家庭教師のリセットマラソン
ほどなくして、家庭教師の先生が我が家にやってきた。
「やあやあこんにちは、クリム君。それでは今日の授業を始めましょうか」
決まってそう言ってから授業を始める先生だった。
この先生の授業は、僕にとって耐えがたく苦痛だった。この先生は学問全般を教えてくれる人だったのだが、なにせひたすら教本を読み上げるばかりなのだ。
僕は先生の隣で、ひたすら教本を音読する。
「聖暦312年に、史上初となる魔術師が王である国が誕生した……。あの、先生、ここの記述ですが……」
「なにかな」
「父上の書物に、西暦200年頃には、東方ですでに魔術師が王となった事例があるという記述があったように思うのですが、これはどちらが正しいのでしょうか?」
「クリム君」先生は顔をしかめていた。「そんなことはどちらでもいいんだよ。教本に書いてあることを覚えておけばいいんだ。余計なことは考えず、読みつづけなさい」
「……はい」
万事この調子だった。
僕はなんだか納得がいかなかった。
勉強とはこういうものなのだろうか。ただひたすら本にかかれていることを覚えるばかりなのか。
勉強とは、教本になることなのだろうか。
こんなことを一週間も考え続けて疲れた僕は、ついに意を決して父上に直談判した。
「父上、その、一人で勉強してはいけませんか?」
「は?」
父上は困惑し、僕に疑いの目をむけた。実際「サボるつもりなのか?」とすら口にしたが、あまりに僕が食い下がるので、しぶしぶながらも授業を見に来てくれることになった。
父上は忙しいので、わざわざ授業の時間を夜遅くにずらしてもらった。
さて、その授業でいつものように僕は質問をした。
「先生、ここの計算はこういう風にやってはダメなのでしょうか?」
「ダメだよ」
「どうしてですか?」
「教本にその方法は書かれていないからだ」
「ですが、正解が出せますし、計算のステップも少なく……」
「いや、ダメだ」
「……はい」
みしり、と物音がしたので、僕がちらりと父上を見ると、父上はこめかみに青筋を立てていた。万力のような力をこめて拳を握りしめ、こちらをにらんでいる。
あわわ、先生に口答えしてはいけなかったのだろうか……。
「先生」虎がうなるような声で父上は言った。「あなたは今日限りでクビです。明日からは来なくてよろしい」
先生はあごが外れるほど口を開いてみせた。
それは実に滑稽な表情だったが、笑うことはできなかった。
僕も同じ表情だったからだ。
***
「というわけで大変なんだ」
「ふーん、そんなことがあったのね。だから一人で本読んでるんだ」
僕は算術の問題を解きながら、スクエラとおしゃべりしていた。
先日の「クリムに家庭教師をつける!」という一件以来、スクエラはご機嫌斜めだった。「お義父様のおっしゃる通りだわ! あなたのせいで私まで叱られちゃったじゃない!」と。
別に叱られたわけではないと思うが、僕のせいで父上に諫められてしまったのは事実だ。僕はどうにかこうにかスクエラの機嫌をとって元通りおしゃべりができるくらいまでこぎつけていた。
「父上も極端だよ。なにも追い出さなくたっていいのに……」
「でも、一人で勉強してる方がマシなんでしょ?」
「まあね」
僕は頬杖をつきながら教本をパラパラとめくった。
相変わらず叫び声は聞こえている。胸はざわざわし続けている。気が散って仕方ない。スクエラとおしゃべりしているのも、そのせいだ。叫び声のせいで集中なんかできやしない。だったら、おしゃべりしていたって大差はない。
「じゃあ、もう、家庭教師はつけないの?」
「いや、そういうわけでもないよ。父上はもう完全に火がついてるんだ。家庭教師はつくさ」
「でも、もう一か月も経つじゃない。家庭教師ってそんなに少ないの?」
「……少ないんだろうね」
父上のお眼鏡にかなう先生が。
これは兄上から聞いた話だが、最初の先生の一件で、どういうわけか、僕の評価が向上したらしいのだ。以前は僕のことを「ちょっと頭がいいかも」くらいに思っていた父上が、僕のことを天才や神童のように思ったらしい。
理由は皆目見当もつかない。
青筋を立てていた時に血管が切れて記憶が改ざんされたのではないだろうか。
それくらいしか思いつかない。
まあ、そういうわけで父上の教育パパぶりに火がついてしまった。
家庭教師の募集は継続している。ただし、授業をする前に父上との面接があるのだ。すでに両手の指で数えられないほどの先生が返り討ちにあっていると聞いた。
僕の知らないところでそんなことが起こっていたとは……。
と、最初に聞いた時には戦慄をおぼえたものだが、これは好機かもしれなかった。このまま先生が見つからなければ、自分のペースでだらだら勉強を続けることができる。
父上の思うような天才ではないにしろ、無理に急ぐ必要はない。のんびり勉強していても生きていける程度の教養は身につけられるだろう。
だいたい、五歳から勉強なんてそもそも気が早すぎるのだ。
こういう風なことを考えると、僕の中の叫び声はますますひどくなる。きっと僕の怠け心に反応しているのだろうが、文句があるのなら黙ってくれればいい。そうしたら思う存分勉強してやってもいいのに。
……一体全体、この叫び声はなんなのだろうか。