契約結婚の相手を本気で好きになってしまったので
「提案説明をさせてください」
大真面目に唐突なお願いをした私に、私の夫であるラミリアン様は戸惑うことなくうなずいた。
……こんなにすぐ了承してもらえるとは思っていなかったから、逆に私のほうが戸惑ってしまう。
こほんと咳払いをして、私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
現在の時刻はお昼。二人で昼食を食べ終え、一息ついていたところだ。ラミリアン様はこの後もお仕事があるのだから、もたもたしている暇はない。
使用人たちに下がってもらってから、話を切り出す。
「ではまず、前提として。私たちは二年間限定の契約結婚をしており、来月その期限を迎えますね」
「ああ」
「これから私は、我々は離婚すべきでない、という主張をさせていただきます。何か疑問点がございましたら、最後にまとめてお願いいたします」
「……わかっ……た?」
――私とラミリアン様は、契約結婚をしている。
男性嫌いの私と、女性嫌いのラミリアン様。両者共にもちろん結婚などしたくないわけだが、私はそろそろ行き遅れと呼ばれる年齢になって周りがうるさかったし、ラミリアン様はお父様のご病状が悪く、すぐにでも結婚して安心させたかったのだという。なお、ラミリアン様は伯爵家の三男であり、お兄様方にはすでにお子様がいらっしゃる。跡取りの問題とはほとんど関係ない。
見合いで引き合わされた際、私は男性が苦手、はっきり言ってしまえば嫌いなのだと打ち明けた。失礼な女だと、向こうから断られることを狙って。
しかし驚いたことにラミリアン様も同じようなことを打ち明けてくださり、けれどそれでも、どうしても結婚したい理由があるのだとおっしゃった。
『ついては、二年間限定の契約結婚、という形はいかがだろうか』
『……詳細をお聞かせ願えますか』
ラミリアン様のお父様の余命は、どれほど長く見積もっても一年。(実際、結婚から半年ほどで亡くなられてしまった)
また、貴族の離婚が認められるようになってからそれなりの年数が経っているものの、いまだに外聞が悪い。すぐ離婚するとなるとなおさらだ。
だからこそラミリアン様は、二年という期間を提示した。
一度離婚をした女性は、再婚が難しい。これを言い訳にして、ずっと独身でいることも許されるのではないか。周囲を騙すことになるのは心苦しいけれど、本当にどうしても、男性と結婚したくない。
そう考えた私は、ラミリアン様の提案を受け入れたのである。
が、しかし。
…………ラミリアン様は非常に見目麗しい。そして優しい。裏がない。気遣いができる。距離感を間違えることがない。声が素敵。頭脳明晰。笑った顔が可愛らしい。
何が言いたいのかというと、私はなんと、信じられないことに、ラミリアン様に恋をしてしまったのだ。できることなら離婚なんてしたくない。
だから私は、こうして主張することにしたのである。
「――離婚しない利点とは何か? 一つ目、再婚をせっつかれることがありません。私はともかく、男性であるラミリアン様は周りから再婚を勧められることでしょう。私と結婚したままでいれば、その煩わしさを味わう必要はございません」
これにはラミリアン様も納得してくださったようで、こくりとうなずかれる。……ただの相槌かもしれないけれど。
「二つ目。私の近くにいたり、長時間話したりしても、蕁麻疹が出ませんね? つまり、ラミリアン様にとって私は家族も同然。妻として不都合なく傍に置くことができます。私が嫉妬深いことにでもしてしまえば、他の女性とのやりとりは極限まで減らすことができるでしょう」
ラミリアン様の女性嫌いは私の男性嫌いよりも深刻で、一定以上関わると蕁麻疹が出てしまうほどだった。例外はお母様と妹様のみ。
けれど私に対しては、一度も発症していない。最初のころは最低限の関わりで済まし、それから徐々に、本当に徐々に共に過ごす時間を長くしてきたおかげだろう。
「……三つ目」
実のところ、私と離婚しない利点なんてこの二つくらいだろうと思う。くらい、といってもその利点がとても大きいはずなのだけど。
しかしわざわざ提案説明と言って打ち出すからには、せめて三つは利点がないと格好がつかない。
