビスキュイ殿下の姿がみえなくなって、僕たちは全員ほっと安堵のため息をついた。全員、肩に力が入っていた。全員が恐怖を覚えていたのだ。
ほぼ一分近い沈黙の後、最初に口を開いたのはシャルロット様だった。
「……驚いたでしょう、クリム。ごめんね」
僕は首をふった。すぐには声が出なかった。ビスキュイ殿下に最後に言われた言葉が整理できない異物のように頭の中にこびりついて、思考力を奪っていた。
まるでガラスだ。
割れたガラスの破片を握りしめ、笑顔を浮かべて近づいてきた、そんな印象を受けた。少しでも気をぬけば破片で斬りつけられるような。あからさまに怒っているのではなく、笑顔だったから余計に怖い。次の行動が予測できないからだ。
「ビスキュイ殿下は、相変わらず、ね」
キャリオ様が言う。彼女はよろよろと椅子に腰かけ、震える手で小鳥を膝の上にのせ、両手で包むようにしてなでている。
「やっぱり、私は殿下が、怖いわ……」
「……」
シャルロット様は眉間にしわをよせて黙っている。怒っているわけではないだろう。この表情はたぶん、後悔だ。
僕はビスキュイ殿下が最後に言った「姉上をよろしく」をシャルロット様に伝えるべきか、迷った。
迷って、黙っていることにした。シャルロット様が喜ぶとは思えなかったからだ。シャルロット様はたしかにビスキュイ殿下を愛していらっしゃるだろう。それは今この瞬間も変わらないはずだ。
けれど……、最後の言葉はあまりに異質だ。僕のように混乱するだけではないだろうか……。
それに、喜んでいいのかどうかもわからない。
ビスキュイ殿下の言葉がシャルロット様を思っての言葉かどうか、わからないからだ。判断できない。それほど、あの言葉の声色は冷たかった。
……それとも、僕はビスキュイ殿下に嫉妬しているのだろうか。
自分も殿下のように愛されたいと願っているのだろうか。
献身に見合う報酬を、無意識に求めているのだろうか。
「どうかしたのですか、クリム・ホワイト?」ベル嬢が顔を寄せて小声で言った。
「……え」
「顔色が悪いようですが」
「よく僕の顔色がわかりますね」
これは皮肉ではなかった。僕の顔の上半分はアイマスクで隠れている。顔色を読むのは相当難しいはずだ。
しかし、ベル嬢は呆れたように鼻を鳴らした。
「やれやれ……。あなたは気づいていないようですが、シャルロット様について悩んでいるときのあなたは、非常に、わかりやすいですよ」
「非常に?」
「非常に」ベル嬢はうなずいた。
「……」
「クリム・ホワイト、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です」
僕は、この問題を保留することにした。【冷静】を使っても平常心を取り戻せない今、考えても仕方ない。時間をおいて考えても解決はしないだろうが、それでもいいと思う。いたずらにシャルロット様たちの心を揺らす必要はない。置いておこう。とりあえず、ビスキュイ殿下の人物像が僕の中で出来上がるまでは……。