この三つ目が果たして利点と言えるのかは少々自信がなく、ラミリアン様からそろりと視線を逸らしてしまった。
「わ。……わ、私は。非常に、可愛いです」
ふっ、とラミリアン様が小さく吹き出した。その笑顔にときめくと同時に、羞恥で顔が熱くなる。
「ラ、ラミリアン様だって可愛いとおっしゃったことがあるではないですか! 今までに三回も!」
「ふふ、数えていたのか?」
「わざわざ数えていたわけではありません! 嬉しかったから覚えていただけです! そして疑問点は最後にまとめてお願いいたします!」
「うん、口を挟んでしまってすまない」
にこにこと微笑むラミリアン様とは対照的に、私はぎゅうと眉をひそめてしまう。……照れ隠しだ。
だって、たった三回言われた「可愛い」を大切にしていたことがばれたのだ。正確には自分からばらしてしまったのだけど。
「……私が可愛いことは、おそらく客観的事実です。家族や使用人たちからの褒め言葉を真に受けるほど愚かではありませんが、その他の方々からも大変可愛らしい、お美しいとよくお褒めの言葉をいただきます。お世辞だと思うには頻度が高すぎます。つまり、私は、か、可愛いのです」
「そうだな」
「そうだな!?」
「ただの相槌だから気にせず続けてくれ」
「……可愛いということは、見ていて癒されるということでしょう。可愛い私が傍にいれば、ラミリアン様も癒されること間違いなしです。きっと。これは多大なる利点です」
それなら犬や猫でも飼う、と言い出されてはたまらないので、私は勢いよく続けた。
「以上より、私と離婚すべきでないと主張させていただきます!」
ふむ、とラミリアン様は口元に手を当てた。難しい顔をしているように見えて、口元は緩んでいる。
……これがだめだったら、何か別の方法を考えなくてはならない。どうか、わかったと言ってくれますように。
願うように思いながら、私はどきどきとラミリアン様の答えを待った。
そしてラミリアン様がおもむろに口を開く。
「あなたは、私のことが好きなのか?」
「大好きですけど!?」
――つ、つい反射的に叫んでしまった。
慌てて閉じた口は、ふわりと嬉しそうに笑ったラミリアン様の可愛さに、ぽかんと再び開ける羽目になった。
「どうして好きになってくれたんだ? あなたも最初は、私のことを苦手に思っていたはずだろう」
「ど……どうして、と訊かれましても」
口ごもりながら、視線を泳がせる。
「理由はたくさんありますが、一番のきっかけは、雷雨の夜、私が寝つけるまで同じ部屋で過ごしてくださったこと……です」
雷の音が、昔からどうにも恐ろしくて苦手だった。
それに気づいたラミリアン様が、雷雨の夜にそっと傍にいてくださったのだ。本当に、ただ傍にいるだけ。ベッド脇でもなく、部屋の片隅に椅子を置いて、そこで本を読んでいた。
……メイドのほうが安心できるならメイドをつけようかと問われ、それでもラミリアン様にお願いしたのは私だ。結婚しているのにわざわざメイドにお願いするのは、私たちの仲を怪しまれてしまうかもしれない。
夫婦だからもちろん同じ寝室は用意されていたが、それまでは私だけが使っていて、ラミリアン様は密かに私室で眠っていた。同じ部屋で夜を過ごすのは初めてだった。
ラミリアン様に弱みを晒さないよう立ち回っていたのに、気づかれた挙句にそんなことをされて。
明確にラミリアン様への気持ちが変わったのは、きっとあの夜だろう。そこから少しずつ、いろんなものが積み重なって、恋へと変わっていった。
「ラミリアン様も、女である私の傍で長時間過ごすことになるのは嫌だったでしょう。それでも私の気持ちを慮り、ご自身のお気持ちよりも優先してくださったことが、申し訳ないと同時に嬉しくて……」
「……それはあなたも同じことだろう。あなたはあのとき、メイドを選んでもよかったんだ。不仲であることが露見して困るのは私だけなんだから」
「いいえ、私たちは互いの合意のもとに『契約』結婚をしたのです。ラミリアン様が困る状況はまったく望ましくありません」
私はきっぱりと首を横に振った。契約をしたのだから、お互いの目的に沿った行動をする義務がある。
「……あなたはとても、責任感が強い方だ」
「そう、でしょうか?」
「ああ。そしてとても可愛らしい」
「そっ……そうでしょう……!」
なんだろう、一体これは何が始まったの?
動揺しながらも胸を張ってみせれば、ラミリアン様はくすりと可憐に笑った。顔立ちそのものは男性らしい格好良さがあるというのに、笑うと可憐にさえ見えるのは不思議な現象だった。
「うん。そして時々、とても突拍子もなくて面白い」
「……褒められていますか?」
「もちろん。そう聞こえなかったらすまない」
「いえ、ありがとうございます」
「ふ、はは、どういたしまして」
なぜかラミリアン様はおかしそうに笑って、目を細めた。
「リゼット」
「はい」
「――私も、あなたが好きだよ」
「……は、い?」
すべての音が遠くなったような気がした。視界がきゅっと狭くなって、ラミリアン様しか見えなくなった。
「そんなにいくつも理由を並べ立てなくても、『好き』の一言さえもらえれば、離婚なんて絶対しないのに」
「ひゃ……?」
「いや、何も伝えずに離婚するつもりだった私が言えることではないな……すまない、リゼット」
「い、いえ?」
「あなたのことが好きだ」
「…………」
「これから、本当の夫婦になってくれないか?」
ほんとうの、ふうふ。
さてそれはどんな意味を持つ言葉だっただろうか。体中が熱くて、頭が回らなくて、上手く考えられない。
「……すぐに答えを出せなくても構わないよ。あなたが私を好きになってくれたのは、私があなたのことを好きではない、という考えが前提にあったからかもしれない。私から好かれている、ということを気持ち悪く感じないか、恐ろしく感じないか、よく考えてくれ」
ラミリアン様は優しい顔で、そんなことをおっしゃった。
気持ち悪く? 恐ろしく?
感じる、わけがないのに。
「っ……よく考えていなければ、こんな提案をするわけがありません! 私の恋心を一番信じられなかったのは私なんですから!」
――私の男嫌いの原因は、お父様にある。
お母様は、お父様のことを深く愛している。けれどお父様は、きっとそれほどお母様のことを愛していないのだろう。お母様に笑顔を向けているところを見たことがないのだから。そして愛人が多く、私のきょうだいには庶子も多い。
貴族の男性が愛人を持つことは、特別咎められることではない。褒められることでもないが、それなりに一般的なことだ。
でも、でも。
お母様は、あれだけ一途にお父様を愛しているのに。お父様にひどいことを言われるたびに、隠れて泣いているのに。どうすれば昔みたいに笑ってくれるかしらと、頭を悩ませているのに。
お母様があまりにもかわいそうで、私はお父様のことが嫌いになった。そこで男という存在自体を嫌いになるのは視野が狭いかもしれないが、染みついた気持ちが薄れることはなかった。
男性と関わりたくなかった。傷つけられたくなかった。恋をしたくなかった。
それでも私は、ラミリアン様に恋をした。恋をしているのだと、認めるしかなかった。
ラミリアン様のことを考えるだけで心が浮ついて、お顔を見るだけで歌い出したくなって、それで。
――この方も私のことを好きになってくださらないかな、と思ってしまったから。
「わ、私……すごく、嬉しいのです。あなたも、私のことを好いてくださっているのだと知って……」
声が震えた。涙が滲んでいるとは思いたくなかった。
「気持ち悪くなどありません。怖くもありません。私はあなたが思うよりずっと、あなたのことが、大好きなんです。許可をいただけるのなら、今すぐあなたを抱きしめたいくらいに!」
「いいよ」
「えっ」
驚いた拍子に、ぽろりと涙が落ちてしまった。
ラミリアン様は椅子から立ち上がって、両手を軽く広げた。
「私も許されるなら、あなたのことを抱きしめたいと思っていた」
「え、そ、わっ……」
「……私から抱きしめても?」
「だめです、私からです!」
思い切って、ラミリアン様の胸に飛び込む。ぎゅっ、と私よりも広いその背に腕を回す。
温かい、というより熱い。私の熱でラミリアン様が溶けてしまわないか、一瞬だけ本気で心配になってしまった。
「だ、大丈夫ですか? 蕁麻疹は出ていませんか?」
「ああ、大丈夫。心配してくれてありがとう」
「気分が悪くなったら離れますから、すぐにおっしゃってくださいね」
「……私も、あなたが思うよりあなたのことが好きなのだが」
顔は見えないけれどむっとした声音で言われて、「す、すみません……」と謝る。その謝罪が照れで上擦ってしまったのは、ラミリアン様にも伝わっただろう。
ラミリアン様と触れ合ったのはこれが初めてだった。
心臓、心臓が、これはどうなってるんだろう。自分の心音がいまだかつてないほど大きくて速くて、このまま死んでしまわないか不安になった。
「……ラミリアン様、好きです」
「うん。私も好きだよ」
「きっ……聞こえないかと、思ったのですが」
「どうして?」
「私の心臓の音が大きすぎるので……」
ラミリアン様は少し黙り込んで、「たぶんそれは私の心音だな」と照れたように訂正した。